2020/02/27

内田百閒『無絃琴』(1934)

旺文社文庫(1981)

《その晩は、表が静かであつた。滅多に人も通らず、通る者も黙つて行き過ぎた。日が暮れて間もなく、二人の足音が、私の窓とすれすれに歩いた。
「要するに」と云つたのは、若い女の声であつた。「早く家庭を持つと、いいんだわ」
 男の方が、「さうです、さうです」と云つて、後からついて行つた。》p81「竹酔日」

『百鬼園随筆』『続百鬼園随筆』に続く、3冊目の随筆集ということになるらしい。
 わたしが百閒の文章を面白いと思うポイントには

(1)変な理屈
(2)感覚の巧みな言語化

のふたつがあり、さらに

(3)そもそも文章がうますぎる

というのもあるが、当たり前ながらどのページもすべてが文章なのだから、(1)も(2)も(3)に含まれるというか、(3)から(1)と(2)が出てくるというか、分類するだけ意味がないと言うための分類だった。でもこういうことは繰り返し言ったほうがいいような気もする。
 入り組んだ事象も込み入った感情も、わりあい簡潔な構文に流し込んでするする読ませながら、読んでから「え、こんなややこしいことをなんでこんなに簡単に書けるんだ?」と不思議になってまた読み直してしまう文章を、今回もなるべく長く引用する。

 変な理屈の例。
[…] 学校の先生を止めて以来、家に籠居して、身体を動かす事が少いので、午飯を廃して、蕎麦[そば]の盛りを一つ半食ふ事にきめた。蕎麦屋は近所の中村屋で、別にうまいも、まづいもない、ただ普通の盛りである。続けて食つてゐる内に、段段味がきまり、盛りを盛る釜前の手もきまつてゐる為に、箸に縺[もつ]れる事もなく、日がたつに従つて、益[ますます]うまくなる様であつた。うまいから、うまいのではなく、うまい、まづいは別として、うまいのである。爾来二百餘日、私は毎日きまつた時刻に、きまつた蕎麦を食ふのが楽しみで、おひる前になると、いらいらする。朝の内に外出した時など、午[ひる]に迫つて用事がすむと、家で蕎麦がのびるのが心配だから、大急ぎで自動車に乗つて帰る。たかが盛りの一杯や二杯の為に、何もそんな事をしなくても、ここいらには、名代の砂場があるとか、つい向うの通に麻布の更科[さらしな]の支店があるではないかなどと云はれても、そんなうまい蕎麦は、ふだんの盛りと味の違ふ點[てん]で、まづい。八銭の蕎麦の為に五十銭の車代を拂[はら]つて、あわてて帰る事を私は悔いない。
 私は鶯や、柄長[えなが]や、目白などを飼つてゐるので、時時、小鳥達は、毎日ちつとも変らない味の摺餌[すりゑ]をあてがはれて、さぞつまらない事だらうと同情してゐたが、お午の蕎麦以来、味のきまつた摺餌は、つまらないどころでなく、大変うまいに違ひないと想像した。小鳥達が、さもさもうまさうに食ふ有様を思ひ浮かべながら、自分の蕎麦を啜[すす]る事もある。》pp68-9「菊世界」*太字、下線は引用者。以下同じ。

 読んでいるときは変な理屈だと思ったけれども、書き写していると、むしろたいへん素直な、素直すぎてなかなか気付かれない類の感想である気がしてきた。なお、この「菊世界」は百閒が自分の喫煙歴を振り返った文章で、小学校入学前から煙草を吸っていたという有名なエピソードはここで語られている。

 次は「鶯の夜渡」から。夜、「眠たくなってくる」感覚の表現として、これを越えるものはそんなにないんじゃないだろうか。
《鶯があんまり騒ぐものだから、時時、麻姑[まご]の手をとつて飼桶を外から、こつこつと敲[たた]いた。すると、鶯は暫らくの間、おとなしくしてゐるけれど、間もなく又もとの通りに騒ぎ出す。少し眠くなりかけると、何だか大きな羽音をさせるので、又目がさめてしまふ。しまひに、うるさくなつたので、板戸を少し開けてやつたら、有明けの電燈の薄明りが射し込むので、勝手がちがふと見えて、すつかり静まつて来た。その内に私の方も、段段眠くなつて来て、うつらうつら得体の知れない大きな塊りを押してゐる様な気持になりかけた時、不意に頭の上で、鋭い谷渡りの声が、ききよ、けきよと続け様に響いた。脳天から氷の心棒を刺された程びつくりして、私は又目をさました。さうして、溜息をついて、起き直り、また煙草に火をつけた。》p76

