2005/02/02

『朝食』のこと その10


 小説と社会を重ねる見方を自分でしたうえで、「小説家である以上、世の人びとの自己評価の低下には、自分にも責任がある」とする。
 ヴォネガットの態度は、倫理的というより、どうかしていると思う。このような信念から「わたし」が『朝食』の最後でどういう真似をするかはひとまず措くとして、安易な連想のラインで私が思い出すのは、村上春樹の不思議な責任感である。

 10年前、オウム真理教の実態が明るみに出た時にこの作家は、
「教団が信者に与えたジャンクな物語を凌駕するだけの物語を、われわれ小説家は提供することができなかった。その意味で、自分たちはオウム事件に責任がある
といっていたのだった、たしか。
 いまうちの部屋には『アンダーグラウンド』もないのでもうまったくの記憶だけで書いているが、「粗悪な物語」を「良質な物語」で駆逐する、そういうことができる、とするこの作家の考え方は、やはりナイーブというより狂気の側に近いように思えてならない。あるいは私があんまり臆病にすぎるのかもしれないが、こと物語の力が云々、という話に関しては、いつも生活者の立場に身を置いている(と自称する)村上春樹より、おそらくずっとハイブローでアカデミックなウンベルト・エーコの方が地に足がついているように見えて(こことかこことか、そんな話だった、そういえば)、その対照にまたいくらか興味を覚える。『海辺のカフカ』から『アフターダーク』ときて、春樹の次作はどんなお話になってしまうのだろう。

『朝食』の話だった。
 通俗小説家の代表として「わたし」に非難されたのはビアトリス・キーズラーという作家だった。こんな世の中に誰がした、と憤る「わたし」の次なる標的は、キーズラーの隣に座っていた抽象画家のラボー・カラベキアンである。子供でも描けるような幼稚な絵――単色のキャンパスに蛍光テープを貼っただけ――で大金をせしめたこの芸術家を「わたし」はヒステリックに攻撃し、しかし、返り討ちにあうことになる。

[…続く]はずだったのだが。だが。