趣味は引用
ガルシア=マルケス『ママ・グランデの葬儀』(1961,62)
ママ・グランデの葬儀
桑名一博・安藤哲行・内田吉彦訳、集英社文庫(1982)

 中篇「大佐に手紙は来ない」にプラスして、短篇が8作入っている。どれも『百年の孤独』(1967)より前に書かれたもの。『エレンディラ』収録の諸作品は『百年の孤独』のあとなので、あちらの奔放さに比べると、同じ短篇でもこっちの作風はかなり違う。

「大佐に手紙は来ない」では、老いた大佐夫妻が恩給を何十年も待ち続ける生活が克明に描かれる。ひとり息子は反政府運動に関わった咎で殺された。妻は喘息に苦しみ、食べ物はいつも尽きかけている。家の中に売れる物はほとんど残っていない。
《彼はベルトを使わなかった。古いボール紙のような色をしたシャツは、ボール紙のようにごわごわとして、とりはずしのできるカラーを同時に支えている銅の飾りボタンでとめてあった。しかし、そのカラーは破れていたので、大佐はネクタイをあきらめた。》p10

 息子の遺した立派な軍鶏がやがて大金を稼いでくれるだろう、という期待だけで大佐は日々をしのぎ、自分たちの食費を切り詰めて餌を買い、恩給を待つ。そんな貧しい生活が90ページ続く。毎週、船が着くたびに大佐は港まで出かけるが、手紙は来ない。それでも彼は待ち続ける。
「小説ではない現実世界では起こらないだろうこと」はひとつも起こらない。その意味でこれは普通のリアリズム小説である。
 他の短篇の多くも同じで、このようにギチギチな現実描写の蓄積の後に『百年の孤独』が書かれたのは興味深い。かたやひたすら現実的。かたや夢よりも幻想的。それなのに筆致はさほど違わない気がするから不思議に思い、そこからリアリズムの小説と小説のリアリティについてちょっと考えてみたが、自分の手には負えなかった。思いつきだけ下のほうに箇条書きにしてみる。
(しかし実感として思うのは、小説をいろいろ読み続けることによる進歩がもしあるとしたらそれは、なんとなくわかっているつもりでいた“リアリズム”その他の「小説を説明する語句の意味」や「ジャンルの区別」がどんどんわからなくなっていく点ではないかということだった。こういう姿勢は前向きなのか後ろ向きなのか、それもよくわからない)

 書くほどに馬脚が現われるんだけど:

・上に書いたようなリアリズム描写を支えるのは、作者以上に読み手の常識、世界観
・作者は自分に見える現実にきっちり寄り添っているのに、多くの読者には(地理的・時代的に「現実」のズレがあるせいで)ぜんぜんリアリズムをやっているとは見えない、だから「リアリティのない」作品もあるはず

・時代小説はリアルなのか? 判断できるのは誰?

・成功した現実密着描写は(少なくとも作者と現実を共有する読者にとっては)リアルであるはずだが、「それと同じくらいリアルだと感じるのにぜんぜん現実密着描写に頼っていない作品」は、いったいこちらの何に訴えることでリアリティを獲得して(リアリズムたりえて)いるのか?
・その場合のリアリティは錯覚か?

・対象が現実であれ幻想であれ、「密着描写」がリアリズムなのか? 密着って?
・「リアリティを感じさせる方法がリアリズム」とまで拡大解釈したら、「どんなリアリティも錯覚」と同じで何も言っていないに等しい気がする

・ここに“マジック・リアリズム”という語を持ち込むと話は整理されるのか? 混乱するだけじゃないか? (例:時代小説はマジック・リアリズムか?)

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