「竹杖記」という長めの作品は、大学時代から続いた芥川龍之介との交友と、その芥川の推挽により語学教師として勤めた海軍機関学校の思い出を綴った回想なのだけど、その中で、自分の体に発生した独特の感覚について書いている。
 百閒には迷走神経の過敏症、あるいは神経性心悸亢進症という持病があった。発作が出ると動悸が速くなり、なおりそこねて結滞が続くことがある。しかしその結滞はひょんなはずみで解消するものでもある――と言われても、どんなものかわからないだろう。そのままこれを読んでほしい。
[…] 苦しいのを我慢して、一人で医務室まで辿りついた。
 その後からすぐにさつきの下士官が這入[はひ]つて来て、私を診察室のベツドに寝かした。さうして向う向きになつて、薬瓶の一ぱい列[なら]んでゐる大きな硝子[ガラス]戸棚の前に起つて、何かしてゐる、その後姿を見ながら寝てゐると、段段動悸がひどくなつて、肋[あばら]の内側がいたみ出した。何だか気分がわるいなと思ふ途端に、急に胸の中を苦しい塊りの様なものが動いたと思つたら、それが頸[くび]から上がつて、両方の耳の内側にぶつかつた様な軽い衝撃を感じた。その瞬間耳から何か抜けて行つた物がある様な気持で、ほつとすると、その拍子に発作がなほつてゐたのである。「あつ、なほりました」と私が、後向きの下士官に云ふか云はないかに、静まり返つてゐる廊下の遠くから、荒荒しい靴の音が聞こえて、いきなり軍医正が扉を排して馳け込んだ。軍服の釦[ボタン]がまだ全部かかつて居らず、帽子を手に持つて、私の側に起つた軍医正の顔を見上げて、私は本当に穴があつたら這ひ込み度[た]く思つた。発作がなほれば、その後はなんでもないのである。》p133

 発作が出ると動悸が速くなり、なおりそこねて結滞が続くことがある、しかしその結滞はひょんなはずみで解消するものでもある――という一切合切が、まるで自分の身に起こったかのように、すみずみまでよくわかる。経験したことのない感覚を、手でさわれるもののようにありありと伝えてくる文章。
 以前ここを読んでいて、わたしが連想したのは筒井康隆「薬菜飯店」(1987)という短篇だった。語り手「おれ」がある中華料理店に入る。そこで出される料理は、体に直接作用してあちこち悪いところを治してしまうものだった。
 眼に効く鮑の料理を食べると、とたんに涙が流れ出て視力まで良くなるとか、鼻に効く蛤料理を食べると鼻水が洪水になって鼻づまりが治るとか、軽いところからはじまり、徐々にグレードが上がって、年来の喫煙者である「おれ」の汚れきった喉と肺、さらに胃まで治す料理が出てくる。食べて飲んで様子を見ていると――
《腹はすぐに鳴りはじめた。と同時に、首の左右の根っこの部分に大きな塊りのようなものがゆっくりとこみあげてきた。それは次第にふくれあがりはじめた。手でさわってみると、顎の下の左右がお多福風邪のように大きく腫[は]れあがり、瘤ができている。さわったり押したりしない方がいいのだろうな。血のめぐりが悪くなって眼がまわりはじめ、吐きたい気分になってきた。や。気管支の方からも何かやってきたぞ。まっ黒けの、何やら機関車の如きものだ。臭い蒸気を吐いている。さらに胃の方からも酸性のピンポン玉がいくつか這いあがってきた。頭がぐらぐらする。何やらえらいことになりそうだ。顎下腺から、ちゅるちゅるとチューブから押し出されるように毒の粘液が口の中へあらわれた。続いて舌下腺からも、耳下腺からもだ。気管支の方からやってきた機関車がピーと蒸気を吐き、ごうごうと音を立てて口と鼻から噴出した。だばだばだばだば、だぼだぼだぼだぼと、その黒く重い粘液はバケツの中に音を立てて落ちていった。その直後、おれは胃からきた塊りを口からがっと吐き出した。次いでがっ。がっ。がっ。がっ。がっ。
 おれは恐慌に襲われた。鼻と口から際限なく粘液が噴き出るため、呼吸ができないのだ。》
 
