趣味は引用
ヴォネガットのこと その10

 そもそも、宮沢章夫の演劇を見て気になった「作者と登場人物の関係」について、ヴォネガットが小説で妙なことをやっていたのを思い出し、ちょっと引用してみたかっただけなのだ、私は。
 いまだに本題にさしかかっていない。

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 前回、ヴォネガット(1922年生まれ)とピンチョン(1937年生まれ)が社会の進みゆきについて同じ見方をしている、と書いたが、そこで生きる人間となると両者は違った層を見ている、と付け加えておかないことには2人を並べた意味がなかった。
 ピンチョンが「社会の均質化からこぼれ落ちてしまった者たち」「排除されたアウトサイダー」にこだわるのに対し、ヴォネガットが見ているのは、意思と関わりなく社会に組み込まれた人びと、つまり「普通の人間」である。
 個人を個人として見ず、誰とでも取り替えのきく存在として取り扱う方向に世の中が進んでいくと、「普通の人間」の側でも、自分のことを価値がないと思うようになる。
 それはよくないと考えるヴォネガットは、しかし、人が自分の内に「かけがえのない個性」とか「本当の私」とかいったものを探すことで個人の価値が回復されるとは考えていない。ぜんぜん、考えていない。
(まわりから見ても、本人にとっても、事態はむしろ逆である。『母なる夜』[1962]の主人公はアメリカのスパイで、第二次大戦中、ドイツのラジオ局に潜り込み、ナチスの宣伝放送をしながら連合軍に暗号を伝えるなどして活動するのだが、戦争が終わると単にナチスの人間として裁判にかけられてしまう。誰も彼を助けられない。「表向き装っているものこそが実体である」とヴォネガットは断言する)

『朝食』のなかで、作者の「わたし」がうるさいくらい繰り返すのは、人間の言動を説明づけるのは個性でも無意識でもトラウマでもなく、脳内物質の化学反応だけだという見方である。登場人物たちは、ウェイトレスとか運転手といった役割によって認知される。
 内面なんかあるものか、と強調するかのような「わたし」の視線は一見シニカルだが、もちろん、何事も強調しすぎるとかえって怪しいのは事実であって、ヒステリックな「わたし」の声にも何かしらの屈折を感じないわけにはいかない。
 そして実際、小説も半ばを越えた頃になって、そういった即物的な見方はヴォネガットによる人間観の転換に必要な布石だったと判明する。