趣味は引用
04/10/15

 その文章を読んだときの自分は中学生だったのか高校生だったのか、とにかく新聞の文化欄に載っていたのだから実家にいた時分なのはたしかで、肩書きが「作家」あるいは「小説家」だった書き手の名前は当時の私に思いあたるものではなくすぐに忘れてしまったし、記事を切り取っておく程度の知恵も回らなかったのに、それでも書かれていた内容はずっと記憶に残っていて、「あれを書いたのは誰だったのだろう」という疑問と一緒にときどき思い出していた。おぼえている限りでは、それはだいたいこんなものだった。

 ・小説で、風景描写が人物の内面を表現するとされているのはおかしい
 ・そんな前提を私は知らなかったし、これからもするつもりはない
 ・登場人物なんかの心理と関係なく空は晴れたり曇ったりしているはずだ

 私はこれを「なんてまっとうな考え方だろう」と思い、だから記憶に残ったのだが、なにしろその頃はいま以上にものを知らなかったから、小説には風景描写と人物の内面を関係づける約束事があるということをそもそも知らなかった可能性が高い。知らない世界で行われている何らかのふるまいを「奇習でしょう」という判断とセットで紹介されれば「たしかに奇習だなあ」と受け取ってしまうのは自然なことかもしれない。
 しかしそんな刷り込みの部分を差し引いたとしても、その後いくらか小説を読むようになるにつれ、上の意見はいよいよまっとうなものに思えてきたのだった。

 風景描写を内面の象徴とする前提や、それに類するさまざまな約束事があるとして、そしてそういった慣習に従い多くの小説が書かれてきたとして、べつにそれらを「よくない」と言うつもりはないし、言ったところで意味はない。現にそのような小説がいわゆる普通の小説として書かれ読まれているのだろうし、そのなかには面白いものもあればあまり面白くないものもあるだろう。
 ただし、運良く面白いものに当たって楽しく読む場合でも、そこにある前提と慣習は「前提」でしかなく「慣習」にすぎないこと、約束事は「絶対に守らなくてはならない原理」ではないことを一応わかっていた方が、わからないでいるよりはいいのではないか。何事も、「いまそうなっているにしても、実はそうでなくてもいいんだ」とわかるとしあわせな気持になる。
(とか言いながら、まるで読書量の足りない自分は「一般的な小説」なるものをどういうものかも曖昧なままに仮定しており、その上で前提とか慣習とか言っているのだからひどく傲慢である)

 傲慢だと自覚しながらもそんなことに思いをめぐらして前提だとか慣習だとかを無責任に考えていられるのは、私が自分では小説を書かないし書く気もないからで、「一般的な小説」の依拠する約束事は慣習でしかないと見えていながら「そういうのとはちがう小説」を実際に書こうとする人を私は尊敬する。そんな作家は、どんな小説だって「一般的な小説」からまったく無縁なところにあるはずがない以上、それら前提なり慣習なりのどれをどこまで利用してどれは使わないで書くか、替わりにどんな約束事を導入するかで苦心惨憺するのだろう。
 あの新聞コラムに戻れば、実作者(「作家」あるいは「小説家」)でありながら「世の小説の大勢を占めるその前提に、おれは従わないよ」とはっきり述べていたあの書き手は度胸があると思ったし、むしろそうでなくては「ちがう小説」なんて書けないのかもしれず、なおさら「あれは誰だったのか」と気になるのが何年か続いた。

 新聞は実家でとっていたものだから読売新聞の朝刊で、図書館でおおよその当該期間の文化欄を端から探していけば見つけられるとわかってはいたものの、そのうちやろうと思うだけでいつまでたっても手をつけなかった理由は二つある。
 ひとつめはもちろん「面倒だから」だが、もうひとつは、当の記事を読んで以来の数年間にちまちま読んできた本や、本についての本、本について見聞きした評判などに触れるうちに「あの作家」が誰だったのかだんだん見当がついてきて、やがてきっとあの人だろうと確信するまでになり、「あれは誰だったのか」という疑問じたいがいつのまにか気化して無くなってしまったからだった。
 なんだか盛り上がりに欠ける話だが、小説ではない現実には劇的な解決は滅多に訪れない(←小説の場合だって劇的な解決があるのは一種の約束事だろう、と言ってみたかったのでいまこういうことを書いた)。にもかかわらず、「あれを書いたにちがいない」と思われる人の本になかなか手を出さなかったのは、性格の問題としかいいようがない。

