2020/01/31

内田百閒『続百鬼園随筆』(1934)

旺文社文庫(1980)

『百鬼園随筆』(1933)がヒットしたので編まれた第2弾、なんだと思う。
 全体は4ブロックに分かれる。最初の「近什前篇」と最後の「近什後篇」がいわば新作パートで、そこに入っている計22篇はだいたいが『百鬼園随筆』のあとに書かれたものらしい(巻末についている平山三郎の「雑記」による)。
 で、それらは――『百鬼園随筆』のあとで読むと――意外なくらい、ふつうの随筆に見える。あの“次に何が出てくるのかわからない”、そして“読んでいるこれが何なのかわからない”アナーキーさを期待すると肩透かしを食う、というのが正直な感想。
 もちろんふつうのエッセイとして面白い、と急いで付け足して、いくつか引用する。

 まず「立腹帖」。子供の時分、腹を立てすぎて怒りのあまり歯ぎしりをしていたら耳が動くようになったという百点のエピソードから始まって、自分が真剣に腹を立てたときの出来事と、その際の心身の具合を書いていく。
 もっとも強烈な怒りは関東大震災の前、新橋駅で駅夫から「不正乗車をした」と決めつけられた話。もちろんそんなことはしていないので抗議すべく駅長室へ行くが、駅長は聞く耳を持たず駅夫に加担する。ここまで、段階的に腹立ちが増していく。
《「失敬な事を云ふな」と云つた拍子に、私は声が咽喉[のど]につかへてしまつた。怒りのために、身体の方方が、ぴくぴくふるへるのが自分で解つた。》p20

《階段や、プラツトフオームにゐた澤山な人の顔が、ただ、ぽかりぽかりと浮動してゐる白い汚染[しみ]の様にしか見えなかつた。》p21

《私は、あんまり腹が立ち過ぎて、口の中がかさかさに乾いてしまひ、咽喉の奥にも苦い物がこびりついて、急には声が出なかつた。》p21

 わかる。すごいよくわかる。わたしも同じような状態に陥った15年くらい前の高田馬場ドトールでの出来事を思い出し、あの店はまだあるのかGoogleマップで探してしまった(なかった)。
 窮した百閒は、自分はそんなことをする人間ではないと示すため名刺を出す。当時教えていた海軍機関学校と陸軍士官学校と法政大学の肩書きをまとめて刷り込んだ「護身用」の名刺である。
《駅長はその名刺を取り上げて、暫らく眺めてゐる内に、不意に足音をたてて起[た]ち上がつた。あつけに取られてゐる私に一礼した上で、
「御身分のある方に対して、誠に失礼いたしました。謹んでおわびを申します」
 それから、駅夫の方を指しながら、
「部下の失態につきましても、私からおわび申上げます。何分数多い乗降客の中で、お人柄を見誤つたものと存じますから、平にご容赦願ひます」と云つた。その云ひ方が、非常にしらじらしくて、私は益[ますます]腹が立つた。何か云はうと思つてゐると、駅長は起つたなりで、重ねて切り口上で云つた。
「私からおわび申上げます。部下は後程よく叱り置きますから、これでお引取り下さい」
 私は駅の前に出たら、空も道も真つ黄色に思はれた。黄色い道がまくれ上がつて、向うの通から、家竝[いへなみ]の屋根の上に跨がつてゐる様な気がした。》pp22-3*太字は引用者、以下同じ

 強い感情が身体(耳)を動かすばかりか、感覚までおかしくするのを文章で書き留める。わたしが百閒の本から拾いたいのはそういうところである。
 そして「続立腹帖」もある。こちらで回想されるのは、森田草平と飲んでいた夜のこと。なりゆきでふたりは別の座敷にいた慶応大学の学生たちに絡まれる。次第に空気が不穏になって、帰る間際、ひとりがとつぜん百閒の横面を張って《私が向き直る隙もなく、その男は、もう往来の暗闇に姿を隠してゐた。》
《帳場から飛び出して来た男達に抱き止められたまま、私は憤激の為に身体がふるへて止まらなかつた。
 私は、どんな手段によつても、この男を探し出さなければ承知しないと考へつめた。二日も三日も心が平静に返らなかつた。
 それから十年たつてゐる。その時殴られた恥よりも、その恥を十年後の今日、なほ忘れ得ない妄執の方を、恥づかしく思ふ可[べ]きである。しかもその恥を更に自ら文に綴つて、人中にさらして悔いない程、私の遺恨は深いのである。》p25

 この文章を百閒は、「三田新聞」の原稿依頼に応えて書いている。ねにもつタイプ。わたしが百閒の本から拾いたいのは、こういうところでもある。

 次は「炎煙鈔」。子供のころから火事を見物するのが好きだった百閒が、数かずの火事の様子を綴る。生き物のような炎の書きぶりを見てほしい。
《昼火事は、従兄の家のすぐ裏なのであつた。もう大方荷物を運び出した後の、がらんとした家の中から見通しになつてゐる裏の藁屋根の家の廂[ひさし]を、炎が流れる様に這[は]つて行くのが見えた。》p170

