趣味は引用
さらに脇役の続き

「トーキョー・ボディ」とは違って、「トーキョー/不在/ハムレット」には、劇作家のような「フィクションの作り手である人物」は登場しない。こちらは主人公をその場にいない人間(牟礼秋人)にして、脇役だけの群像劇にした、といえるかもしれない。

 ドラマを作るために登場人物を動かす作者が、自身の作り出した登場人物の1人に仮託して、自分と彼らの不公平なあり方を問題にする。中心にあるべき特定の主人公を不在にして人物を配置し、脇役に注意を払う(ローゼンクランツ+ギルデンスターン、倉津+須田)。
 このような捉え方は一面的なものだし、両者をつないでみた連想も、私ひとりの勝手な思いつきにすぎない。そのうえでさらに牽強付会をしてしまうと、小説「秋人の不在」(『不在』)のなかである女性の発する言葉も、本来の文脈を越えた意味を担っているように思えてくる。
《「人はいつだって、なにかに動かされているようにも思っていたし、お母さんが家を出ていったのにもなにかもっと大きな力が動いているような、そんな不思議な心持ちがしていただけで……、人が聞いたらおかしいと思われるかもしれないけど、なにかが人を動かすの。人にはわからない大きな力」》
《「すべてはなにか大きな力によって動いているのです。私がここにあり、そして死んでゆくのは、すべてなにかによって決められていたことです」》

 上で「本来の文脈」と書いたのは、この発話者が隠れキリシタンの末裔であるという設定のことで、その出自からすればこのように神秘的な台詞も「さもありなん」と一応は納得して受け取れそうな気もするが、そしてそういうものとしてなら一応の納得をしてしまう受け取り方こそいかがなものかと思いもするが、ここでもまた、登場人物を作っては操る作者なるものへの意識が、この女性の信仰の気持とは別に、あるいは重ね合わされて、書き手によって変奏されているように見えてならない。