 それが先日、芳林堂高田馬場店で当の作家の文庫本が目に留まり、いや、それだって別にはじめてではなく今まで何度も見ていたし、だいたい私はその本がハードカバーで出たときに「買おう」と手に取って、でも値段が少し高くて棚に戻したことまでおぼえているのだが、なんにしろ今回ようやっと、それをレジに持って行った。それから電車に乗って、書店のカバーがかかったままのその文庫本をめくり始めてまもなく、私は新聞で読んだあの文章に再会することになる。
「この本のなかにあるだろう」と予想していたし、事実あっけなく見つかったとはいえ、ああそうだ、これだったなあという感慨はあった。
《[…]僕は最近になるまで、小説の中で描かれている風景の描写が、通常、登場人物の心の状態と対応してその説明となっていたり、そういうことを婉曲に匂わせる働きを持っていたりする、というじつにあたり前の小説上の暗黙の了解も知らなかった。
 だからたとえば僕は、沈んで憂鬱な気分の主人公が「わたしは暗鬱な気分を拭き払うように夜の闇に向かって一度深く息を吐いた」などと語っているのを読むと、「何をバカなことを」と思うことになっていた(今でもそうだが)。「わたしの暗鬱な気分」と「夜の暗闇」は本来関係がない。「わたし」が憂鬱であろうがはしゃいでいようが夜は暗いものなのだ。夜が暗いということは、「わたし」のまわりに街灯がないか、煌々と光る満月が出ていないか、空に厚く雲がかかっているかのどれかで、空に雲がかかっていなければ、「わたし」の気分がどんなに憂鬱でも空には星が出ていて、自分の憂鬱にナルシスティックに浸っている「わたし」が知ろうとしない別の場所では、星座表を片手に、それを見るための懐中電灯をもう一方の手に持って星座を探している人だっている。
 僕はいままで小説の中で猫を繰り返し書き、ほかにも犬もクジャクも書いてきた。そのたびに一部の人たちから「猫が何を意味しているかわからない」という意味のことを言われたが(そしてこれからも言われ続けれるのだろうが)、僕は猫を書いて何か他のことを意味したいわけではない。ぼくが猫を書くとき、僕はただたんに猫を書きたい。猫に託して自分の心の状態を遠回しに読者に知らせたいとは思っていない。[…]》

「前提」という語はなかったが、記憶にあったよりもきっぱりした物言いなのだった。小説にも文章にも前提があるように、ものの受け取り方・感じ方にだって型はあるのだから、「風景描写―心理」の前提を否定するこの文章が、とりわけ「星座表」「懐中電灯」(あるいは「猫」)というあたりで何かこちらの感じやすい型に訴えかけるよう工夫されているのはおかしくない。
 ところでこの引用は『アウトブリード』(河出文庫)という本の18‐19ページからで、最初に新聞で読んでから約10年のあいだに「誰なんだろう」から「きっとそうだ」に変わりつつ私の記憶に場を占めていた作家、「あの書き手」は、保坂和志だった。

 その保坂和志が今年になってから文芸誌「新潮」で、それこそ「小説をめぐって」というタイトルのもとに連載を続けていると知ったのはついさっきのことである。「新潮」は図書館で何度か見ていたはずなのに、ぜんぜん気付かないでいた。
 公式サイトで途中までアップされている(!)のを見れば、第五回まででも相当な分量になっており、今はちょっと全部を読んでいる時間がないのでちらちら眺めただけだが、その「相当な分量」を使ってたっぷり他人の文章を引用し、小説の意識されにくい約束事を扱っているようだからどきどきする。

 保坂和志じしんの小説は、「何も起こらない」というおそらくはネガティブな意味合いの言い方を決まり文句のように使って紹介されることがおおいけれども、実際に読んでみると、ものすごくたくさんの事件がめまぐるしく発生し続けている。デビュー作の『プレーンソング』からすでに「いま自分が読んでいるこれは何なんだ」みたいな興奮があるし、続篇『草の上の朝食』も、気分よくのんびりした雰囲気がとことん頑固に書かれていてまったく退屈する隙がない。
 実はまだこの2作しか読んでいない私が、保坂和志みずから「最高傑作」と公言する『カンバセイション・ピース』を読むのはいつになることか。何年も先かもしれないし、来週あたり読んでいそうな気もする。


アウトブリード (河出文庫―文芸COLLECTION)アウトブリード (河出文庫―文芸COLLECTION)
(2003/04)
保坂 和志

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