趣味は引用
続きなんだろうか

 先週、2日に分けて書いたフアン・ルルフォ『ペドロ・パラモ』の感想を補足して、1冊の小説を繰り返し繰り返し読みその世界にぴったり「馴染んだ」読者にとっては、作中で死んでいる者も生きている者も区別がなくなる、死ぬ人間はいずれ死ぬ人間として現れ、こちらの知っている通りに死んでいく、その死において彼(彼女)は生きているのと変わらなくなるのかもしれない、で、翻って『ペドロ・パラモ』ははじめからそういう設定だった、死者は当たり前のようにふらふらと町を歩いている、これをもって、再読に再読を重ねた読者でないとたどり着けないような境地が、この小説ではいきなりあっけらかんと開かれている――
 というふうにまとめるのは、いま自分で書いていてもなんだか「まとめすぎ」であるように思われる一方で、書くまでもない自明のことであるような気持も捨てがたい。もう私にはわからない。確かなことは、『ペドロ・パラモ』が560円で買えることだけか。

 いや、もうひとつ確かなことがあった。
「小説の全部分を記憶する」とか「小説を生きる」とかいった考え方の元は、まるごと保坂和志だ。

『小説の自由』(新潮社)のなかでこの人は、ラテンアメリカの小説でもっとも有名なガルシア=マルケス『百年の孤独』の読み方について書いている。
 ある一族の百年に及ぶむちゃくちゃな歴史がえんえん語られるあの長篇は、ただでさえ登場人物が多いうえに同じ名前の人間が世代を越えて何人も出てくるから読者はぜったいに混乱する。そういうふうにできている。そこで保坂和志が言うのには、《名前の混乱もまた作者の戦略の一つなのだ。》
《「戦略」といっても読者をただ混乱させることが目的なのではない。混乱したときに前のページを辿り直すと、「このアウレリャノはどのアウレリャノか」ということがわりと簡単に確認できる。書いている作者は当然、そういうところで混乱しないで書いているのだから、混乱しそうになったところで前のページを読み返せば読者も混乱しないですむ。つまり私が「戦略」と言った意味は、もう一歩踏み込んで、「混乱しないようにするために、一冊の小説をただ真っ直ぐに読まないで、読み終わったページに何度も戻らせるための戦略」という意味である。
 系図を目で見ることによって、「このアウレリャノは三代目のアウレリャノだな」と、ふつう私たちは確認したつもりになるわけだけれど、それによっていったい何を確認しているのだろうか。[…]小説の登場人物を記憶することは自分の人生で出会ってきた人たちを記憶するように記憶することであって、時間軸にそって並べることではないし、作品世界を図式化してその図式のどこかに配置することでもない。》

 そのように行きつ戻りつして記憶しながら読むことが、読者に「小説を書く」のに近い体験をもたらす(!)点で『百年の孤独』は稀有の作品だ、といった方向に話は進む。過激だ。はじめから人物表やメモを作る用意をして小説を読む私なんかは怒られそうである。
《一人一人のアウレリャノがどういう人で彼が何をしてきたかを憶えていれば、何人アウレリャノが出てきても混乱はしない。そういう風に記憶していくためには、『百年の孤独』は一回真っ直ぐに通し読みしただけではダメで、読み終わったところを何度も何度も読まなければならない。
 効率が悪い? そういう読み方は効率が悪い?
 読書とは効率とは無縁の行為だ。「一晩で読んだ」「一気に読んだ」という、本の宣伝文句がよくあるけれど、これくらい読書という行為の価値を殺すものはない。読書は単位時間あたりの生産性を問われる労働ではないのだ。》『小説の自由』pp154-5

 効率の道を踏み外して本を読む人がやたらとまぶしく見えるのは私だけか。ここで思い出すのはこの人もすごかったということである。
(さらに、その保坂和志と宮沢章夫のふたりが雑誌で対談したことがあるという情報までは宮沢サイトのサイト内検索で発見したのだが、当の「i feel」はどこなら入手できるのか)

 読書の道は険しい。かくて、効率を求める私は今日もメモを取りながら『デス博士の島その他の物語』を読んだのだった。なんだこのまとめ。


小説の自由小説の自由
(2005/06/29)
保坂 和志

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百年の孤独百年の孤独
(1999/08)
G. ガルシア=マルケス

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