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2006/02/20

フアン・ルルフォ『ペドロ・パラモ』(1955) 1/2

ペドロ・パラモ (岩波文庫)
杉山晃・増田義郎訳、岩波文庫(1992)


 これは岩波文庫なので、表紙に簡単な紹介が印刷されている。ちょっと書き写してみたい。
ペドロ・パラモという名の、顔も知らぬ父親を探して「おれ」はコマラに辿りつく。しかしそこは、ひそかなささめきに包まれた死者ばかりの町だった……。生者と死者が混交し、現在と過去が交錯する前衛的な手法によって、紛れもないメキシコの現実を描出し、ラテンアメリカ文学ブームの先駆けとなった古典的名作。(解説=杉山晃)

「メキシコの現実」はどうなっているのか心配だが、結局、ここに書いてあることで『ペドロ・パラモ』は言い尽くされている。
 しかし、たかだか200ページちょっとしかないこの小説がどれほど面白かったか自分でもまだつかみかねているので、もう少し書いてみよう。
《コマラにやってきたのは、ペドロ・パラモとかいうおれの親父がここに住んでいると聞いたからだ。おふくろがそれを教えてくれた。おふくろが死んだらきっと会いに行くと約束して、そのしるしに両手を握りしめた。おふくろは息をひきとろうとしていた。だから何でも約束してやりたい気持ちだった。》p7

 母の遺言に従って父を訪ねにいく「おれ」の話は、はじめのうちこそ普通に進むように見えて、次第に妙な気配に取り込まれていく。
《夕闇が迫っていた。
 女はもう一度おれにあいさつをした。子供たちのはしゃぐ声も、鳩も、青い屋根もなかったが、それでも町が生きているような気がしてきた。静寂の音しか聞こえないのは、おれがまだ静けさというものに馴染んでいないせいだろうと思った。それに頭の中は、いろんな物音や人の声でいっぱいだった。
 そう、人の声でだ。そして、空気の薄いこの場所では、その声がいっそうよく聞こえた。人の体内にずっしりと沈み込むように。おふくろの言ったことばが頭に浮かんできた――「あそこでは、母さんの声がもっとはっきり聞こえるよ、そっとおまえの身近にいるからね、死人に声があればの話だけど、死んだ母さんの声よりも、おまえの思い出の中の母さんの声の方が、ずっと身近に聞こえてくるはずよ」おれのおふくろ……。生きているおふくろ。》p15-6

 この小説は断片形式になっており、数ページごとに2行空きがあって、全部で70のブロックで構成されている。
 断片と断片のあいだは普通につながっていることもあれば、突如、場面が切り替わったり、時間が現在と過去とを行ったり来たりすることもある。
「おれ」と言っている人物が前とは別の人間に入れ替わっているのも珍しくなく、ぼんやり読んでいると作中で道に迷ってしまう。多いのは、ある人が昔のことを(過去として)回想すると、続けて次の断片でその当時の状況が(現在として)描かれる、ゆるやかな結びつきである。
 なのでちょっと注意してページをめくっていくのだが、人物表を作りながらであっても、この小説は読みやすいとは決して言えない。あらたな人物がそれぞれの背景や立場を背負って、ただし説明なくいきなり登場してくるから人物表じたいが作りづらいし、なによりもまず、人の名前がおぼえにくい。
「おれ」の母親の姉妹分だったのがエドゥビヘス・ディアダで、フルゴル・セダノはペドロ・パラモの敷地の管理人、レンテリア神父の弟を殺したミゲル・パラモはペドロの息子で、トリビオ・アルドレテというのは……

 もちろん、そのような読みにくさは望むところである。未知のコマラに足を踏み入れていく主人公「おれ」の困惑と、先の見えない小説の中を少しずつ進む読者の「?」な気持が重なるよう書かれているのはまちがいない。であれば、「おれ」と同じく私も混乱するべきだろう。
 そうやってしばらく読んでいくと(ほんの数十ページ)、どうやらこの町では、死者が現れて動き回り、生きている人間と喋ったあとで、あるいは喋っている最中にまた消えていく、というようなことが日常的に起こるとわかってくる。
《「この町はいろんなこだまでいっぱいだよ。壁の穴や、石の下にそんな声がこもってるのかと思っちまうよ。歩いていると、誰かにつけられてるような感じがするし、きしり音や笑い声が聞こえたりするんだ。それは古くてくたびれたような笑い声さ。声も長いあいだに擦り切れてきたって感じでね。そういうのが聞こえるんだよ。いつか聞こえなくなる日がくるといいけどね」》p70

 能弁なくせに静かな、死者たちのささめき。「ささめき」という、いままで一度も使ったことのない言葉を目にして、これ以上にぴったりくる語はないと私は思った。
 彼らの声は町角や廃屋、さまざまな場所にとどまって、「おれ」の耳に聞こえてくる。ここはそういう土地なのだ。そしてペドロ・パラモの来歴が、多くの人々の噂と思い出ばなしから徐々に浮かびあがってくる。当然、彼もすでに死んでいるのだが、先にも書いたように、この小説では過去と現在がごちゃごちゃに並べられるから、後半になると、私利私欲のかたまりで好き勝手に生きたペドロの姿が、いっぽうでは、スサナ・サン・フアンという女性を若いころから一途に思い続けていた姿と重ねられて、綿々と描かれる。
 結局、スサナは彼の最後の妻になった。けれども、気が狂っていると噂されていた彼女を待つ運命は幸せなものではない。過去と現在が入り混じり、生者と死者も入り混じるこの小説の中を、見通しのきかない靄の中を歩くようにあちこちぶつかりながら進んでいった読者は、最終的にスサナの死、そしてペドロ・パラモの死に立ちあうことになる。

 メモを取りながら小説を読むのは、どこかの時点でぱっと視界が開け、この小説がどんな姿をしているのか理解が及ぶ、そんな瞬間を期待してのことなのだが、ついにそういう状態には至らなかった。97ページあたりから「おれ」の身にたいへんなことが起こり、ある手掛かりが与えられるものの、それによって靄がきれいに晴れるとは言い難い。全体像は茫洋としたままだった。
「よくわからないまま、後半の物悲しいトーンに巻きこまれて、『よくわからないまま終わる』のを納得させられてしまった」というのが正直な感想である。

 しかし、じつはここからが本題なのだが、この小説は、最後のページより先に進んだところで大きく姿を変える。これには本当に驚いた。最後のさらに先を読むとは、もう一度最初から読み直してみる、ということである。続く。

…続き

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