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2005/06/01

柴田元幸『アメリカン・ナルシス』(2005)

アメリカン・ナルシス―メルヴィルからミルハウザーまで
東京大学出版会

《つまり、自律の神話は二つの相矛盾する命令を発している。人は変わることを欲望しなくてはいけない、なぜなら人は自律を希求し自らの神とならなくてはいけないから。人は変わることを欲望してはいけない、なぜなら欲望をもつことは他者への依存のしるしであり自律を欠くしるしだから。「変われ/変わるな」というダブルバインドは、自我の神話の帰結にほかならない》p78

 3年か4年まえ、青山ブックセンターを会場に開かれたトークショーのなかで“今後の仕事”を訊ねられた柴田元幸は、翻訳の予定がある数々の作品名をあげたあと、「固めの論文を1冊にまとめて研究社から出そうと計画しています」と付け加えた。
 その「計画」が出版社を変えて生きのび、本書『アメリカン・ナルシス』になったんだと思われる。ずいぶん待ちました。

 全体は3つのパートに分かれる。パワーズやエリクソン、ダイベックといった、自分で訳書を出してもいる現代作家についての論考が並ぶ第Ⅲ部はもちろん面白いが、いかんせんそれらのほとんどを初出誌で読んでいた私が(ミーハーなんです)圧倒的にスリリングだと感じたのは第Ⅰ部で、そこには、15年ほど前に翻訳家として活動を始める前、この人が大学の紀要に書いていた、地味めの論文が集められている。
 そこで扱われるのは、19世紀アメリカのメルヴィルやポオ、トウェインといった「正典」で、それらが文学史的スタンダードであることまではわかっても、展開されている論旨がどれほどスタンダードに近いのかまでは私にはわからない。
 それでもおそらく、堅実な論の運びとは裏腹に、目のつけどころはけっこう特異なのではないかと思う。というのは、それぞれ単発のものとして発表されたはずのこれら第Ⅰ部の論文は、いままとめて読むと、ひたすらひとつの問題をめぐり(手を変えず品を変えて)書き継がれたように見えるからだ。一言で抜き出せばこれである。
《自己自身であることの不可能性》p63
 個々の論文はみんなここに発し、執拗にこのことを論じて、結局はここに帰ってくる。
 大作『白鯨』は、自己に対する異和から逃れられないダイナミックな自意識を突き詰めた悲劇として生け捕りにされ、「ウィリアム・ウィルソン」、「アッシャー家の崩壊」の作品世界は、《自己の他者性と他者の自己性》が相互に浸透する空間としてあらわれる。ハックルベリー・フィンが体現するのも《自己自身であるためには自己自身であってはならないという逆説》だ、とまとめられて、『シスター・キャリー』で自己実現がつねに/絶対に完成しないのはなぜなのかが丁寧に説明される。

 作家たちがくんずほぐれつ戦ってきた相手が、水面の鏡に自分の姿を見たナルシスの物語である、と柴田元幸は読んでいる。神話に呪縛されたアメリカ人の作品は、しかし、神話の成立を拒む。この国の小説で《水を凝視するナルシスは、水の中に何の像も見出しえずに終わる(p53)

 ナルシスをなんとか片付けようともがく作家たちによって、当のナルシスはアメリカ文学を貫いている――といった洞察の射程は、第Ⅱ部・第Ⅲ部で、かるがると現代に及ぶ。本書のサブタイトル「メルヴィルからミルハウザーまで」は伊達ではない。そして小説の読解は、ときおりアメリカの国家像を分析するまでに広げられていく。読みながら私は何度か本を閉じたが、一見して落書きのようなこの表紙の絵は、見るたびにどんどん的確であるように思えてきた。

 第Ⅰ部の19世紀アメリカ文学論のあと、柴田元幸は教師稼業の合間をぬって次々と現代小説を訳す翻訳者として有名になった。雑誌「鳩よ!」の2001年8月号によると、刊行した訳書の冊数は47冊をかぞえる(それからの4年間で何十冊増えたのか)。翻訳についてのエッセイも無数にあるが、一人の人間の言うことがそんなに変わるはずはない。「翻訳とはどういう作業なのか、訳すうえで大事なのはどんなことか」と訊かれたこの人が、
「それは、自分を消すことです」
と答えているのを、私たちは雑誌で、単行本で、新書で、いったい何度目にしたことだろう。
 たとえば今年(2005年)の「ユリイカ」1月号、「特集*翻訳作法」のロングインタビューでもやはり同じ話になっていて、上の答えの流れからこんな感慨が洩らされていた。
《作家にひたすら尽くそうとする奴隷根性が翻訳には必要だと思う。[…]今の世の中、「本当の自分を見つけよう」とか、「真の自分を探そう」というような「個性神話」がますます強くなってきて、いったいどうなっているんでしょうかねえ。八〇年代には「自己とは虚構にすぎない」とかみんな言ってたじゃない。あの学習成果、どこへ行っちゃったのかな?》

 変な言いかただが、この人の通過した「八〇年代」はただの八〇年代ではなく、100年前のアメリカ小説を通して、歪んだナルシス神話に骨まで浸かった八〇年代である。であれば本書の、とりわけ第Ⅰ部の一貫性が指し示すのは、実はこういうことでもあるだろう。
 ――失効するナルシスの神話は、何よりも、柴田元幸を呪縛していた。
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