趣味は引用
スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
フアン・ルルフォ『ペドロ・パラモ』 2/2

前回…

 この小説の姿は、1回めではごちゃごちゃして見通しがきかない、と私は書いた。「小説の姿」とはまた曖昧な言い方だが、私がわかりたいと思っているそれは、作中の人間関係と、さまざまな出来事が起こる時間的な順序、といったくらいのものである。
 このふたつをある程度把握して読み返すとき、初読の際の「読みにくさ」は、一転してこの小説への「身近な感じ」を生む。
 はじめはよくわからなかったからこそ、今度は見当がつくことが快感になる――と言い換えればどこまでも平凡だが、やっぱりこれが『ペドロ・パラモ』の中に入る唯一の鍵なんじゃないかと思う。

 実際に紙とペンで人物表を書くかどうかはともかく、注意しながら読めば、1回めの読書でも、登場人物の関係はわかる(当たり前だ。本に書いてあること=1回めで目に触れること、が彼らのすべてなんだから)。
 ただし2回めになると、その関係図がひと通りあたまに入っているので、ある人物が初めて登場するシーンでも、それが誰で、ほかの誰と、どのような関係をもつのかまで見当がつく。だから読むのは格段に楽になる。
 どんな小説でも2回めはそうなるに決まっているが、「楽になる」のがすなわち「より面白く読めるようになる」なのかどうかは一概にはいえない。
『ペドロ・パラモ』が特異なのは、作者が2回読まれることを信じて、2回めの読者のために書いているにちがいないと確信されることである。2回めのほうが、圧倒的に面白い。どうしてそうなるのか。

 もう何度か書いたように、この小説は、過去と現在を行ったり来たりする構成になっていて、前のページよりあとのページで描かれる出来事のほうが時間的に古い、といった類の混乱が巧妙に作られている。この混乱は、1回めでは小説の把握を阻む壁である。
 それが2回めの読書では、「いま初めて出てきたこいつは、そうか、むかし○○と××をして、これから△△と◇◇をするあいつじゃないか」という、複雑な(しかし、混乱を乗り越えた)納得が起こりうる。つまり2回めでは、人間関係だけでなく、この「出来事の起こる順序」についても見当がつくのであり、この納得が続くうちに「あきらめもつく」、そして「別のかたちを受け入れる」に至る。どういうことか。

 ここまで私がしてきた、時おりブロックごとに時間が前後する、という物言いは、あくまで「過去 → 現在」と流れる時系列を前提にしている。けれども、この小説の各ブロックを並べ替えて「正しい」順序に整理するのは、本当は無理なのである。
 それはじつは1回めからわかっていたことで、たとえば「現在」にいる誰かがほかの誰かに「過去」のエピソードを語っている場合、そのブロックを単純に「過去」に置いて済ますことはできない。語りの状況からすればそれは「現在」だと考えるしかないし、それでも内容は「過去」のことなのだから、どちらに置けばいいのかといえば、もちろん、どちらにも置けない。
 それで読者は、過去のエピソードも現在のエピソードも、整理できないまま、並列的に受けとめていくしかない。時間の順番をつけようとすると嘘になるのだから、一緒くたに呑み込むしかないのだ。1回めからそんな読み方をするのはちょっとしんどい(だから、代わりに私はメモを取った)。

 それが2回めになると、どのエピソードも前に読んだものなので、これはアレだ、こっちはあの話の続きだったんだ、というふうに、順番を追うわけでもなく見当がつく。ここで読者は、というか私は、1回めでは負担だった「一緒くたに呑み込む」ことが、自然にできかけている自分に気付く。するとこの小説には、時間の流れとは別の流れがたしかに流れているのが見えてくる。
 不思議なことなのか、それともぜんぜん不思議ではないことなのか、その流れとは、ページの順にほかならない。

