趣味は引用
スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
メモ
目次


 青土社の「ユリイカ」2003年10月号は、「特集・煙草異論」とかいって喫煙者だけから原稿を募っているんだからご苦労様である。
 そのなかに「煙草・喫煙について気になること、心掛けることは?」というアンケートがあり、下は蓮實重彦の回答。
《喫煙について意識的になるのを避けるために、「気になること」や「心掛けること」は持たないことにしていますが、千代田区で吸ったわけではない吸い殻をわざわざ千代田区の歩道に捨ててまわるときなど、やはり何かを「心掛けている」のかも知れません。》

 これを読んで自分は笑い、コピーまでしてしまった(図書館だった)が、あらためて考えてみると難しい。

 おかしかったのはたぶん、書いてあることが大嘘だと思ったからだった。
 でも、はっきり「捨ててまわる」と書いてあるんだし、その通りに受け取ってもいいはずである。なのに嘘だと受け取ることもできるのはなぜか。拠りどころは「そんなことするやつはいない」といった常識、いわば文脈だろうか。
 しかし、根拠よりもその文章がもたらす結果のほうが不思議なので方向を変える。
 
 引用の内容が虚偽である(実際には捨てていない)ことはありうる。というか虚偽だろう。しかしながら、文章表現には「内容が虚偽かどうか」とは次元の違った効果があるのではないか。
 というのも、上の文章が書かれたことで、現実の蓮實重彦とは別に「千代田区に吸い殻を捨ててまわる蓮實」という存在が生まれていると思えてならないのである。
 読者と文章のあいだに、そんな存在が属する虚構のレベルがあるんじゃなかろうか。

 うまく書けないので他人に頼ろう。佐藤信夫の『レトリック感覚』によると、中原中也にこんな詩があるという。

《海にゐるのは、
 あれは人魚ではないのです。
 海にゐるのは、
 あれは、浪ばかり。》

 つまり人魚はいない。そういう内容だ。
 しかしこれが言葉である以上、読む者にとっては「いない人魚」がいる。
《人魚は、否定されることによって、〈そこにいない人魚〉として姿をあらわした。[…] その、発見された人魚は、無論いない。そして、いないものとして造形された人魚たちが、いなくなることによって、あとに「浪ばかり」が残ったのであった。》p315

 書かれてしまったものは、否定形の中でさえ存在する。さっきの例でいえば、蓮實が捨てているかどうかは問題ではない。
 そんな言葉のはたらきに足を取られると、その集積である小説はなかなか読み進めなくなる。考えすぎだろうか? いや、自分はまだ考えが足りないのだと思う。

…続き



レトリック感覚 (講談社学術文庫)レトリック感覚 (講談社学術文庫)
(1992/06)
佐藤 信夫

商品詳細を見る
コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
この記事へのトラックバック
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。