2005/02/02

『朝食』のこと その5


「わたし」と、『朝食』を書いているヴォネガットは違う。さらにいえば、『朝食』を書いているヴォネガットと、現実に生活しているヴォネガットも違う。
 けれども、それぞれに重なる部分がある以上、三者をまったく別物とするのも完全に正しいとはいえない。彼らはお互いに干渉しあう。

『朝食』のなかで活動する「わたし」は、他のキャラと違いのない一登場人物である。つまり語り手だってキャラの1人である。
 けれども、語り手であるキャラと、語られるだけの他のキャラが完全に同じかというと、これも疑問である。

 書き手について、または登場人物について、いくつかのレベルが折り重なって存在している。私たちは小説を読みながらそれらを認識する。レベルのあいだに違いがあることはわかる。しかし、どんなに目を凝らしても、というか目を凝らすほど、レベルの境目は不分明になり、はっきり線を引くことが難しくなってくる。これをどうしたものだろう?
 どうするもなにも、そういうものであるというのが、イタロ・カルヴィーノの意見である。
 このイタリア人には「文学における現実の諸レベル」という評論がある。そこで彼は、「文字言語のなかで複数の現実レベルを関連させる操作こそが文学作品だと定義できるかもしれない」と語り始め、「小説を書くにあたって、書き手はまず、最初のキャラとしてその小説の作者を創造しなくてはならない」なんてフレーズをさらりと書き流し、同じ文章でも読み方によって語り手と語られる内容がひとつのレベルにあったり別のレベルになったりする事態を例証して、最終的にはこう結論する。

《文学は、現実がどのようなものであるか認識しない。それが認識するのは、現実には様々なレベルの層があるということだけである。現実なるものが存在し、様々なレベルはその一側面にすぎないのか、あるいは、存在しているのはレベルの層だけなのか、それは文学には決定できない。文学は、様々なレベルがあるという現実を知っている。》

 であれば小説の読者は、様々なレベルのあいだでふらふら揺れながら、答えを出さずに読むしかないんじゃないだろうか。
 なんて中途半端で曖昧な。自分でもそう思う。とはいえ、中途半端で曖昧で一貫性がなく、見方によってくるくる姿を変えるルーズな文章の集積が小説なんじゃないだろうかと私は考えている。文字・言葉というまったく同じ素材からできている小説のなかに複数のレベルが見出せるという事実が、私にはいまだに不思議で仕方がない。