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2005/09/27

阿部和重『グランド・フィナーレ』(2005)

グランド・フィナーレ
講談社

 文庫待ちのつもりだったのが古本屋にあったから買ってみた。

 阿部和重の小説の文章は、読んでいて、つくづく、その小説のために用意された文章でしかないと感じられる。そこが心地いい。饒舌は饒舌でも、それは書き手の「本心」とか「これだけはいいたいこと」から出てきていない。そういったものを隠すためにこそ饒舌があふれてくる、というのでもない。語り手の饒舌を逆向きにたどっても、書き手の「本心」なんかには行きつかないように作られている。そもそも、そんなものがない状態から組み立てられている。たぶん。
(わーっとした一人称で小説を書く人はほかにもたくさんいるが、そういうのはたいてい、読んでいて、「これを書いている人間は、まちがいなく、書くよりも先に何か伝えたいことがあって、湧きあがってきちゃったり熱かったりするその何かに衝き動かされてキーボードを叩いているんだろうな」と思わされてしまうことが多い。なぜだか、私はそういうのが苦手だ。文章意識のあるなしとか、推敲の程度とは別の問題だと思う)

「グランド・フィナーレ」の主人公、ロリコンが妻にばれ、離婚訴訟に惨敗して何もかも失った中年の語り手が、二度と会えない8歳の愛娘に向けて吐き出す独白は、かなりおかしなことになっている。
《ちーちゃんよ、果たしてこれは君が望んだことなのだろうか。
 今日は折角の君のお誕生日だというのに、ひどい土砂降りになっちまったじゃないか。
 ほんのり甘酸っぱい、レモン風味のドロップみたいな味がする雨粒が降り注いでいるのならば、お菓子の精の祝福を受けたちーちゃんのバースデーにふさわしい好現象と言えるかもしれないけれども、実際のところは、こいつはどうやら例によって、硫黄酸化物やら窒素酸化物やらが混じった単なる酸性雨でしかないようだぞ。あるいは彩り豊かな包み紙で包装された大小さまざまな贈り物や大粒の苺をたっぷり添えたケーキに囲まれて君が今、沢山の友人たちといっしょに賑やかに過ごしている、ママの実家のリビングでは、汚染物質を含んだ冷たい白金色の水滴のシャワーなんかではなく、七色の金平糖とかラズベリーを象ったグミキャンディーだとかが雪片みたいにぱらぱらと派手に舞い落ちているとでもいうのかい。そんなところにいて君は、背中に生えた特大な蝶々の羽を駆使して友だちの間を自在に飛び回りながら、多種多様な砂糖菓子の味覚に酔い痴れていたりもするのかな。》P28

「一生懸命訴えているが、異常性愛者だけに、方向が狂っている」というのではなくて、根本的な組み立てが変である。それなりに切実なシチュエーションでの独白を、長々と、しかしまったく感動なり共感なりを呼び起こさないように、即物的というか、言葉の連鎖だけでつらつら書いて済ませてしまえるのを、私は阿部和重の才能と呼びたいが、なんだかまた読み方を間違えているような気もする。

 2部構成になっているこの小説の第1部を終わらせるのは、ある登場人物から発される長い台詞なのだが、そこだけ取り出せば非常に道徳的で正しいものに見えるだろうその主張(語り手への断罪)も、この小説の中では、死体同然の彼を鞭打って東京から追い出すため周到に練られたフレーズである以外に意味を持たないと思う。第2部では、田舎に引っ込んだ語り手が、児童劇の指導をすることになって美少女2人組に出遭ってしまう。先の台詞があるために、語り手は「ほかにどうしようもない」流れのもと、蝶が標本にされるように追い詰められていく。

 作りものくささ。私が小説に求めるいちばんの要素はどうやらそれらしい。なんでだ。「小説を書く人間」は、どこまでも計算高く、なによりも、悪辣な人種であってほしいと考えているからかもしれない。
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