趣味は引用
脇役のさらに続き

 宮沢章夫の作・演出になる「トーキョー・ボディ」が公演されたのは2年前で、私はこのときはじめて遊園地再生事業団の舞台を見た。
 本人があちこちのエッセイで述べている意見から想像されるような、「いわゆる劇っぽくない、自然な話し言葉」とはずいぶん違った言葉で「トーキョー・ボディ」はできていた。
「私は警備員ではなかった」とか「私は女だった」とか「私は資本主義だった」とか抽象的な台詞を喋る役者たちは、ただの記号としての役名を演じている印象をこちらに与え、しかし演じているのは目の前の舞台に立っている生身の人間なのだから、不思議な違和感が生まれていた。

 で、この作品には「私は劇作家だった」と名乗る男が登場する。たしか彼は、心中ものを書いた近松門左衛門を先祖と仰ぎ、自分も若い男女の心中に材を取って劇を書こうとしていたのだったが、同じ舞台で演じられるその男女の姿を見て悩み、最後半になってひとり、こんな調子で独白する。
《(…)ご先祖様。殺しますか。最後は殺しますか。死ぬしかなかった二人の悲劇を、簡単に、そんな簡単に、死へと向かわせますか。たやすく人の運命を操る。たとえそれが事実を元にした物語だったとしても、作者は人の運命を簡単に作り出す。死ぬな。ばかやろう。死ぬな。死ぬな死ぬな死ぬな。私は劇作家だった。(…)ある日、一人の少女が死んだのです。あっけなくこの世とおさらば。死は静かですね。遺体は棺の中で静かに眠っていた。なにがあったのか私にはわからない。殺しますか。誰が彼女を殺しましたか? 私ですか? 劇作家ですか? それで劇は生まれますか? 一人の少女が死んだのです。》

 劇場で売っていた台本から書き写したこの台詞には、長めの劇のなかでも特別なテンションがかけられていたように記憶している。劇作家が「トーキョー・ボディ」の主人公、というわけではなかった。この作品に明確な主人公はおらず、抽象的な役柄が集まった群像劇のような感じだった。
 奇妙な告白だと思う。このような台詞は、主人公から遠い「一同」や「皆」の言葉ではないだろう。まるで作者の言葉だ。そして、主人公が脇役から遠い以上にどんな「役」からも遠いところにいるのが作者であるはずだが、ここで1人の「役」を借りて語られているのは、「一同」や「皆」を作り出し、「主役」と「脇役」を分け、あらゆる登場人物を思い通りに扱える、作者自身への疑いであるように見える。おれはどうして自分にはそんなことができると思っていたんだよ? みたいな。