趣味は引用
脇役の脇役の続き

 脇役を意識する作り手、というのにひっかかってだらだら書いてきた。
 自分の作ったフィクションに出てくる、自分の作った登場人物の扱いについて倫理的な疑問を感じるというのは、傍から見ると妙な事態だが、宮沢章夫の創作にそういう面があるのはたぶん間違いない。
 これは実作者ならではの感情移入の一種なのか。そういうところに私が興味を覚えるのは、そんなことまで気にしてしまう人もいるんだ、という意味で面白いからであり、また、前にも「自分で作ったフィクションに『脇役』を認めない」(大意)と宣言したアメリカ人を見たことがあるからだと思う。
「作者はそんなにえらいのか」と問いを発し、「作者には、登場人物を拘束するどんな権利もない」(大意)としたその作家は、カート・ヴォネガットという。
 なんだか書き方がまわりくどくなってきた。このうえヴォネガットの小説を説明しようとするとえらく長くなりそうで、というのも、この人の作品の多くは断片形式を特徴とし、時間は過去・未来を頻繁に行き来する。そのため「あらすじ」をまとめても実物の感触とはずいぶん違ったものにしかならないからである。
 しかし、作品の入り組み具合と対照的に「言いたいこと」はわりと単純なのがこの作家のいいところで、宇宙人を持ち込んだり架空の宗教の教義を設定したり、手を変え品を変えしてヴォネガットが模索したのは、「実生活において、私たちがぱっとしない人間も大事に扱うにはどうすればいいのか」という一大問題だった、とまとめてしまってよいかと思う。

 立派な人物、愛すべき人間なら放っておいてもしかるべき好意を受けるだろう。しかし人類の大多数を占めるのは、憎たらしい小物、ひがみ根性に凝り固まった不平家、そこまでいかなくても平凡でつまらない人間だろう。そういった人間たちを、徳性や美点を探すのではなしに、人間であるという一点において尊重できないか。そのための原理を立ち上げようとしたのがヴォネガットの第7長篇『チャンピオンたちの朝食』(1973)で、いまの言い方では素朴な理想主義めいているが、実際の『朝食』は信念とやけくそと疑いで混乱し、この作家随一の問題作になっている。





チャンピオンたちの朝食
カート,Jr. ヴォネガット 浅倉 久志 浅倉 久志
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