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2005/08/23

保坂和志『この人の閾』(1995)

この人の閾
新潮文庫(1998)

 37歳になる「ぼく」が、出先で時間をつぶすために大学で先輩だった「真紀さん」の家を訪れる。10年ぶりぐらいに再会した2人が一緒に缶ビールを飲んだり庭の草むしりをしながら結局は何をするのかというと、つまり、会話する。共通の知人の近況をやりとりし、変わったこと・変わらないことに思いをめぐらせ、時間の流れについて考え、喋る。主婦である「真紀さん」の子供が学校から帰ってきてまた出て行く。夏の午後が傾く。

 この小説に対し、「2人のあいだに何も起きないのはおかしい」という評が出たそうで、そういう人はこのように平凡な現実を引き写しただけの文章は小説ではないと考えたのかもしれないが、それは二重に間違っている。
「小説なら何か(というか、不倫)が起きるべき」というのは短見だ、とは保坂和志自身が『小説の自由』で詳しく述べていることで、ここにあるのは「淡々としたリアリズム」でもない。なんとなれば、人はこの作品のようにそれなりに凝縮された思索を短い時間で効率よくやりとりできるはずがないからで、それはこの短篇集に入っているほかの3作にも共通する「異様さ」だ。
 ここでは何かの考えを展開するために小説という形式が使われており、むしろそういうことをする容れ物・実践の場こそが小説だと保坂和志は考えているだろう。だろう、どころか、こちらについても当人が『小説の自由』で繰り返し書いていた。
 私の書くことがなくなってしまったので(それもどうかと思うが)引用する。
 年に150本以上の映画をレンタルビデオで見ている「真紀さん」は、話の流れで「ぼく」がアートな映画に触れると、「いまはその手の映画は見ていない」と断る。なんでそんなエクスキューズが挟まるかといえば、そもそも学生時代の2人は同じ映画サークルにいたからだった。
《そこではベルイマンやフェリーニやゴダールなんかの映画を深い意味や思想の描かれているものとして真面目に観るのがある種伝統のようになっていた。だから真紀さんはその手の映画という言い方をしてそれでこっちに通じるのだが、ぼくや真紀さん(や他の何人か)がそういう映画を先輩の教えどおり熱心に観ていたかというとそれも違っている。しかし映画にいろいろな方法や考え方があるのは当然知っていて、おかしな言い方をすればそういうことは一生忘れない。本当におかしな言い方だと思うが、一生忘れないようなことはそんないくつもあるもんじゃないと思う。》p16
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