2005/02/02

『朝食』のこと その7


『朝食』の話。もう即物的に続ける。
 ミッドランド・シティというところで開かれたアート・フェスティバル。主要キャラのドウェインとトラウトがまだ揃っていない時点で、語り手だった「わたし」が他のキャラに混じって姿を現す。ヴォネガットは「わたし」に、自分がこの小説の作り手だと宣言させ、同時にこんなことも言わせる。
《自分が創りだした登場人物に対するわたしの支配力についてひとこと――わたしは彼らの行動をごく大ざっぱにしか誘導できない。彼らがとても大きな動物だからである。慣性にうち勝つのがたいへんだ》

 ふざけてるのか。それとも、いろんな作家がしばしば述懐するところの「キャラが勝手に動き出す」という意味なのか。

 ともあれ、ここでどうしてヴォネガットが「わたし」を小説内に侵入させたのかというと、その理由はわりに簡単である。
 自分があるキャラに言わせた台詞があんまり感動的なので、みずからもキャラの1人としてその場に立ち会いたくなったから。
 こう書くと馬鹿みたいだがこれは本当で、しかも切実な話なのだった。

 小説家ヴォネガットは、大部分の小説が嫌いである。敵視していると言ってもいい。
 なぜなら、これまでに数え切れないほど書かれ、これからも書かれるだろう小説の多くは、彼にとって、社会の平面化を原因とする個人の価値の下落を助長するものだと考えられているためである。
 自分の作品を「フランク・シナトラやジョン・ウェインが出てくる小説」とは違ったものにするために小説の結構を一から組み立て直さないといけなかったこの作家が抱き続けてきた問題意識は、『朝食』において、上述のような形で語られる。