2005/02/02

『朝食』のこと その9


《なぜアメリカ人があんなにしょっちゅう、おたがいを銃で撃ち殺すのか、その理由はここにある――それは、短篇でも一冊の本でも、小説を終わらせるのに便利な文学的手法の一つなのだ。
 なぜこんなに大ぜいのアメリカ人が、政府からまるで使い捨てのティッシュ・ペーパーのような扱いをされているのか? それは、小説家が作り物のお話の中でいつも端役をそんなふうに扱うからである。》

「主役-脇役」の区別が明瞭な、その意味で「旧弊な」物語が、巷間にあふれるフィクションのかたちで世の中に浸透したために、人びとは自らを損うようになったと「わたし」は考える。

 そんな関連が本当にあるのか、証明しようがないんだから詮索しても意味がない。ここで読者は、1人の職業小説家がこんな認識にとらえられてしまった姿を見るだけである。
「わたし」の舌鋒はえらく鋭いが、そのせいで、この作者らしき人物の声がビアトリス・キーズラー的な小説家を非難しているだけではないのが見えてくる。
 実際には、ヴォネガットはヒーローらしいヒーローの出てくる作品をひとつも書かなかった。それでも、登場人物という他人を不当に軽く扱うことのできる作家という立場に自分もいることを、この人は過剰に意識している。何百のビアトリスと同じ力を自分も持っている。だから上の引用のすぐあとでこう言う。
《わたしはストーリーテリングを避けようと決意した。人生について書こう。どの人物にも、ほかの人物とまったく同じ重要性を与えよう。どの事実にも同じ重みを持たせよう。なに一つなおざりにはすまい。ほかの作家たちには、混沌の中に秩序を持ちこませておけ。わたしは逆に、秩序の中へ混沌を持ちこもう。自分ではそうしたと思う。》

 一足飛びにいうと、ヴォネガットは、小説のキャラひとりひとりをまっとうに扱うことで世の中をよくしようとしたのである。
 これは夢見る小説家の他愛ない思い付きだろうか。ウェブの日記で紹介するには恥ずかしい、素朴でナイーブな理想主義だろうか。私は単純に、狂気の沙汰だと思う。