趣味は引用
『朝食』のこと その8

「わたし」の登場したミッドランド・シティの酒場には、ちょうど芸術家として町に呼ばれた2人の人間が座っている。売れっ子小説家のビアトリス・キーズラーと、抽象画家のラボー・カラベキアン。
 しばらく前に私は、ヴォネガットがこの小説を貫く《理屈・考え方を、「わたし」という語り手を通し直接的に説明してしま》うと書いた(その1)。ようやくその続き。
 ここまで、『朝食』のヴォネガット視点ではこういうことになっていた:
・自分たちの暮らすこの社会は均質化しつつある
・というのも、政府やら何やら、大きな力に対して個人はまったく無力だし、
・科学の力で世の中が「進歩」するほど、他の誰かと取り替えのきかない特定の個人、は要らなくなるから
 1970年代の話であるのはともかく、こういったことからヴォネガットがいちばん問題だと考えているのは、普通の人間が自分のことを取るにたらない存在だと思うようになってしまった、ということであるらしい。
 ここらへん、『朝食』の副読本として読める『ヴォネガット、大いに語る』(サンリオ文庫)ではっきり言葉にされているが、「わたし」に言わせれば、人びとの自己評価が下がるのにはもうひとつ大きな原因がある。いわく、フィクションの作り手が悪い。
 ヴォネガットが、いや、「わたし」が――おそらくは、「わたし」=ヴォネガットが、上に名前をあげた小説家のキャラに投げつける言葉は相当に手厳しい。というか、無茶苦茶に見える。
《わたしはビアトリス・キーズラーを、人生には主役と傍役、重要なディティールとそうでないディティールがあること、そこには学ばねばならない教訓と通過しなければならないテストがあり、また、発端と中間部と結末があることを、人びとに信じさせるため、ほかの旧弊な物語作者たちと手を組んだ人間だと思う。》

 私はもともと、主役と脇役(傍役)についてのヴォネガットの考え方が気になって『朝食』をつつきまわしているのだが、この人の関心はここから出発していた。あるいは、ここまでたどり着いた。
 作家ヴォネガットの目には、小説におけるキャラの扱いと、世の中での人間の扱われ方が重なって映るのである。