[…] 彼女はおれの上半身を起し、背後からおれの背中を握りこぶしで力まかせに叩くと同時に、膝でおれの腰骨の上をいやというほど蹴りあげた。
「ぐわっ」
 驚くべき大きさの、タールの塊りの如きまっ黒けのものがおれの口から吐き出され、バケツの中でごろりと転がった。それだけで、バケツの中はほとんどいっぱいになってしまった。》『薬菜飯店』(新潮文庫、1992)pp27-9

 百閒の文章は、じっさいに自分の体に起きた感覚を描写したものである。いっぽう筒井の文章は、並外れた吐き気からありえない嘔吐にいたる現実離れした感覚を、想像力でつくり出したものである。そう考えると、前者は言葉による再現で、後者は言葉による創造、というふうに何となく区別しそうになるのだが、しかし、この分け方はどれくらい妥当なんだろうか。
(百閒が随筆、筒井が小説であることは、いまは何も関係がない)

 百閒の発作の苦しみや、それが急に「抜けた」感覚は、百閒じしんがたしかに体験したものだろう。その意味で実感を言葉に移し換えたものであり、その移し換えが巧みだから、それを読むことでこちらもその感覚を自分の身に起きたかのように追体験できる。実感の再現。
 筒井が想像した、首の根っこにこみあげる大きな塊りや、臭い蒸気を吐く機関車の如きものは、言葉による非現実の造形である。でもそれらはまったくのゼロから発明されたものではなく、日常にある吐き気やらなにやらの延長上に(過激な延長上に)作られている。だからこそ読者も追体験(というか、追想像?)ができる。まったくの未知の感覚だったら、何が起きているのか想像のしようもない。
 であれば筒井のほうだって、実感を再現していると言っていいのじゃないだろうか。実感の延長にあるものの、再現である。百閒の発作だって多くの人間にとってそのまま経験されたことはない特殊な事態であるのだから、実感(百閒)と実感の延長(筒井)の違いは、それこそ距離的なものでしかないように思う。
 そして、両者がどちらも再現としてとらえられるのならば、今度は180度ひっくり返し、両方をどちらも創造として受け取ることだって、できる気がしてくる。
 胃を這いあがる酸性のピンポン玉と毒の粘液。タールの塊りの如きまっ黒けのものが、バケツの中にごろりと転がる。実感を延長した先にあり、どんな読者の体験も届いていない感覚を、筒井は言葉でもって創り出した。
 百閒の胸の中を動く苦しい塊りや、それが耳の内側にぶつかる衝撃も、読者のわたしにおいて未知の感覚であり、未知なんだから非現実を生み出したものとしてわたしに読まれている。「いや、百閒には実体験であり実感だった」という正しいツッコミは、言葉という人工物を組み合わせてつなげた文章なるものが、書く側の実感を写し取るばかりか、読む側の実感まで喚起しうるという言語表現の圧倒的な奇妙さの前に、無力だと思う。
 両者を読み返すほどに、わたしには百閒の文章と筒井の文章の違いがわからなくなってくる。そして、わからなくなっても何ひとつ、いっこうに困らないことにしあわせを感じてしまうのだが、そんな告白をするつもりでここまで書いてきたのではなかった。「薬菜飯店」の入った短篇集『薬菜飯店』は、いまはKindle版で読めるようです。

 見たものの再現であり、それじたいが「見たもの」を創造するものでもある文章として、次は「炎煙鈔」から書き写す。これは前回の『続百鬼園随筆』にも同題で収められていた文章の続きで、好きでたまらない火事を見物したスケッチである。こう書くとヤバい人のようだが、文章はさらに輪を掛けてヤバい。
《風の吹く晩、白山坂下の、電車が通る時だけ、窓の燈[あか]りで明かるくなる道端を歩いてゐた時、洲崎が大火だと云ふ話を何人[だれ]かに聞いて、いきなり電車に飛び乗つた。日本橋を過ぎる頃から、段段知らない道に電車が這入[はひ]り、どこかで大川を渡つてから後は、まるで方角もたたなかつた。次第に道が迫つて来る様に思はれ、それにつれて、短かい橋が無暗[むやみ]に多くなつた。渡る時、急いで窓から覗いて見ると、黒い水が家家[いへいへ]の裏の間を仕切つて、暗闇を掘り下げた底に、遠くの方まで筋を引いてゐる。何だか夢に見た通りの景色だと思つた途端、急に電車が動揺して、前部の救助網で線路を打つ音がしたと思つたら、次の瞬間に、車掌台がどしんと尻餅を搗[つ]いた。私は頭から水をかぶつた様な気がした。
 火事場は一面の火で、焼け落ちた後の燄[ほのほ]は低く、赤い光を放つ雑草の原の様であつた。その向うに暗い海があるらしく、燄と煙の臭[にほひ]に混じつて、潮の香りが鼻を打つた。》p160

