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『恋愛小説の快楽』(1991)

角川文庫

 古本で買ったブックガイド。
 自称スーパーエディターの故・安原顯(合掌)が編集したシリーズの1冊らしく、「現代日本」とか「SF」とか「ノン・フィクション」といったもろもろのジャンルから、各担当者が「恋愛」を軸に50冊くらいの書名をあげて解説を加えている。計600冊、と表紙には書いてある。「アメリカ文学」担当は柴田元幸。

 14年前のこの時点であげていた作品のうち未訳だったいくつかを、柴田元幸はのちに自分で翻訳しており、そういえば、どこかで「80年代の後半に読んで面白かった小説を好き勝手に訳して90年代が過ぎた」みたいなことを書いていた。このセレクトにあたっては、最初に弁解していわく――
《アメリカ文学は恋愛不在の文学といわれている。もちろんこういう一般論は全面的にマルだともバツだとも言えないが、どちらかといえばマルに近いと僕も思う。他者と関わることよりも関わらないことを欲し、社会と対峙することよりも社会から降りてしまうことを志向する。そのようにして他者に背を向けた結果、ついには自己自身こそが最大の他者であることを思い知る――これもまたものすごい一般論だが、だいたいこんなところがアメリカ小説の基本的シナリオであるように思う。》

 お、見事にナルシス登場。そういうわけだからか、テーマとは関係なく好きな作品をつっこんでいる気配が濃厚なのは、たとえば甘美なる来世へなんかも無理やり紹介されているところに顕著だが、無理やりといえば最も無理やりなセレクトとして、トマス・ピンチョンV.まであがっている。
 柴田元幸は、まだ学生だった頃にこの長篇(むろん当時は未訳)を研究社の大英和辞典と首っぴきで読破した、とやはりどこかで書いていた。私も『V.』は好きだが、辞書どころか訳本と首っぴきじゃないと読めなかった。これが『重力の虹』にいたると、訳本と照らし合わせてもよく読めないという事態に陥るのだがそれはともかく。
《『V.』がラヴ・ロマンス? ふざけるな、と言われそうだが、実際ヴィクトリア・レンみたいに可憐な少女だって出てくるのだし、フェアリング神父とセクシーな雌鼠ヴェロニカとの恋愛物語もあるし、『V.』はVをイニシャルとする女性をめぐるロマンスに満ちているのだ、と主張することはいちおう不可能じゃないわけで、とまあそうは言ってもこういうケタ外れの小説はロマンス以外のあらゆるものにも満ちているわけだし、実際この小説が何でないのかを言うのがむつかしいくらいで、にもかかわらずVというのはやっぱりいわば世界の女性原理みたいなものをさし示すきわめて多義的な記号であって、女は魔物、魔物としての女あるいは世界といった主題がこの作品を貫いているのであり、とすれば男としての西洋近代文明と女としてのアモルファスな世界の総体とのラヴ・アフェアこそが『V.』の根源にあるわけであって、うーん……。》

 なんかまた『V.』が読みたくなってきた。
 もうひとつ気になったのは、スティーヴン・ミルハウザーの長篇Portrait of a Romantic である。これ、タイトル(『ある浪漫主義者の肖像』)だけは柴田元幸の紹介文の中でよく見かけるのだが、なぜか翻訳されていない。1977年と、古い作品だからか。でもそれだったら、『エドウィン・マルハウス』(3才で死んだ天才少年の生涯を、幼馴染みだった男の子が11才になってから書いた伝記)だって1972年だ。
《ロマンスといえるのは全体の三分の一だけなのだが、あまりに哀しい話なので選ばずにはいられなかった。暗い暗い少年と、暗い暗い少女。暗い暗い少女は学校へも行かず、厚いカーテンで閉め切った暗い暗い寝室から一歩も出ない。少年は毎日放課後に少女の部屋を訪れ、二人は人形遊びに興じ、戯れに死の儀式を演じ、ポーやスコットを語りあう。現実よりも幻想、生よりも死、覚醒よりも眠りにはるかに近い、あまりに暗く、甘美な世界。
 ところが! ある日突然、少女の部屋の窓が開け放たれ、明るい日光がさし込み、彼女はいつもの暗い暗い服装とはうって変わって、腕まくりした白いシャツにブルージーンズという格好……彼女は明るくなってしまったのだ! こんな哀しい恋の裏切りってあるだろうか?》

「あるだろうか?」じゃねえだろ、と言いたいが、それ以上に、読んでみたい。
そして私も叫ぶのだ、「彼女は明るくなってしまったのだ!」


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