2004/12/16

若島正『乱視読者の冒険』ほか


 12月1日の発売というから、若島正の新刊『乱視読者の新冒険』(研究社)はもう間違いなく売っているはずだが、芳林堂高田馬場店では一向にお目にかからない。お金を用意して探しに行く→ない、すると別の本を買いたくなって非常によろしくない。さっさと別の本屋に行けばいいものを、こうなると意地になり、いまや池袋まで行くのも億劫だ。どうすればもっと器用に生きられるのでしょう。

 大学教師と翻訳家とを兼ねるプロの小説読み・若島正の著作には、11年前に出版された『乱視読者の冒険』(自由国民社)があり、3年前の『乱視読者の帰還』(みすず書房)がある。研究社からは昨年『乱視読者の英米短篇講義』も出た。
 今度の『新冒険』は、絶版になってしまった『冒険』の忠実な復刊ではないようで、研究社ウェブサイトにある『新冒険』の目次を手元にある『冒険』の目次と照らし合わせてみると、新刊に収められる43の文章のうち、『冒険』とかぶっているのは16に過ぎない。あとは『帰還』の刊行後に書かれた「新作」が収録されているようだ。
(上の数字はすべて小見出しの数をかぞえただけで、実際の文章量・ページ数とは関係がない。『冒険』から『新冒険』に再収録されたものにも加筆訂正がされているかもしれない。「新作」のいくつかは本人サイトの「ただし書き」で読んでいるような気もする[現在は整理済み]。それでも自分は『新冒険』がほしい)

 若島正の書くものはどんなふうで、自分は何を面白いと思って読んでいるのかこれから書いてみようと思うが、具体的な話にはおそらくならない。例によって、対象との距離がとれないミーハーの信仰告白になるだろう。告白が長くなるのはミーハーの証しである(威張ることではありません)。この人はチェス・詰将棋の問題作成者としても高名だが、そちらは不案内なので触れることができない(威張ることではありません)。

 SFやミステリ、ジョイスからナボコフまで、若島正は小説にのめり込む。
 のめり込むという言い方には「熱狂」や「興奮」のイメージがあるが、そして若島正も実際に熱狂し興奮しながら読んでいるのだろうが(文字通り寝食を忘れて本を読む姿がたまに登場する)、読んだ小説について書かれるこの人の文章は常に冷静なものになる。どんなに混乱した小説についても(たとえ『フィネガンズ・ウェイク』であっても)、作品の混乱を明晰な言葉で説明することができるところに自分は「理想としての理系の頭」「理想としての外国語を学んだ人」を見ている気がする。
 こんな感想より実物を引けば話は早いとはいえ、書評をまるまる1本書き写すわけにもいかなくて、しかし『帰還』に入っている次のような文章は、この人の基本姿勢をはっきり示しているように思う。
《作品を論じるにあたって、わたしは難解な批評用語を弄ぶつもりはない。丸い卵も切りようで四角というのは、わたしの趣味ではない。むしろ、丸い卵は丸いということを言うつもりだ。わたしは小説の勘所にしか興味がないのである。それでは、丸い卵を丸いと言うことに、どんな意義があるか。わたしの論じることが、読者には既知のまったく常識的なことであるとしたら、それはそれでひとつのコンセンサスを得られたことになり、悦ばしいのかもしれない。あるいは逆に、それがまったくの常識外れであり、今までの常識が丸い卵を四角だと思い込んでいただけにすぎなかったことが明らかになれば、さらに悦ばしいだろう。もちろん、わたしの読み方が単なる誤読でなければの話だが。》
 こう述べてから、若島正はあのクリスティ『そして誰もいなくなった』の読み直しにとりかかる。
 普通、本の紹介ではなく書評であれば、なるべく他の人の気付かないこと、これまで指摘されていないこと、早い話が「オリジナルな感想」を発見するのが良しとされる。「当たり前のことが言えれば、それはそれで意義がある」と断言するためには、何よりもその読みが正確でなくてはならない。若島正は小説を小説として読み抜く。その本のページをめくった人なら誰でも目にしているはずのディティールを、なかなか真似のできない丁寧さで拾いあげ、まったく常識的な指摘を重ねる。その意味ではたしかに「当たり前のこと」しか書いていないのに、自分が読んで面白かった小説の面白さを的確に伝える技に長けているという点で、若島正の書評はオリジナルなものになる。

