趣味は引用
その63 ― ピンチョン Lot 49
The Crying of Lot 49 (Perennial Classics)

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(1)小説の地の文があちこちを編集して読者に提示する筋の順番
(2)小説の中でエディパたちが観たはずの『急使の悲劇』の筋の順番

 前回、こういう区別を考えていた。
 このふたつを小説一般に拡大してみることができると思う。

(1)小説をページ順にめくっていった時に出来事の配置されている順番
   つまり、小説で構成されている順番
(2)それを〈過去→現在→未来〉の時間軸に沿って並べ直した順番
   つまり、物事が起きた本来の順番

 このふたつについて、日頃の自分はなんとなく、まず(2)があって、そこにいろいろ手が加えられ(構成)、結果的に(1)として提示されている、というふうにとらえているフシがある。
 言い換えれば、「小説の表面にはあらわれていなくても、下とか奥とか、どこかに(2)の順番があり、それに基づいて(1)はできている」と思っているような気がする。

 素朴に考えて、これは順序が逆である。

 小説は、ただ(1)の順番で書かれているだけだ。読者が読むのは、あくまで「何らかの作為(または無作為)によって、時系列を様々にいじられた出来事の連なり」としての(1)である。
「本来の時間の流れに沿った順番」として想定される(2)は、それこそ、できあがった小説をもとにあとから想定されるだけのもので、「本来」も何も、小説のどこにも書かれていない以上、実在しない。

 時間がいったりきたりする小説を読みながら首をひねり頭をしぼり、メモまで書いて(2)を完成させ、「あ、こうなっていたのか!」とおどろくのは楽しいし、作品を読むのに役に立つこともたまにはあるが、その作業は時間の流れの再構成ではなく、創造だと思う(もともとないものを構成はできない)。

(もしかすると、小説を書いている作り手の手元には「正しい」年表があり、そこからむかしの出来事や先の事件を取り出して効果を生むように配置し、作品を構成していることもあるかもしれない。
 だが、だとしても、受け手の前にあるのは作品・小説だけなのだから、「作者のことはどうでもいいじゃないか」と言いたい)

 読者は目に見える具体的な(1)から目に見えない(2)をつくる。(2)は、どうしたって二次的なもの、抽象物である。
 小説の中の世界にも(2)の時間が流れていると考えるのは、誤解というか錯覚だろう。(2)があるのはせいぜい「読者の中」のはずだ。「小説の中」には(1)しかない。

 ところが、いま書いた「小説の中には(1)しかない」というのも、まだ間違いを含んでいる考え方のような気がしてきた。

…続き
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