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筒井康隆『虚航船団の逆襲』(1984)
虚航船団の逆襲
中公文庫(1988)

 私の場合、ラテンアメリカ小説への入口は『虚航船団の逆襲』だった。

 そのタイトル通り、『虚航船団の逆襲』の目玉は、長篇『虚航船団』(1984)出版後にあらわわれた(作者から見て)見当違いの批評に向けた反論である。
 しかし「逆襲」部分は分量的に1/5もなく、あとはさまざまなエッセイが入っていて、そのいくつかで筒井は現代ラテンアメリカの小説がいかにすごいかを、ガルシア=マルケスやカルペンティエールといった名前を紹介しつつ、魅力的に書いていた。田舎の本屋に筒井の本はかろうじてあっても海外文学はほとんどなかったから、当時高校生だった自分は「トカイに行ったら絶対買うんだ、この『百年の孤独』という本を」と思ったものだった。

 なんだか悲しくなってきたが、あのころ感じた“売っているはずなのに手の届かない本”への飢えというか、羨望というか、一種の無力感は、実感したことのない人には理解できないだろうと思う。「注文すればいいのに」といっても、その「注文しなければ手に入らない」不自由さから生まれる無力感なのである。
 いまは東京に住む身だが、自分がジュンク堂もあればブックファーストもある世界にいるのが時どき信じがたく思われることがある。いつか何ものかに無理やり「お前はこっちだろ」と言われて、本屋にはごく少数の新刊本しかないあのガランとした土地に引き戻されるんじゃないかと心のどこかでつねに疑っているふしがある。この感覚は一生抜けないんじゃないだろうか。
 なので、子供の頃から紀伊国屋や池袋LIBROが生活圏内にあった人間に対して自分は無意識に(四民平等、と言われた後も多くの人が元華族に対して感じたであろうような)「身分の違い」を感じてしまう。大学1年の夏休み、自分が『百年の孤独』をどれほど面白く読んだか、あなたたちには到底わかるまい。わかるものか。わかられてたまるか。

 こんなことを書くつもりではなかった。

『虚航船団の逆襲』に収録されている「現実と超現実の居心地よい同居」で、筒井はガルシア=マルケスの作品を論じ、中篇「大佐に手紙は来ない」にも触れていた。
 前回感想を書いたこの作品のラスト間際で、ついに生活が立ちゆかなくなった大佐は「あと1ヵ月半もすれば軍鶏が賞金を得る」と老いた妻に語り、最後はこのようにして終わる。
《「そのあいだあたしたちはなにを食べるの?」彼女はそう詰問し、大佐の下着の襟をつかんだ。そして彼を烈しくゆさぶった。
「言ってちょうだい、あたしたちはなにを食べればいいの?」
 大佐は七十五年の歳月――その七十五年の人生の一分、一分を要して、この瞬間に到達したのであった。
「糞でも食うさ」
 そう答えたとき、彼はすっきりとした、すなおな、ゆるぎのない気持ちであった。》

「小説ではない現実世界では起こらないだろうこと」はひとつも起こらない、と前回の自分は書いた。そのように読んだ。
 いっぽう、ガルシア=マルケスに「どうしようもなくリアリティをもつ超現実」を読む筒井の解釈はこうである。
《(…)この場合は逆に、最後の数行で超現実へすっとんでしまう。(…)「糞でも食うさ」
 不幸にも糞くらえという罵倒語を持つわれわれ日本人に対してこのことばは正確に伝わらぬ嫌いがある。大佐は文字通り「これからは大便を食べて生きていこう」と言っているのだ。言い換えればこのたったひとことの超現実性――しかもそれが象徴的な意味で使われたのではなくなまなましくも本来の意味で使われたことが厳然たる事実たらざるを得ないという不条理性を表現するためにのみマルケスはこの中篇をえんえんと書いたのである。(…)》p140

「文字通り大便を食わざるをえない」状況を、自分はあくまで現実と読み、筒井はそれを、そこまでの現実描写によってたどりついた超現実だと読んでいる。
 くだんのエッセイで筒井は、「超現実」である出来事のリアリティを高めに高めて「現実」と並べ置くのが「現実と超現実の居心地よい同居」だと書いている。
 でもそのためには、無茶苦茶なこと・非現実的なこと、つまり現実にはありえないはずのことを、現実でしかありえないものとして描くところまで行かなければいけないのだろうか。不思議なのは、そうなったら超現実が超現実だとはわからないのではないかと思うからだ。達成したあとではどこがゴールだったかわからなくなってしまうような、そんなゴールをめざすのだろうか。

 そんなことはない、とあなたは言うかも知れない――たとえば、どれだけリアリティをもって描いたとしても、「翼の生えた老人」は現実にはありえないのだから、超現実だとわかるでしょう。
――でも、それはまだ「現実ではありえないはずのこと」を「現実でしかありえないこと」に変容させるには至っていないということではないですか?
――それは無茶な注文でしょう。人間に翼はないんだから。
――では、「超現実がまるで現実のように書いてある」というのは言葉の綾ですか? 現実ではないとわかっているくせに「まるで現実」だなんて。逆に言えば、「超現実を現実と並べて描く」という場合、題材になりえるのは「超現実」だけじゃないですか?
――ループしてるように見えるけど、ここでも問題は、「現実にはありえないはずのこと」の「はず」をどこに置くかだと? ていうか何の話だっけ?

 要するに自分は、妻に向かって「糞を食う」と言うのは、言うだけではなく実際に食ったとしてさえ、たとえば「翼の生えた老人」と比べれば、どうあっても現実なんじゃないのかと言いたかった。
 そしてもうひとつ、上とはまったく矛盾するようだが、「糞を食う」のを「あくまで現実である」と読むのと、「現実描写の果てに超現実に飛んだ」と読むのは同じことじゃないかと言いたかったのだが、どうして同じなのかがうまく説明できない。あえて言えばこういうことだろうか。

「だって、糞だから」

 何か見落としている気がする。またいつか考えてみたいが、いつになるかはわからない。
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