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四方田犬彦『空想旅行の修辞学』(1996)
七月堂

《『旅行記』の全体意義とは、異化作用を通しての認識の更新であり、空想旅行はそのための準備仮説に他ならない。われわれの目的は異化の具体的様相の分析である。》P168
 
 矮人国と巨人国、浮島国に馬人国。スウィフト『ガリヴァー旅行記』は、名前だけならたぶん誰でも知っているし、一見子供向けかと思われがちでも読んでみれば無類に面白く、280年前に書かれた本なのに今でも本屋で簡単に手に入る。そんな古典を正面から取りあげたのが本書『空想旅行の修辞学』で、もともとは四方田犬彦が1978年に大学院に提出した修士論文だったという。執筆以来18年を経ての出版。だから本書はれっきとした学術論文であり、それでいて、小説のように興奮する読みものでもある。
 原稿用紙換算で680枚に及ぶ本文の物量にまず圧倒されるが(審査した先生もえらい)、本論の冒頭部を数ページめくったあたりで早くもほれぼれとさせられるのは、文章の端々に“この論文が『ガリヴァー旅行記』読解の決定版になるだろう・そのことを私は引き受ける用意がある”みたいな自信と、そこからくる一種の気負いがみなぎっているからだった。これは錯覚ではない。
 まず第一章では、大々的にバフチンをガイドとしながら空想旅行記の歴史を紀元前までさかのぼり、ジャンルとしての小説が成立する以前からあったとされる「メニッペア」(笑いを通して通常の秩序を撹乱し、どんな価値も相対化してみせる文学的伝統)の系譜に『旅行記』が位置づけられる。対話的な構造、登場人物の平坦さ、非一貫的な語り、言葉そのものへの意識、といったメニッペアの特徴が念入りに論じられるのは、この部分が以降の『旅行記』読解で何度も立ち戻り参照される柱になるからだが、あくまで「説明」として書かれているので一向に読みにくくない。論旨は明快である。
 第二章では、出版以来『旅行記』を諷刺ものとして扱ってきた歴史が概観され、スウィフトが作品に込めた皮肉・当てこすりの元ネタを当時の政争や彼自身の宗教的立場に求める類の一義的な「解釈」が徹底的に批判される。
《今日の眼からすれば、『旅行記』に寄せられた共時的意味のさまざまな羅列は、解釈者たちの文化-歴史的立場を逆に浮かびあがらせる符牒であると判明する。人々は『旅行記』を解釈しようと試み、実のところ、逆に『旅行記』によって解釈され続けてきたのである。》P136

 このような下準備のうえで、第三章から具体的な『旅行記』の読解が始まる。
 どんな作品も、それ自体、単体として読まれなければならない。しかし一方で『旅行記』が、メニッペアの豊かな土壌とされるユートピア文学の伝統に深く根を下ろしているのも事実であるだろう。とことん立派だと思うのは、この論文が、ジャンルの伝統から個別の作品を照らし出す読み方と、もうひとつ、作品の細部から逆にジャンルの伝統を見つけ出す読み方のふたつをたえず関連させて、行ったり来たりしながら進んでゆくところだ。
 本書では、堂々たるメニッペア論を背景にしながら、『旅行記』中の様ざまなエピソードが丁寧に読み解かれる。ガリヴァーが世界初の眼鏡をかけた主人公であることや、矮人:ガリヴァー、ガリヴァー:巨人で大きさの比率が厳密に統一されていることのもつ意味が検討され、浮島国のマッドサイエンティストが発明した人工言語の論理が解きほぐされる。そのような作業を通して、『旅行記』の細部がひとつの作品を越えた大きな枠組みへと接続されてゆく。文学で描かれるユートピアが、書物を抑圧せずには成り立たないのはなぜか? そこでは時間が流れないというのはどういうことなのか? 小さな読みと大きな読みの結び目たらんとして、四方田犬彦はつねに両方の視点を保とうと努めている。

 ところで本書には、当の論文の前に、四方田自身による解題めいた文章(「スウィフト、ふたたび」)が付いている。そこでは、学生時代の自分が論文の前提として選んだ姿勢がこのようにまとめられている。
《わたしはひとまず『旅行記』を、それが執筆された時代の状況から引き離し、自立して宙に浮いた言語的テクストと見なして、フォルマリスティックな分析を施そうと試みた。この空想旅行記に収録されている奇怪なる挿話に関しては、起源となった現実の出来事を探求することをみずからに禁じ、対応するモデルへの言及を意図的に避けた。》P24
 この種のアプローチが、文学作品に向かう唯一のやり方ではなく、方法のひとつに過ぎないことを彼はこの解題で繰り返し、いわば、自作の相対化を図る。それはわかる。しかし、私がこの『旅行記』論につよく惹かれるのは、自分が小説について何事か考えるとしたら、「文体を云々する」以外には、上記のようなやり方にしか興味を覚えることができないだろうとつねづね感じているからだ。なのでこの感想文も、いつも以上に偏っている気はする。

 いま「文体を云々する」と書いた。それでは、この『空想旅行の修辞学』の場合はどうか。
 執筆当時24歳の四方田が、それまでに吸収した膨大な知識を論文に注ぎ込もうと奮闘する筆致は、衒学的というよりむしろ生真面目な硬さを残している。
《スウィフトがすべてを書いたのだから、『旅行記』のすべてはスウィフトに帰属するといった反論に対しては、彼が選択した作品の内的構造は、それ自体として作者が『旅行記』執筆以前に抱いていた世界観を凌駕するだけのダイナミズムを備えていたという事実を、指摘しておけば足りる。いかに自由に発言しようとも、個人の言語使用は母国語の深層構造によって完全に支配されている。文学作品もまた、その属しているジャンルの内的論理を無視して成立することはありえない。ただ可能なのは、ジャンルの可能性の領域をより広大にすることである。ひとたび作品の構造を選択決定したとき、作者はおのれを超えた「他者」の論理を招き寄せてしまったのであり、その後はジャンルの文法に従って書き続けなければならない。書物を書くことが航海に似ているとすれば、それは作者が途中で引き返すことも、辞めることもできず、ただ波の流れに従うしかない点においてであるだろう。》P158

 四方田の選択した方法と同じくらい、私の目に魅力的に映ったのは、『ガリヴァー旅行記』という巨人を相手にして立ち回る、大胆かつ生硬な四方田の文体だったように思う。本書を読んでいると「小説のように興奮する」というのは、そういう事情による。




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