《何だか夢に見た通りの景色だと思つた》なんて部分もあって、この電車は百閒の短篇の世界へ地続きに入っていくようでもある。それで導かれていった最後の2行のあやしさはいったいなんなんだ。随筆が回想になり、語りの現在時から遠くなるほど小説に近づく。わたしはいま、とても当たり前のことを書いているのだろうか。あと、百閒、しょっちゅう「頭から水をかぶつたような気」がしがち、とも言い添えておきたい。
《火事は、身体が熱くなつて、逃げ廻らなければならない程の間近から、堪能する程見物した。
 又場所を変へて方方から眺めるために、あちらこちら歩き廻つた。焼け出されて、雑司ヶ谷墓地の石塔の陰に風を避けてゐる人人の頭の上に、火の粉が雨の様に降り灑[そそ]ぎ、葉の落ちつくした裸木の公孫樹[いちやう]の枝にかかつた火の粉は、風にたたかれて、きらきらと光りを増した。
 三方から火の手に囲まれた一軒立ちの二階屋が、閉め切つた雨戸の外に烈[はげ]しい火の明かりを受けて、目の前に浮かび上がつた。雨戸の肌をさつと掃くやうに燄[ほのほ]が走つたと思ふと、有りつたけの戸が、一時にばたばたと外[はづ]れた。さうして家の中には、既に火が廻つてゐたらしく、はつきりした炎の形が、二階の柱を這ひ上がるのが、ありありと見えた。欄間の額の字が読めさうだと思ふうちに、一面が火の渦巻となり、瞬[またた]く間に棟が落ちて、焼け潰れた。》pp162-3

 まるで炎がページを舐めるように言葉が連なり、そのなかで家が焼け落ちても、そう書いている文章は手元に残ったまま何度でも読めるのが不思議になってしまう。書かれる火事ではなく、火事を書く文章の手柄であるのだよなと思うのだが、そこから「対象はどうでもよくて、文章だけがすごいのである」とまではぜったいに思い切らせないのもまた百閒の書くものだった。
「曾遊」で百閒は、友人と石ノ巻へ遊びに行ったときのことを思い出す。
《小牛田と云ふ駅で、軽便鉄道に乗り換へた。さう云ふ駅の名前も東北らしく聞こえて、気の進まない私の旅愁をそそる様に思はれた。もう十何年昔の事で、軽便鉄道の汽罐車は、羅宇屋の笛の様な汽笛を、ぴいぴい鳴らしながら、何時[いつ]までも走りつづけた。いつの間にか、左手が高い土手になつて、それが何処[どこ]まで行つても盡[つ]きなかつた。土手の向うに、ところどころ高い帆柱が見えるから、餘程大きな船がゐるに違ひないと思つた。川舟にしては大き過ぎる様だし、海がこんな所にありさうにも思へなかつた。小さな汽車は、土手の陰を走りながら、夜になつた。燈[とも]し火の稀れな広野が真暗になつても、土手の向うは、ほの白く明かるかつた。水明りだらうと思ふと、急に淋しくなつた。》p93

