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脇役の続き

『ハムレット』に基いた宮沢章夫の小説「秋人の不在」(『不在』)にも、ローゼンクランツとギルデンスターンに対応する人物が設定されている。秋人の叔父(北川辺町の有力者)に頼まれて、失踪以後「トーキョー」で目撃情報のあった秋人を探しにゆく、倉津須田の2人である。
 これが舞台「トーキョー/不在/ハムレット」になると、倉津・須田に加えて、そのものずばり「ローゼンクランツ」「ギルデンスターン」というコンビが登場し、倉津・須田とも大量の会話を交わす。
 劇場で買ったパンフレットには、シェイクスピア学者の河合祥一郎と宮沢章夫の「往復eメール書簡」が掲載されている。上記の点を確認したうえで、宮沢章夫は、ふつう「脇役」として片付けられてしまう存在への興味を語っている。
《ロゼとギルに代表されるのは「主体」の不明確な登場人物ではないでしょうか。「近代劇」やそれ以前の劇では、戯曲の表記としてごく一般的に、「一同」とか「皆」とうい名前の、主体が明確にされない人々が現われます。劇作家はそれを安易に省略し(というか、省略すべきものとして)、「一同、口々にささやく」とか、「皆、驚きの声をあげる」と書くことになっているようです。(…)「一同」は口々になにかを語っているがそれを省略してしまう劇に対して不思議に思う。それはつまり、演劇、あるいは、旧来のドラマツルギーや劇言語への疑いです。九〇年代の私の作品は「一同」しか出てこないことによって、あたかも「なにも起こらない劇」のように見え、そう評されたのだと想像します。(…)この物語に、小説には登場しないローゼンクランツとギルデンスターンを書かずにいられなかったのは、いまでもやはり、「一同」の言葉が書かれない劇への疑問を持っているからでしょう。》

 90年代のこの人の演劇を、私は戯曲としてしか知らない。2冊だけ(『ヒネミ』『14歳の国』)読んだ限りでは、登場人物たちが、「ドラマチックな台詞・書き言葉でしかありえない台詞」をほとんど口にしないのが印象的だった。上の引用にひきつければ、「一同」の言葉で作品をつくることで「一同」を脇役からすくいあげる、ということだろうか。それに比べると、2年前の「トーキョー・ボディ」および今回の「トーキョー/不在/ハムレット」では、やり方が違ってきている。
 ほとんど演劇を見たことのない私が「作者の言ってること」から作品を云々するのはどうかと思うが、作品同様に上のような意見が気になってしまうのだから仕方ない。仕方なくないのかもしれないがもうちょっと続ける。

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