2005/02/03

ヴォネガットのこと その7


『朝食』の登場人物たちが暮らす社会はひどく暗い。
 そこでは金と物だけがむなしく求められている。達成されたはずの繁栄は決して「いいもの」としては描かれない。家族や地域の共同体といったつながりは失われ、生活環境は島宇宙化した。科学の発達も、ものごとから人間を排除する方向に世界を変える技術、公害をたれ流す源泉といった、否定的な見方でしか捉えられていない。
 そんななか、金のある人びとは整然と区分けされた高級住宅地で誰にも干渉せず誰からも干渉されない小ぎれいな生活を送り、そちらに入れない貧しい人びとはみじめな裏町でみじめな生活に身をやつしている。富めるドウェインと売れないトラウトによって代表される両極端の生活を、互いに別物としたまま、まとめてのみこみつつあるのが「均質化」の波である。

『朝食』を読む限り、均質化された社会とは、それなりの便利さが行き渡った一方で、誰が誰でもいい社会のことである。政府や巨大企業の前に、個々の人びとは無力であることがはっきりした。ないがしろにされた人びとは、自分でも、自分をとるに足らない人間だと感じるようになる。コマーシャルの声だけがうるさい。
 自分が自分であることが必要とされなくなって、人間は孤独になったとヴォネガットは見る。社会の趨勢としてやってきた「個人の価値の下落」という問題が、『朝食』にのしかかっている。誰からもうらやまれるような羽振りのいい生活を送りながら、ドウェインは静かに狂いつつある。彼の妻は何年も前に洗剤を飲んで死んだ。
《ドウェインの飼犬のスパーキーは、ドウェインがバスルームの中で銃を撃ちまくったときには、地下室に隠れていた。しかし、いまは外に出ている。スパーキーはドウェインのバスケットボールを見物した。
「おまえとおれだけだよな、スパーキー」と、ドウェインはいった。その他いろいろ。彼はこの犬が大好きだった。》

 ところで念のためいっておくと、社会の発展や進歩ともとれるはずの規格化・画一化をあくまで否定的に見る『朝食』のスタンスがそれほど独創的だとは、私には思えない。1973年にこのような視線がどれくらいインパクトを持ちえたか、ぜんぜん知りたくないわけではないが、正直、発表時の評価はどうでもいい気がしている。だって、悲観的になりたくて本を読む人はあまりいないだろう(私は軟弱なのだろうか?)。
 個人的に面白いと思うのは、ヴォネガットが、このような社会の変化を「平面化」として捉えている点である。