 百閒の書くもので「土手」「土手の向う」が出てくるとそれだけでうっすら怖い。でもここは宮城県で、まだ冥途ではない。
《どんな道を通つたか覚えてゐないけれど、私共は大きな川に架かつた町中の橋を渡りかけて、又後戻りをした。川下の空が明かるいのは、海が近い所為[せい]だらうと思つた。水際で火を焚いてゐる炎が、妙に細く撚[よ]れて、暗い空に立ち騰[のぼ]り、周りの煙をはつきりと照らし出した。川の底にも炎の姿が深く沈んで、水の色を染めてゐる。橋の袂[たもと]の料亭に上がつた時、もう一度その火を見ようとしたけれど、川の面には、暗い水が盛り上がつてゐるばかりであつた。
 無気味な程大きな蒲焼の串を、藝妓が手際よく抜いてくれた。さうして何か二言三言話す内に、その女の言葉遣ひが、妙に私の耳に甘える様な気がし出したので、君はこの辺の人ではないだらうと尋ねたら、私の生れは備前岡山で、子供の時に京橋川の舟を見に行つた事を覚えてゐますと云つた。
 道を聞いても、人の云ふ事はまるで解らないし、辺[あた]りは暗いし、変な所へ来たものだと、つまらない気持になりかけたところへ、思ひがけなく私の郷音を聞き、同じ町の生れだと云ふので、その女が懐かしくて堪らなくなつた。
 暗い川に舟を浮かべて、夜遅くまで酒を飲んだ。千葉甚と云ふ宿屋に帰つて、蒸し暑い蚊帳に這入つたけれど、転輾[てんてん]反側して夜通し眠れなかつた。
 友達が面白がつて、翌くる日はその藝妓の家へ遊びに行き、それから一緒に連れ出して、小山の上の遊園地に登つて、渚の遠い太平洋の岸を見下ろした。私はその藝妓の側にゐると、上[うは]ずつた気持がして、しまひには寛[くつろ]いだ口も利[き]けなくなつた。》pp94-5

 こういった文章を書ける人がこういった珍しい体験もしていることに「すごい」と言いそうになるが、おそらくこれは話が逆だ。これに類する偶然は多かれ少なかれだれの身にも起こっていて、ただ、下線のような文章を書ける才能だけがこんな偶然を記憶の中から引き出すことができるのだと思う。その意味で、文章が偶然を起こしている。そして何より、こんなにも照れて悶えている百閒はレアなのじゃないか。

 珍しい出来事と、それに発する珍しい感覚を巧みすぎる文章で書き留めたものとして、つまり、対象と文章の双方が噛み合った最高峰として、「搔痒記」がある。
 帝大の独文科を卒業した25歳の百閒には就職の口がなかった。口がなかったというか、就職の口を求めて熱心に活動する気になれなかった。その頃の回想である。
 学校を出たので、郷里に置いていた妻と下の子、さらに近所の女学生(お貞さん)まで東京に呼び寄せていっしょに暮らすことになる。職のないまま、今度は祖母と母と上の子も上京させる。そんな大家族を支える立場のはずなのに無職。
 このままではいけない、それはわかっている、わかっているが……と、想像するだに鬱々と気が滅入ってくるこんな時期、気持や内面や心情の問題を越えて、百閒の身体は猛烈に頭が痒くなるという反応を示す。
《頭の痒さは言語に絶する様になつた。しまひには、自分で搔いたのでは、いくら搔きむしつても蟲がをさまらない。どうしても人に搔いて貰はなければ、承知出来なくなつて来た。妻は初めから逃げを張り、女中には云ひにくいし、子供は小さくて役に立たないのである。するとお貞さんが、無茶苦茶なところがあつて、その役目を敢然と引き受けてくれた。私が新聞をひろげて、両手で顔の前に受けてゐると、お貞さんは後に廻つて、私の頭を縱横無盡にひつぱたいて、搔き廻した。自分の頭が三角になる様で、私は痛快の感に堪へない。いつまで経つても、もういいと云はないから、いつでもお貞さんの方で切り上げた。》pp99-100

《木曜日の晩に、早稲田南町の漱石山房で、津田青楓氏から、今度高田老松町の家を引拂[ひきはら]ふから、その後へ這入[はひ]らないかと云はれて、引越しする事にした。頭に一ぱいおできを載せたまま、掃除町の運送屋に荷物を運んで貰つて、目白臺に移り、郷里から母祖母子供を連れて来て、重苦しい遊食時代を現出した。むしやくしやする程、益[ますます]頭の方は痒くなる様であつた。自分の頭を物差しでなぐり、文鎮でこさげても、いらいらした気持は治まらなかつた。》p101

《家にゐて、何をしても面白くもなく、第一、何をどうすると云ふ心当てがなかつた。いつ迄もかうして、ぶらぶら暮らしてゐられる程の金は、もう家にはないのだと云ふ事を、時時[ときどき]病気の様に思ひ出す。しかし外に出て、人の家に就職の口を頼みに行くには、頭の事が気になつた。当分人前には出たくなかつた。さうして、ごしごし頭を搔きながら、相変わらず、うつらうつらとその日を暮らした。》pp102-3

