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2004/04/05

その56 ― ピンチョン Lot 49

競売ナンバー49の叫び

前回…] [目次


〈トライステロ〉はまだ登場していない、ということを何度でも強調したい。

 まだ登場していない、つまり実体のないものをこんなに思わせぶりに予告して不吉なイメージで描くのは、相当奇妙な書き方にみえる。実体よりもイメージが先行して小説の中に現われているのだ。

 しかし落ち着いて考えると、予告だろうがイメージだろうが、〈トライステロ〉という言葉が記されている以上、まさにここで〈トライステロ〉なる存在が生まれていると見ることもできる。
 だいたい、すべてが言葉でつくられる小説という虚構において、実体を示す文章とイメージだけを示す文章とで、どれほどのちがいがあるだろう。
 そうすると、この〈トライステロ〉の書かれ方は、奇妙でもなんでもない当たり前のものになる。

〈トライステロ〉という名前が置かれた瞬間から、〈トライステロ〉は存在を始めている、という説明がもし意味ありげに見えるとしたら、それはたんにこの書き方がものものしくなってしまっているからでしかなくて、本当は平凡なことだ。
 エディパにしても、ページの上に「エディパ」という名前が置かれた瞬間、このキャラクターが存在を始めているのと同じことだと考えれば、どこまでもふつうの現象のはずである。
「あらかじめ存在しているものを、言葉が記述する」だけでなく、「ものは言葉によって書かれることで存在を始める」とする考え方はべつに珍しくない。それに何より小説では、言葉で書かれるより前から「あらかじめ存在」しているものなんか、ない。
 まだ実体のない何かを、あるイメージを生む言葉の連なりで、つまり文章で、描く。すると、そのようなイメージを持つものとして、その何かが小説の中に(読者の中に?)定着する。

〈トライステロ〉が徐々に姿を見せてくるのは、舞台上の演芸(performance)になぞらえられていた。踊り子が服を脱ぐようにして――というイメージを伝える文章は、それじたいが〈トライステロ〉の存在を生む、文章のパフォーマンスである。
 これからも〈トライステロ〉をめぐる文章は地の文に数多く登場し、噂が語られ、少しずつ「どうやらこういうものらしい」という像がエディパのなかで結ばれる。
 では、その実体はいつ現れるのか
 そこを読みとるのがLot 49 を読むことである。だからこれからも、〈トライステロ〉という語が出るたびに、細かくしつこく引用しながら観察しようと思う。
The beginning of that performance was clear enough. (p40)

《その演芸のはじまりは歴然としていた。》p65/p72

ということで、話は続く。

…続き

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