《さうして今度表に出て見た時には、往来はあわただしくなり、郵便局の前で人人が罵り合つてゐた。外から表の戸を破つたのださうである。何となく辺りが明かるくなつた様に思はれ出した。油屋の中庭から、内側で燃えてゐる燄[ほのほ]の色が、空に映り始めたらしい。さう思つてゐるうちに、不意に大きな火の筒が、屋根の棟を突き抜けて、暗い空に、ばらばらと火の子を吹き上げた。
 燃えさかつてゐる最中に、油屋の二階から、火を引いた油が真赤な瀧になつて、辺りに渦巻いてゐる大きな燄の中に、不思議な光りを放ちながら、流れ落ちた。》p171

 さらっと書き流すようで、百閒の炎は、たしかに流れている。いまのは昭和9年(1934)の文章だが、その11年後、昭和20年4月14日にあった出来事を『東京焼盡』(1955)から書き写す。どうもわたしは『東京焼盡』が好きすぎるな。この日は午後11時に空襲警報が鳴った。
《大概大丈夫と思はれる様になつてから土手の方へ行つて見たが、丁度その時雙葉の一番こちらの外れの一棟が焼けてゐるところにて、その火が土手沿ひの道にかぶさつてゐる何百年かの老松の枝に移り、白い色の燄[ほのほ]が水の傳[つた]はる様に梢から幹に流れた。雙葉の一郭は大変な火勢にて、すつかり火の廻つた庇[ひさし]だか天井だか解らぬ大きな明かるい物が、燃えながら火の手から離れて空にふはりと浮かび、宙を流れる様に辷[すべ]つて、往来を越して土手に落ちた。土手も燃えてゐる。土手が燃えるかと更[あらた]めて感心した。アスフアルトの往来には白光りのする綺麗な火の粉が一面に敷いた様に散らかり、風の工合では吹き寄せられて一所にかたまつたり、又一ぱいに広がつたりしながら、きらきらと光つてゐる。道もせに散る花びらの風情である。[…] 大分寒くなつたが、雙葉の火に暫く向かつてゐると暖かくなる。》『東京焼盡』(旺文社文庫)p115

 どうしてこんな文章が書けるんだ、と空恐ろしい気持でいたが、B29が来なくても、むかしから家は燃えており、むかしからそれを百閒は見ていた。でもだからって、どうしてあんな文章が書けるんだ。

 ところでこの『続百鬼園随筆』が珍しいのは、新作に挟まれた真ん中に、新作ではないパートがあることである。それは旧作も旧作で、なにしろ百閒が十代後半から二十代のはじめに書いた文章が集められ、「文章世界入選文」と「筐底稺稿」というくくりでまとめられている。
 まず「文章世界入選文」。その当時「文章世界」なる文章指導雑誌があり、百閒は17歳から18歳にかけて投稿を続けていた。選者は田山花袋。採用されたもの・されなかったものが計8篇読める。
 とはいえ、それらはいわゆる写生文の練習で、起きた出来事・見た景色をありのままであるかのように綴ったものであり、「百閒の若書き」という前提がないと(いや、あっても)あんまり面白くはない。こんなに細かいところまで気付いたんですよ、という観察のための観察めいた部分も目についた。
 しいてあげれば、8篇中最初の3篇が「乞食」といって家の前を通りかかった盲目の乞食を「おい。目くら」と呼び止め食べ物を与える話と、「按摩」といって家の前を通りかかった按摩を「おい、按摩や」と呼び止め家に入れて祖母のマッサージをさせる話と、「靴直し」といって家の前を通りかかった靴直しを「おい靴を直して呉[く]れんか」と呼び止め靴を直させる話、と連続しており、この一方的な上下関係を繰り返し題材に選んでいる事実が百閒青年の何かを示唆することになったりするのか、ほんの少し気にかかる。
 このころは百閒もまだ百閒ではなかったのかな、とページをめくって「筐底稺稿」。「稺」を調べると「稚」のことだったので、ずっとしまってあった幼稚な文章、くらいの意味なのかもしれない。ところが最初の「鶏蘇佛」を読み始めると、いきなり様子が違うのである。
《何でも本を読まねあおへん、と堀野は何時[いつ]も云つた。それから、早く読むと云ふのが自慢であつた。仰山読まうと思や、早う読めねあおへん、と堀野が口癖の様に云ふ、僕は成程[なるほど]と思つて、成るたけ早く読む様に稽古をした。堀野と友達になつた御蔭で、急に本を読むのが、好きになつた。》pp112-3