 頭が痒いのはできものがあるからで、できものができたのはおそらくストレスも一因で…と筋道を立ててとらえていこうとすると、この文章は逃げていくと思う。そのような整理は、この痒みは鬱屈した内心の象徴である、と片付けて続きを読まないのと同じくらいもったいない。
 何をするにも物憂く気がふさぎ、自分が何もしないでいるためにいっそう追い込まれていく鬱陶しい状況と、《言語に絶する》頭の痒みが、ひとりの人間の身に外側と内側からなぜか同時に降りかかる。はたで見て(読んで)いて「なんでだよ」と言うしかない偶然から書かれたこの文章は、「なんでだよ」「本当に、なんでなんだよ」とつぶやきながら読むのがいちばん正しいとわたしは思う。青年時代の百閒がこんな偶然に見舞われたのは、ほとんど奇跡として映る。頭の痒さ、それも奇跡になりうるのだ。
 そんな痒さはおよそ半年後、大学病院に行ったことであっさり快方に向かう。行ってなかったのかよ
《診療室に入れられて、皮張りの腰掛けに腰を掛けた。辺りの物がみんな少しづつ濡れてゐさうで、汚くて身が縮まる様な気がした。看護婦がぴかぴか光る鋏を持つて来て、私の頭を刈り出した。非常に荒つぽく、やり方が痛烈を極[きは]め、髪の毛を切つてゐるのだか、頭の地を剪[つ]み取つてゐるのだか、よく解らなかつた。それが大変私の気に入つて、もつと深く頭の皮を剝[は]いでくれればいいと念じた。
 その後にお医者が来て、何だか冷たい薬を塗りたくり、一言も口を利かないで、又私の頭を看護婦に渡した
 看護婦がその上から、ぎゆうぎゆう繃帯を巻いたので、すつぽり白頭巾を被[かぶ]つた様な頭になつた。巻き方が固くて、特に縁のところが締まつてゐる為、何だか首を上の方に引き上げられる様でもあり、又首だけが、ひとりでに高く登つて行く様な気持もして、上ずつた足取りで家に帰つて来た。
 頭が綺麗に包んであるので、寝る時はさつぱりした気持であつた。しかし枕にさはる工合は、何となく人の頭を預かつてゐる様でもあつた。》p105

《花が散つて、若葉が出揃ふ頃から、段段頭の地が乾いて来る様に思はれ出した。さうと気がついてからは、目に見える様に具合がよくなつて、間もなく綺麗に癒[なほ]つてしまつた。癒つた跡は禿[はげ]にもならず、ただところどころ、あんまり引つ搔いたりした跡の頭の地が、少し薄赤くなつてゐるだけであつた。》p107

「自分の頭がモノとして扱われる」ことそれじたいを、自分でそのまま対象化して文章にしているというか、自分と自分の頭に距離があり、その距離を保ったまま文章にしている感じが絶妙である。《ところどころ、あんまり引つ搔いたりした跡の頭の地が、少し薄赤くなつてゐるだけ》なのを知るには鏡を使って観察しないといけないわけで、そこは書かずに観察した結果だけを書くといったような小さい省略がきっとあちこちにあり、それでいて出来た文章はこんなにもすらすら読める。
 このあと「搔痒記」は、《本当に癒つてしまつた様な気持に》なるために、床屋で丸坊主にしてもらって終わる。わたしはまだそんなに百閒を読んでいない(これが旺文社文庫の6冊めだ)が、それでも数え切れないほどひしめいているあれやこれやの名文の中で、この数行はまちがいなく最上の部類に入る。
《「よろしいんですか」
「頼みます」
 瞬[またた]く間に終つて、椅子の上に半身を起こして見ると、向うの鏡に大入道がぼんやり写つてゐた。
 坊主になれば涼しいかと思つてゐたら、さうではなくて、頭に芥子[からし]を貼つた様にひりひりして熱かつた。その癖、頭の地から少しばかり離れたところが、非常に涼しい様な、よく解らない気持がした。
 往来に出ると、そよそよと吹いて来る夕風が、筋の様になつて頭を渡つた。目がぱちくりする様に思はれた。》p110