 絵画なら、ひとつの世界を丸ごと提示できる、と思う。もちろん、受け取る側が全体を見るにはある程度の時間が必要になるにせよ、提示じたいは一挙になされうる。しかし小説の場合は、文章という素材と本という形態をとる限り、受け取る側は1行ずつ順番に読み、1ページずつ順番にめくっていくしかないから、作者は、人間関係もエピソードの連なりも、丸ごととはいかず、どうしても、少しずつ見せていくほかない。
 そこで野心的な作者はいろいろ工夫する。極端にいえばこの『ペドロ・パラモ』は、再読させることで、この小説についての読者の記憶を、当の小説世界の構築に援用する。一度読んでいるために、2回めは「少しずつ」ではなくなっている。
 私が「2回め」「2回め」といっているのは説明のための便宜的なもので、本当はまだ足りない。あと3回くらい読み返し、小説内のあらゆる地所、あらゆる出来事、あらゆる会話とうわさ話を記憶しきったとき、『ペドロ・パラモ』の世界が、「丸ごと提示」に近いかたちで、読者である私のあたまの中に入ったことになるのではないか。そして、『ペドロ・パラモ』が私のあたまに入るとは、私が『ペドロ・パラモ』に入るのと同じことである。
《その晩、いつもの夢がまたも繰り返された。どうしてこんなにしつこくたくさんのことを思い出さねばならないのか。なぜ死んだことだけでなく、過去のあの日々のあの甘い調べまでも思い出さねばならないのか。
 「フロレンシオが亡くなったよ、奥さん」》p168

 登場人物が過去を回想すると、そのエピソードを、読者の私も思い出す
 彼らの記憶は私の回想になる。いつか自分は、時間の混線にも人間関係のごちゃつきにもつまずかずに、それらの全部を、かつてそこにあったものとして、つねにそこにあるものとして、呑み込むことができるのではないか。それこそ、目をつぶっていてもどこに何があるのか完璧にわかる自分の家の中を歩き回るように、この小説の中を進んでいけるのではないか。小説の世界を「身近に感じる」、何が起きるか「見当がつく」というのは、究極的にはそういうことだと思う。
 そしてそのうえでやってくるだろう心持を、私は予想できる。というか、2回めの読書の途中でさえ、なかばそれを感じはじめていた。こういうことだ。

「このコマラという町のことを、私も知っている。ここに生きて死んでいった人たちのことを、私も知っている。この小説を私も生きている」。

 実際にそうなるまでこの小説に付き合うかどうかは別として、そんな夢を一瞬でも読者に抱かせるのが、作者の最大のねらいなのである。たぶん。

《明け方になって、人びとは鐘の音に起こされた。十二月八日の朝だった。どんよりと曇っていた。寒くはなかったが、空は雲に覆われていた。まず教会の大鐘が鳴った。ほかのがそれに続いた。荘厳ミサを知らせる鐘だろうと人々は思った。ドアを開けて顔を出す者もいたが、とっくに起きている連中だった。そう多くはいなかった。連中はいつも早くから目を覚まし、夜明けの鐘が夜の終わりを告げるのを待った。だが、その朝の鐘はいつもより長く鳴りつづいた。もはや中央教会の鐘だけではなかった。サングレ・デ・クリストや、クルス・ベルデや、もしかしたらサントゥアリオの鐘も鳴っていたかもしれない。昼になっても鳴り止まなかった。夜が訪れた。そして昼も夜も、同じ調子で、しだいに音高くなりながら、えんえんと鳴りつづけた。しまいにはそれは、ざわざわした嘆きの音に変わっていった。男たちは話すとき、怒鳴るように喋らねば自分の声すら聞き取れなかった。「どうしたんだろう?」と口々に尋ねあった。[…]
 ひっきりなしに乱打される鐘に誘われて、方々から人が集まりはじめた。コントラからは、巡礼さながらに長蛇の列ができてしまった。もっと遠方からも人が押し寄せた。アクロバットや空中ブランコのサーカスもどこからともなくやって来た。楽器を抱えた者も現れた。はじめは野次馬気分で近づいたのだが、そのうち周囲の人たちと親しくなり、セレナーデまで奏でられる始末だった。ことは少しずつお祭り騒ぎに変わっていった。コマラはガヤガヤとどよめき騒ぐ人でごった返し、動きがとれないほどにぎわう祭日と少しも変わらないありさまになった。》pp193‐4



ペドロ・パラモ (岩波文庫)ペドロ・パラモ (岩波文庫)
(1992/10/16)
フアン・ルルフォ

商品詳細を見る
コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
この記事へのトラックバック
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。