 正確な指摘をする実力は、『乱視読者の英米短篇講義』がいちばんわかりやすい。ここにおさめられた計24の講義(おまけつき)で若島正は、つねに対象である短篇の「勘所」を突き、その作品がいかに面白いかを語ってくれる。毎回毎回名講義が続くこの端整な出来は、もともとが研究社の「英語青年」という真面目な媒体に連載されたことも関係しているだろう。
 ひとつくらい具体的な例を引くべきだと思うが、それこそ個別の作品の実直な読みに徹した若島正の文章を一部分だけ取り出すのは難しく、いまぱっと引用できるのはどうしても総論めいた部分になってしまう。というのもこの人は、読者の大半が「アメリカ文学」者と「イギリス文学」者(およびその予備軍)であるだろう「英語青年」誌上でも、こういう啖呵をきったのである。
《わたしは、作家個人または作品のひとつひとつに関心があるだけで、その背後にある「アメリカ」や「アメリカ文学史」というものに対してはさほどの関心がない。たしかに、作家や作品という点どうしに、意外な補助線を引いて、ファンタスティックな星座をこしらえてみたいという欲望は多少ある。しかし、点を次々と結んで線を作り、さらにその線を束ねて面を作りあげ、アメリカ文学史という大伽藍の立体を構成するという作業になると、途端に興味は薄れてしまう。立体の中に埋没して、点のひとつひとつが見えなくなってしまうような気がするのだ。》
 そういって小説を一編ずつ扱うこの人の講義が、当の作品を未読でも面白く読めるというのは何かおかしい気もするが、読者の自分はこれを講義ではなく、いや、講義でありながら、パフォーマンスとして楽しんでいると考えれば了解できる。言い換えると、若島正の突いた一点がみるみるうちにその短篇の「勘所」になっていくさまを、われわれは講義(書評)の中で目撃できるのだ。
 そしてここが珍しいのだが、「勘所」の指摘を中心に行われるこれらの書評は決して機械的ではなく、たいていその短篇との出会いやその作家への個人的な思いから語り始められ、書評の中から小説を読む人間の姿が透けて見える。読む力を持った人がする自分語りは、自分語りにとどまらずにどうしても作品を招きよせる。不思議なことなのかぜんぜん不思議ではないのか、よくわからない。

 小説を読むときは異常なまでにのめり込み、それについて書くときは、のめり込んでいる自分の姿と、のめり込ませる作品の混沌を明快な言葉で語る。
『帰還』に入っている文章の多くも、たいていはそういった静かな書評である。その一方で、この人は作品に合わせた融通無碍なスタイルの書評も書いていた。そして、そういうタイプの書きものも多く入っているのが『冒険』だったと、いま読み返して気が付いた。

 たとえば、『新冒険』にも収録されているはずの「世界の果てとハルキ・ワンダーランド」という文章は、“村上春樹の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』に出てくる登場人物の会話、という形式を使い、その文体模写をしながら、村上春樹が翻訳したポール・セルーの小説『ワールズ・エンド (世界の果て)』の訳文を検討する”といった手の込んだ芸が披露されているし、ウンベルト・エーコによるパロディ小説集『エーコの文体練習』を扱った「書評の文体練習」はこのように始まっている。
《学海余滴といふものがある。わかりやすく言ふと学者の随筆ですね。》
 なんだかわかるだろうか。
《(…)われわれとしては、『記号論』が厄介だからといつて学者エーコを敬遠する必要はない。『薔薇の名前』が小説としての味はひに欠けるからといつて小説家エーコを断罪する必要はない。すなはち、エーコとは幾つもの声を持つた谺(Eco)なんですね。(うん、これは我ながらうまくいつた。)》
 これは丸谷才一の真似で見開き2ページを押し通す力技なのだが、清水義範並みに達者な文体模写でありながら、丸谷才一の文体を知らない人にもアピールできるようになっている(と思う)。
『新冒険』には収録されないものの中にも、カルヴィーノの『冬の夜ひとりの旅人が』(1人の男と1人の女が同じ小説を読むことから始まる変な長篇)の形式を用いてニコルソン・ベイカーの『もしもし』(テレフォンセックスに興じる男女の会話だけで書かれた作品)を論じるという、「なんでそこまで」と呆れるほど作り込まれた書評もあった。芸の細かさに驚くし、それがちっとも読みにくくない点にまた驚かされる。