 ここは全文を太字にして下線を引きたい。とくに「ぱちくり」は辞書の用例に採用されてしかるべきだと思う。
 なお、毎回本当にありがたい文庫巻末の「雑記」(平山三郎)によると、百閒が大学を出たのは1914(大正3)年7月で、陸軍士官学校に職を得るのは翌1915年の末である。痒いのがおさまってもなお半年以上「重苦しい遊食時代」が続いたことにはほとんど敬虔な気持が湧いてくるが、それはともかく、「搔痒記」の発表は1934(昭和9)年で、じっさいの体験から20年を経ている。
 しかしこの『無絃琴』では、「搔痒記」の次に「駒込曙町」という文章が続いており、こちらも同じ遊食時代の前半を題材にしたものなのだけど、おどろいたのはこの「駒込曙町」、執筆が1915年2月なのである。つまり、無職時代の真っ只中に、リアルタイムでそのことを書いていた。
《私は紹介状のこと計[ばか]り考へてゐる。先方へ行つて、何よりも今迄頼みに来なかつたおことわりを云はなければならない。どう云ふ風に云つたらいいか知らと考へてゐる内に、段段退儀になつて来る。くるくると一と塊りに廻つてゐた考へが、次第に廻りがのろくなつて、ぷうと膨[ふく]れて来る。それが何時の間にか膨れ過ぎて、ぐるりに散らばつてゐるいろんな雑多な我楽多[がらくた]にあちらこちらで、くつ著[つ]く。すると、そのくつ著いた所から、縁側にまるくこぼれてゐる水を、指尖[ゆびさき]で日の出の模様に引張る時の様に、今までの考へが力もなく興味もなく、すうすうと出て行く。気がついた時には、何分か前まではその考へで、はちくれる様に思はれたところが、何もない空つぽになつてゐる。私は起[た]つて、小鳥籠の盆から、糞を搔き落としたりする。
 けれども、何日かすると、また何かの拍子で私は生活問題に、他所[よそ]に出てゐて自分の町内の火事を聞いた時の様に、慌てて帰る。さうして、何時も同じ様な経過を通つては、如何[いかん]とも結末をつけずに、すんでしまふ。その内に日が経つて、何日目かにまた気がついて見ると、私の不安はその前よりも一層暗く、深くなつて居るのに自分で驚く。その度[たび]に私は、かうしてはゐられないと思ふ。早く、一日も早くどうかしなければならぬと思ふ。けれども、さうかと云つて、私はまた明日の日から食へなくなると云ふ程に切迫してもゐないではないかと、時時[ときどき]身の囘り、心の囘りに気を配りながら、そつと考へて見る。すると私の心の中の、厳格な先見者が出て来て、その考を睨み返す。さうだ、そんなことを思つてゐて、愈[いよいよ]の切迫した瀬戸際まで来た時に、自分は安全な道を拓[ひら]く丈[だけ]の力と勇気があるかと、忽[たちま]ち私は考へ返す。するとまた恐ろしくなつて、うろたへ始める。》pp114-5

 先の見えない自分の状況を現在進行形でこのように対象化するのは、どのような胆力のなせる業だったのだろうと思う。あるいはそれは胆力とは別のものなのかもしれなくて、その「胆力とは別のもの」こそが、この文章と、1年半に及ぶ遊食時代の両方を生んだのかもしれない。
「搔痒記」を書く未来のことなんか知りもしなかった時代の「駒込曙町」では、上で引用したように、頭の痒みよりも心の動きが細かく見つめられている。そこからわたしがいちばん気になっているところを拾って今回は終りにする。それは百閒の、急に不安になる箇所である。
 ――百閒の一家と同居していたお貞さんが暮れに岡山へ帰るので、見送りに行くことにした。百閒・娘を抱いた妻・友人の中島でいっしょに東京駅へ向かう(お貞さんは先に出ている)が、そもそも家を出発するのが遅くなったうえに、百閒は郷里に残している息子へのお土産を買ってお貞さんに渡したいので玩具屋に寄る。
《私は玩具が好きだから、あれやこれや、いぢくり廻した。汽車の玩具が一ばん好きだから、大きいのや小さいのや、軌道のあるのやないのや、みな私の気にかかつた。その時ふと店の奥に掛かつてゐる柱時計を見ると、もう二時四十分なので、私は俄[にはか]にあわて始めたすぐにきめなければならぬと思ふと、何にしていいか解らなくなつてしまつた。私としては汽車が買ひ度[た]ひのだけれど、いつもいつも私共が国へ帰る度毎[たびごと]に、又人にことづける序[ついで]のある毎に、汽車計[ばか]り買つてやるので、久吉の玩具は殆[ほとん]ど汽車ばかりだから、今度は何か外[ほか]のものでなければいけないと思ふ。外のものにすると、何にしていいか、私には解らなかつた
[…]
お釣りをくれる間も私はいらいらした。さうして頻りに足ぶみをした。お神[かみ]が出て来て、その玩具を紙函に入れて、その上に源氏紐を掛けてゐるのを私は奪つた。
「これでいいんです。御邪魔をしました」
 私が一足、店から外に出ると、私の後に風をふくんで飜[ひるがへ]つたマントの裾[すそ]だか翼だかが、何かに引かかつて、がちやがちやがちやと音をたてた。私は後をも見ずに停留場へ馳けつけて、丁度来合はせた電車に中島と妻をうながして乗つた。
 私は電車の中に落ち着くと、さつきの玩具屋を出る時の物音が、しきりに気になり出した。割合に高いものを毀[こは]したんではなからうかと云ふ貧相な考へが、何時[いつ]までも離れなかつた。》pp120-1

