趣味は引用
『朝食』のこと その6

 先日、青山南による90本近くの映画コラムを集めた『レイトショーのしあわせな夜に』(洋泉社)を買ってきてちょっとめくったら、いきなりこんな文章が出てきた。何の映画についてかはひとまず関係ない。
《主人公がいない、というか、バトンタッチされるみたいにしてつぎつぎと主人公がかわっていくスタイルは、ずっと昔に、カート・ヴォネガットの『チャンピオンたちの朝食』を読んだときに初めて出会い、そのときは、なんだ、これは、と仰天したものだったが、いまはもうめずらしくもなくなった》
 自分でも忘れそうになっていたが、何年か前に読んだ『朝食』があらためて気になったのは、宮沢章夫がたびたび言及する「主役と脇役」問題、フィクションの作り手が、作品の都合に合わせてキャラを扱える自分を疑問視するのを見て、「まるでヴォネガットみたいだ」と思ったからだった。
 そう考えて青山南の書いていることを見ると、たしかに『朝食』はそんな小説だった。そこまで忘れていたわけではないが、ここしばらく、小説の一部分ばかり見ていた。
 私は『朝食』の主要なキャラクターをドウェイン・フーヴァーとキルゴア・トラウト、そして途中から彼らと同じ地平で行動する語り手の「わたし」だと思っている。それはこの3人が、他のキャラに比べて出ている時間が長いからだが、登場する他の誰かを使ってもヴォネガットは『朝食』のような作品を書けただろうかといえば、たぶん無理である。この3人は外せない。そこが『朝食』の核心である。あるいは、届かなかった核心。
 この職業小説家は、世間の人間の遇され方と、小説のキャラの扱われ方を同列に見ようとした。そこのところの理屈が中盤で「わたし」の口から語られる。触媒になるのはドウェインでもトラウトでもなく、アート・フェスティバルいうお祭りにやってきた画家と小説家だった――ということもいちど書いていたのか。これ以上忘れたくないので、今度こそ、あとは引用だけにしたい。



 なお、『レイトショーのしあわせな夜に』にはこんな一節もあった。
《「爆弾がおちてる最中になにが芸術だ」
 いやだね、こういうのって。こういうこというやつらって、爆弾がおちてなくても、「なにが芸術だ」っていうんだよな。》