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『朝食』のこと その3

《わたしはカクテル・ラウンジの薄暗がりで、宇宙の創造主と互角の地位にあった。わたしは宇宙を縮めて、直径一光年のボールにした。》

 創造主の力を持った1キャラ。
「わたし」は、自分が作り出したというウェイトレスに酒を持ってこさせたり、こちらに不審の目を向ける他のキャラの気を逸らせるため近くの電話を鳴らしたりといった行動を続ける。素直に読むと、無茶苦茶なことが起きているような気がする。
 とはいえ、これをもって「作者が作中に現われた!」と騒ぐのは何か間違っているとも思う。素直ではなく素朴に考えたい。

 どんなに無茶にふるまっていても、「わたし」を作者だからといって他のキャラと区別する理由はないはずである。「わたし」が他のキャラに名前をつけたり、操ったりできるのは、単にそう書いてあるからそうなったにすぎない。この「そう書いてあるからそうなった」を可能にするのが創造主であるということであり、つまり、「わたし」が語り手であるということである。
 これはレトリックではない。

 どんな文章にも語り手はいる。徹底的に三人称で統一された、「私」も「おれ」も出てこない文章であっても、いわばカッコに入れられた(私)(おれ)を想定することはできるから、三人称は語り手が表に出てこない一人称と言える。
 なんか書き方が回りくどいが、そこに文章があるのなら、それを語った人がいる、というだけの話だ。別に人でなくても構わない。

 どんなにオーソドックスで、実験的なところは何もないごく普通の小説であっても、語り手は創造主である。ただ、そのような小説の語り手は、自分の語った通りにこの小説はできあがるという原理には触れず、また、読者の想定する「小説についての常識」に激しく反する語り方はしないだけである(常識はけっこう強固だし、大事なものだと思う)。
 どんな語り手も『朝食』の「わたし」と同じように、自分を特権的な立場として描いたり、「わたし」にだけ都合のいい展開をくりひろげることはできる。多くの作家がそういう語り手を採用しないのは、書こうとしてる小説が求めるスタイルの問題であって、語り手の持つ力がもとから異なっているわけではない――って、ああ、とことん当たり前のことしか書いてないな。悲しい気持で続く。

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