《電車を降りてから、広場の向うに駅の建物を見たら、私はまた俄にうろたへ始めた今にも出かけてゐる汽車を、あの煉瓦の建物が私の前に遮[さへぎ]つてゐる様に思はれ出した。私は中島と妻とにかまはずに、一人で馳け出した。五六間行つた時、私は振り返つて、
「入場券を先に買つて置くぜ」と辯解した。
 それから、また私は馳け出した。
 駅の建物の中に這入[はひ]つた時、私の胸は激しく鼓動し、私の背には汗がにじんでゐた。私は、勝手を知らない建物の内をきよろきよろ見廻して、入場券を三枚買つた。それから駅の大時計を見て、もう五分ほどしか間のないのに気を揉みながら、中島や妻を急がすべく、また外に出た。彼等はまだ私が思つたよりも一層遠くの方にゐた。遠方から見ると、中島は何所[どこ]となく婆顔の様な印象を與へた。妻は、熟[う]れのわるい白瓜の様に見えた。私は二人に向かつて早く早くと云ふ合図をした。妻は子供を抱いて走り出した。中島は大変な大股を蹈[ふ]み始めた。》p122

 太字にした“不安と焦り”、下線を引いた“それなのに思い通りに事が進まないもどかしさ”、これらはじっさいに百閒が体験したことだろうけれど、こうやって文章で書かれてみると、すべて、“夢で感じる不安”と、“夢で感じるもどかしさ”じゃないかとわたしは思う。
 百閒の小説は夢を題材にしている。それはそうだろう。読めばだれでもそう思う。だが《百閒は夢をえがいたのではない。夢の胸苦しさ、不安をえがいたのだ。》と、この『無絃琴』の「解説」で高橋英夫は述べており、これにわたしは拍子抜けするような気持で100パーセント同意する。そうだ。たしかにそうである。
 百閒が自分の書いたもののなかで急に不安になるポイントは、だから、この人の随筆と小説をつなぐ通路になるのじゃないかと思うのだった。たとえばずっと後年の『阿房列車』(1952)でも、最初の旅で家から東京駅へ向かうところにこんな部分があった。
[…] 釣り皮にぶら下がってぼんやりしてゐる内に、市ヶ谷駅からの三粁[キロ]半を夢の間に過ぎて、鉄路つつがなく東京駅に著いたが、歩廊に降り起つた途端、丁度その瞬間に切符が売り切れる様な気がし出した。発車にはまだ一時間半ぐらゐ間があるけれど、かうしてはゐられないと云ふ気がする
 さう云ふ気持で歩くと、東京駅の歩廊は無意味に長い。》『阿房列車』p17「特別阿房列車」

 このとき1950(昭和25)年10月、百閒は66歳になっている。家族を抱えてこれからどうしたものかという鬱屈は遠くに過ぎ去り、(借金をして)目的のない旅に出ることができる境遇にあってなお、「駒込曙町」にも似た、急な不安ともどかしさが顔を出す。場所が同じ東京駅であることも偶然とは思えな――いや、引き寄せられた偶然に見えてくる。いったいなんだろう、これは。
 次は『冥途・旅順入城式』です。まじか。



■ 旺文社文庫『無絃琴』(1981)目次:
弾琴図
校長就任式
検閲使
絹帽
虎の尾
漱石遺毛
薄目くら
盲人運動会
砂利場大将
風船画伯
旅愁
訓狐
解夏宵行
殺生
菊世界
鶯の夜渡
竹酔日
老提督
豫行
学校騒動餘殃
曾遊
搔痒記
駒込曙町
竹杖記
河童忌
今朝冬
炎煙鈔
一夜会
海鼠
風稿録
夕立鰻
梅雨韻
白猫

解説 高橋英夫
「無絃琴」雑記 平山三郎