その51 ― ピンチョン Lot 49
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「権力」「抑圧」「対抗」と、ファローピアンの説明した内容はかなりストレートだが、この説明の示され方にはいくらかのひねりが加えられている。前回引いた部分を含めて、そのひねられ具合を見ておきたい。
He saw it all as a parable of power, its feeding, growth and systematic abuse, though he didn't go into it that far with her, that particular night. (p39)
《[ファローピアンは主張する、]それはすべて権力の譬えばなしなのだ、権力が授乳期、成長期を経て組織的濫用にいたるという譬えばなしだと。もっとも、この夜は、そこまで彼女に対して押し進めたことは言わなかったが。》p63/p71
ということは、読者に伝えられたファローピアンの主張(前回まとめた内容)を、エディパは彼にはじめて会ったこの時点ではまだ知らないのである。
この晩彼女の記憶に残ったのは、彼の体型とか整った鼻の形とか、そんなことでしかなかった、といって〈ザ・スコープ〉のシーンは終わる。
「作中で示されたこと」と、「作中人物であるエディパが知っていること」に、ずいぶん開きがある、とはこれまでも何度か書いたことだが、繰り返すと、このLot 49 では、エディパと地の文のあいだにあるズレ(どんな小説にだってあるはずのズレ)が、しきりに強調されているように見える。
言い換えると、作中人物とは別の次元にある「語り」の自己主張が激しいのだ。
「作中で示されたこと=小説が語っていること=書いてあること」をぜんぶ読む読者のわれわれは、それらの情報の限られた一部分しか知らない作中人物・エディパと同じところには立っていない。
引用部分から、読者はファローピアンの唱えるところの被抑圧史観を知り、同時に、「エディパはこの考え方をまだ知らないんだな、すると彼女はこの後また彼に会って話をし、そのうち教えられるんだな」というふうにズレを意識させられる。
しかし、「書いてあること」をなるべく取りこぼさないように追いかけながら、並行して「エディパの知っていること/知らないこと」を分類しつつ読み進めるのは、なかなか難しい。そんなことは無理なんじゃないかという気もする。
なぜなら、「ページの上に書いてあってエディパも知っていること」も「ページの上に書いてはあるけどエディパはまだ知らないこと」も、どちらも等しく文章で書かれている以上、エディパならざる読者は、書かれてあることは、書かれてある順に、なんでも受け取ってしまうものだから。
ファローピアンの説をエディパはこの夜ではなくいつ知ったのか、それはおそらくどうでもいい。《もっとも、この夜は、そこまで彼女に対して押し進めたことは言わなかったが。》という断り書きがここに付け足されている理由は、ズレの強調以外にはないように思う。
[…続き]
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