2005/02/02

『朝食』の続き その4


「わたし」は(1)自分がこの小説の語り手であり、(2)作り手であるという。
 (1)については、まあそうだろう。しかし(2)は、前にも書いたように、小説の中ではそういうことになっているというだけだ。いわば設定である。

 現実には“「わたし」によって語られたことになっているこの小説”を作った人間がいて、それがカート・ヴォネガットだといえる。ここの表でいけば(a)か。
(ほんとは、「わたし」という語り手に語らせるかたちでこの小説を語っている語り手、という存在を措定するべきかもしれない。それはおそらく、「わたし」と現実の人間ヴォネガットのあいだに位置する(b)になるのだが、それにつけても、自分がよくわかっていないことを表にしてはいけません)

 なんにしろ、語り手と作者は別物である。『吾輩は猫である』の語り手は猫だが、漱石は猫だったと考える人はいないだろう。そこの区別が『朝食』では見えにくいとすれば、それは語り手が「わたし」という人称を使い、自分を作者だと詐称するからにすぎない。本来はそれだけのはずだ。
 以上のことを受け入れてはじめて、小説を小説として読める。

 けれども、そのように考えたうえでなお、「わたし」と書いてあったらそれは書いている人間のことだとする読み方の立ち入る余地も認めておかないことには、ある種の小説はどうも正しく読めない気もするから複雑である。そして『朝食』は、明らかに「その種の小説」なのだ。
 ここまで書いてきたことからすれば、そんなのは杜撰な読み方であるだろう。
 しかしどうやら、杜撰に読まないといけない場合もあるんじゃないかと、私は薄々思っている。

 それがどんな場合かを明確に示せるほどの分析力があれば、私もこんなにぐだぐだ続けてはいない。話がわかりにくいのは私の能力の問題もあるが、でもそれだけじゃないらしいのだ。
 息切れ感が否めないものの、まだ続く。