2004/09/26

バルガス=リョサ他『ラテンアメリカ五人集』

ラテンアメリカ五人集
集英社文庫(1995)

 ラテンアメリカ出身の作家五人の作品集。以下、一作ずつ感想を。

J・E・パーチェコ[メキシコ]
「砂漠の戦い」(安藤哲行訳)

 語り手が、同級生の母親を好きになってしまった小学生の頃を回想する。彼を異常者として扱う周囲の人間たちを通して当時の社会が描かれる。50年代のメキシコじたい珍しいから飽きはしないものの、まあ、普通の話だった。

M・バルガス=リョサ
 (飛びぬけてよかったので後述)

シルビーナ・オカンポ[アルゼンチン]
「鏡の前のコルネリア」(安藤哲行訳)

 狂気をはらんだ対話の連続。でも鏡と分身のモチーフを重ねて使うのは、定型といえば定型だがそれだけに退屈。

オクタビオ・パス[メキシコ]
「白」(鼓直訳)

 詩。詩はわからない。

「青い目の花束」(野谷文昭訳)

 幻想恐怖短篇。密度が高く面白いのでもっと数を読みたい。

「見知らぬふたりへの手紙」(同)

 幻想不思議短篇。以下同上。

M・A・アストゥリアス[メキシコ]
「グアマテラ伝説集」(牛島信明訳)

 タイトルどおり、民間伝承を題材にした奔放な話が6つ。そういうものをはじめに持ち込んできた功績はともかく(ボルヘスと同年生まれのアストゥリアスは〈マジック・リアリズム〉の元祖と言われるらしい)、伝説や神話なら「なんでもあり」で当たり前の気がしてあまり心が躍らない。こちらの問題だろうか。


 一口にラテンアメリカといってもいろいろあるようなので、こういうアンソロジーはもっとほしい。やはり短篇アンソロジーだった『美しい水死人』(福武文庫)は、ちくま文庫あたりで復刊されないだろうか。

 このサイトの管理人たちが、「ラテン・アメリカ文学を代表する作家たちの分布図」を作成してくれていてちょっと便利。
 http://park8.wakwak.com/~w22/nan.htm


バルガス=リョサ[ペルー]
「小犬たち」(鈴木恵子訳)
《その年はまだ、みんな半ズボンをはいていて、ぼくたちはタバコも吸わず、サッカーが何より好きで、波乗りの練習も始めたばかり、やっと〈テラサス・クラブ〉の飛込み台の二番目の板から飛び込めるようになり、腕白で、つるつるした肌をし、好奇心が強くて、ひどくすばしっこく、がつがつしていた。》

 語り手が子供時代を回想する点では、この短篇も上述のパーチェコ「砂漠の戦い」に似ている。語られる話の内容が無茶苦茶に派手なもの(超現実!)ではないのも似ているが、こちらは全篇を通した文体、「文章で書かれた話し言葉」の跳ねまわる様がすばらしい。少年時代は過去形でしか語れない。しかしこの短篇の話し言葉は、過去の場面場面をその都度現在のものとして再現する。
 回想の中心になるのはクエリャルといって、猛犬に局部を噛み切られてしまった少年。さいわい命に別状はなく、となれば子供のことだから、当然のようにからかいの的になる。
《ぼくらは彼の肩を抱き、それにさ、別に怒ることないじゃないか、兄弟、他のいろんな仇名とおんなじことさ、君だって足の悪いペレスのことは、欠け足、っていうし、斜視のロドリゲスのことは、寄り目、とか、呪い目、とか、吃音のリベラのことは、くちきき、っていうだろう? それにあいつは、チョートで、あいつはチンゴロ、あいつはマニューコ、それにあいつはラロって呼ばれているだろう? 怒るなよ、兄弟、さあゲームを続けろよ、君の番だぜ。》

 そういうわけで、最初は嫌がり、怒り、泣いていたクエリャルも、やがてあたらしいニックネームを受け入れるようになる。
《〈ちんこ〉、けちけちせずにボールを回せよ、代数は何点だった、〈ちんこ〉? キャラメルと水飴を取り替えっこしようよ、〈ちんこ〉、あしたはチョーシカへピクニックだ、必ず来いよ、〈ちんこ〉、河で水浴びして、ブラザーたちがグラブを持ってくるからグムシオとボクシングをやれるしさ、〈ちんこ〉、敵を討てるぜ、登山靴は持ってるかい、〈ちんこ〉、山登りもすることになってるんだ、〈ちんこ〉、それに、帰って来てからでも夕方の映画に間に合うしさ、〈ちんこ〉、どうだい、この計画、気に入ったかい?》

 正確には、↑の引用は「ぼくたち」とはまた別の子供たちがクエリャルに投げかける言葉なのだがそれはともかく、ひとりの特別な人間を真ん中に置くことで、たいていの場合「よそでやってくれ」と言いたくもなる男の子同士の友情などというものを正面きって描くことにこの短篇は成功していると思う。

「ぼくら」「ぼくたち」という主語は、普通には「特定の一人(語り手)が自分を仲間たちとひっくるめて使う総称」だが、この短篇ではもしかすると「クエリャルと仲のいい男の子グループ」がはじめから一体化して喋っている〈複数の一人称〉なのかもしれない(うまく書けなくてもどかしい。変な一人称複数の語りにはこういうのもあった)。

 しかしながら時は流れ、具体的には「ぼくたち」が女の子に関心をもつ年頃になると、クエリャルはひとり取り残されていく。外見上はたくましい青年に成長したのに、どれだけ「ぼくたち」が励ましても彼はガールフレンドをつくろうと一歩を踏み出すことができない。生活は荒れていく。
「ぼくたち」とクエリャルとのあいだにひらいていく距離は、そのまま「ぼくたち」の少年時代からの隔たりであるだろう。しかしそんな平凡な解釈を後景に追いやってしまう切実さがクエリャルと「ぼくたち」の関係にはある。溝は埋めようがない。それでも「ぼくたち」は、声をかけるのだ。
《彼はハンドルを抱き締めて、溜息をつき、泣きじゃくり、首を振り、そして声をつまらせて、いや、そうじゃないんだ、誰もいやがらせをいったりしやしないよ、ばかにするなんて、そんな奴なんかいるものか、とハンカチで涙を拭いた。落着けよ、兄弟、それじゃあ、いったいどうしたんだい? 飲みすぎかい? いいや、気分が悪かったのかい? いや、そんなことじゃないんだ、気分はいいよ。ぼくらは彼の肩や背中をたたいて、おまえ、おっさん、兄弟、〈ちんこ〉、と元気づけ、泣くのはやめて笑ってくれよ、馬力のナッシュをふかして、その辺まで行こうぜ。〈エル・トゥルビヨン〉でお名残の一杯をやろうよ、二回目のショウにちょうど間に合うぞ、〈ちんこ〉、さあ行こう、泣かないでさ。》

「〈ちんこ〉、さあ行こう、泣かないでさ。」!

 これほどやさしい呼びかけは聞いたことがなかった。

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