 どんな小説を読んでも、常に同じ立場から評価を下して書評を書ける読者がまれにいて、そういう人を自分はすごいと思う。一方、対象の小説に合わせて書評の書き方から自在に変えてしまう読者もたまにいて、そういう人を自分はやはりすごいと思う。一定の目と芸達者な手は矛盾しない。このふたつを合わせもち、綿々と小説を読み続け書評を生産するのが、乱視読者こと若島正だと思う。
『帰還』の中に、柴田元幸『アメリカ文学のレッスン』(講談社現代新書)を書評した文章が入っている。
《この『アメリカ文学のレッスン』は、本当に読める人間ならなんでも読めるということ、あるいはなんでも読める人間でないと本当にひとつのものを読めはしないということを、わたしたちに教えてくれる。》
 これは、まったく平易な言葉で高度な感想を伝えてくれる柴田元幸のことを的確に言いあてながら、若島正自身についての評言としても通用すると思う。

 ところで柴田元幸といえば、もともと自分が「若島正」の名前と一緒に『乱視読者の冒険』という本の存在を知ったのは、柴田氏が『舶来文学柴田商店』(新書館)で絶賛しているのを読んだからだった。ふたりはお互いに芋づるのつるを張っているので、その意味では、自分が両方のミーハーになり果てたのも当然の成り行きと言えなくもない。
 その書評の中で柴田元幸は、若島正の小説の読み方を「ホメオパシー」に喩えていた。ある病状を治癒するために、同じ病状を引き起こす毒物を取り入れること。「感情移入」のレベルではないのだ。ただし、本当のホメオパシーがれっきとした医療行為であるのに対し、若島正は治癒しようなどとはまるで思っておらず、《小説という病がどんどん悪化していって、もはや治癒不可能になることを夢見ているのだ――いや、もうなってるか》。

 この表現の他にも、「感動的な一節」として『冒険』から引用してあった文章が印象に残っているので下に孫引きする。ナボコフ論の一節である。
《「ナボコフの息子たちは、ナボコフをポストモダニズムとの関連で論じたり、メタフィクションという用語を使って説明したりすることは絶対にない(誰が自分の父親をそんな言葉で語りたがるだろうか?)それぐらいなら、彼らはただアスファルトの上の楕円形の水たまりの描写について語ったり、あるいはナボコフからジョン・アップダイクへと至る路線に連なるアメリカの新進作家ニコルソン・ベイカーが『UとI』(一九九一)でそうしたように、雪どけの朝の氷柱の雫の描写について語ることを選ぶのだ」》

 著者のことを何も知らない人間に、現物からの引用で「その本を読みたい」と思わせるのだから、柴田元幸の書評は非常に効率的だと思う(※1)
『舶来文学~』を読んだとき、『冒険』はすでに絶版だった。ところが、その翌月に高田馬場BIGBOXの古本市に行ってみたらあっさり見つかって、ほとんど拍子抜けした。「なんだ、けっこうある本なのか」と思ったが、その後いまにいたるまでどこの古本屋でも見かけない。最初にしてみた『冒険』と『新冒険』の目次の対照に戻ると、『冒険』に入っている計37の文章のうち、『新冒険』に収録されないものは21にもなることを、人間の小さい自分は最後に付け足しておきたい(※2)


(※1):こういう的確な引用ができる能力と、自分がここ「キッチンに入るな」でしている「ただ自分がしたいだけでやっている引用」の違いはいずれ考えないといけない気がする。
(※2):あと、若島正の本にまつわる個人的な思い出としては、3年前のちょうど今頃、1週間半で親知らずを3本抜く荒行の真っ最中に『帰還』が発売されたのがあげられる。前日に抜いた歯の痛みも血も止まらないまま、買ったばかりの『帰還』を抱えて喫茶店に入り、チーズケーキをつつきながら読んだナボコフ論のひとつは「はめこまれた歯」というタイトルで、このロシア生まれの作家がアメリカに移住して英語での執筆を始めたのと、まとめて歯を抜いて総入れ歯にしたのが同時期である事実に触れ、ナボコフ作品における歯と英語の関わりを扱った文章で、これは『帰還』でも白眉の論考だったと思うのだが、なんというか、自分が(肉体的に)痛かった話はもういいか。チーズケーキには血がついた。



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