2004/12/20

まだ『眺めたり触ったり』の続き


 もうちょっと引用したい。
《電車で夢中で本を読んでいたためにおりるべき駅でおりるのを忘れた、ということは何回かある。夢中で本を読んでいたために知り合いの出現に気がつかなかった、ということもきっと何回かあったろう。
 でも、次のようなことはありうるか。時は一八四六年の冬、場所はアメリカの開拓地のどこか。ナーシッサ・コーンウォールという名前の十二歳の開拓者の子どもがじぶんの日記にこう書き残している。
「父は、夢中で本を読んでいたので、母に言われるまで、家のなかが知らないインディアンで一杯なのに気がつかなかった」》

 本を買うこと、読むこと、読まないこと。本棚にしまうこと、また取り出すこと。つまり、本を眺めたり触ったりすることのいろいろな楽しみを、実感と思い出から語り、または、他人の本の読み方に同意したり、「ほんとかよ」と驚いてみせる。本を読むことが、いつもこれくらい贅沢ならいいのにと思わされる。本棚に並んだ背表紙を見ているだけでもたくさんのことがわかる、と青山南は言う。

 この本でいちばん印象的だったのは、しかし、ラングストン・ヒューズという詩人の自伝から引かれた文章だった。なぜ「しかし」かというと、それは本を捨てる話だからだ。
『ぼくは多くの河を知っている』という当の本を自分は持っていないので、以下の長い引用は孫引きになる。この文章を何度も声に出して読んだという青山南は、そういえば、孫引きについてはどんな思い出があるのか。それはたしか書いていなかったと思う。
《「今じゃ、どうも、メロドラマじみてる。だけど、わたしがごっそり本を水中に投げこんだときには、まるで心臓から無数のれんがをぴょんぴょん取りだしたみたいだった。わたしは、蒸気船マーロン号の手すりにもたれ、本を海中できるだけ遠くまで投げとばしたのだった、――わたしがコロンビア大学でもってた本の全部、それに、そのご読もうと思って買っておいた本の全部をだ。
 サンディ・フックの沖あいの暗闇のなか、動いていく水中に、本は落っこちていった。さて、わたしは、しゃんとなって、風のほうに顔をむけ、深く息を吸った。わたしは、初めて海にいく水夫だった、――大きな商船の水夫。で、もう起こって欲しくないことは、なにひとつおれの身には起こらんぞ、という感じにわたしはなった。わたしは、内も外も、成人し、一人前の男になった感じだった。二十一歳。
 わたしは、二十一歳だった」》(木島始訳)

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