 こんなふうに仲がよかった中学(旧制)時代からの親友、堀野。《その堀野が死んで仕舞つたのである》。これは早逝した彼の思い出を綴った追悼文だった(「鶏蘇佛」は堀野が俳句を作るときの号)。
 こんなふうに遊び、こんなことをしょっちゅうやって、《まだ続く筈[はず]の所を、七年目に堀野が死んでしまつた》。堀野はこんなことをした、でも堀野は《死んで仕舞つた》。堀野はこう言って、自分がこう思っていたら堀野は《たうとう死んで仕舞つた》。こんなことがあった、《そのうちに堀野が死んだ》。
 やったこと、言ったことをひとつずつアルバムに収めるように書き記しつつ、時間が経ってからも間隔をおいてぶり返してくる感情をそのままなぞっているのか、「死んだ」「死んで仕舞つた」と重ねていくこの13ページの文章は、さっきの写生文に比べると子供と大人以上の開きがある。百閒がこれを書いたのは高等学校(旧制)在籍時で、写生文とせいぜい2年しか違わないことにおどろく。
《去年の秋、同窓の井上啓夫君が死ぬる前、堀野と二人で見舞に行つた。帰りに色色[いろいろ]病人の事を話しながら、畦道を傳[つた]つた。その内に日が暮れかかつた。僕が何時[いつ]も散歩する辺であるから、僕は割合平気であつた。堀野が、此[この]辺の道案内は、一切あんたにまかしぢや、と云ふ。僕が先になつてずんずん歩く。後から堀野がてくてくとついて来る。何時の間にか、二人とも亡父の話しをして居た。しみじみと話し合つて行くと、秋草が頻[しき]りに裾[すそ]に触れた。農家に灯がちらつき始めた。もうこんな話は止めよう、と堀野が云ひ出した。それから、堀野の内へ帰つて、明かるい洋燈[ランプ]の下で、お祭の御馳走をよばれた。》p118

 このころから百閒はもう百閒だったんだな、と考えを改めながら、今よりずっと身近に死があった時代のことをちょっと思った(この「鶏蘇佛」のあとに続くのも、別の友達の追悼文である)。
《鶏蘇佛の遺友は、君が生前の友誼[いうぎ]をかたみとして、若き日と分れた。これから後の年月に、蚊柱の夕、落葉の暁を数へつくして、黄壌の君が僕を忘れる時があらうとも、僕は嘗[かつ]て君と共に花を踏んで惜しんだ少年の春をいつまでも偲ぶであらう。
   入る月の波きれ雲に冴え返り》p123

 このまっすぐさを見たことで、後年の変幻自在な文章がいっそう底の見えないものになった気がする。なお、ここではひと言も触れられていないけど、この堀野には妹がいて百閒は――というのはまた別の話だった。次は『無絃琴』です。



■ 旺文社文庫『続百鬼園随筆』(1980)目次:
近什前篇
 雞鳴
 春秋
 立腹帖
 続立腹帖
 傅書鳩
 百鬼園師弟録
 或高等学校由来記
 食而
 大晦日
 目白
 学校騒動記
 大鐘

文章世界入選文
 乞食  按摩  靴直し  大晦日の床屋  西大寺駅  初雷  参詣道  私塾

筐底稺稿
 鶏蘇佛  破軍星  雀の塒

近什後篇
 風燭記
 俸給
 啞鈴体操
 黄牛
 薬喰
 忠奸
 掏児
 炎煙鈔
 南蛮鴃舌[ちいちいぱつぱ]
 琴書雅游録

解説 内田道雄
「続百鬼園随筆」雑記 平山三郎


*確認していないけれども、新潮文庫の『続百鬼園随筆』には(仮名づかい以外は)同じものが入っていると思う。
*ちくま文庫『立腹帖』には、「立腹帖」のほかは鉄道関係の文章が集められている模様。「続立腹帖」がないのか…
*福武文庫『長春香』なら「鶏蘇仏」が入っていることがわかった。

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内田百閒『百鬼園随筆』(1933)

旺文社文庫(1980)

 文庫本の裏にある紹介文を引用する。
《幼時の思い出を語り、債鬼に追われる顛末を録し、さり気ない身辺のことどもを綴りながら、その平易な文章の裏側に恐るべき哄笑の爆弾が仕掛けられている。室生犀星をして“天下無敵”と賛嘆せしめた日本語の精華。昭和初期に随筆ブームを巻き起し、内田百閒の名を一躍高めた古典的名著。》

 昭和初期の「随筆ブーム」も気になるが、それはともかくこの『百鬼園随筆』は、たしかにここに書かれている通りの本である。
 幼時をはじめ、さまざまな思い出を語る文章が、たしかにある。債鬼に追われるほか、実際に起きたのだろう出来事の顛末や、もっと地味な身辺のあれこれを綴った文章も、たしかにある。何も間違ってない。
 この本を読み返すたびに思うのは、しかし、ひとつひとつの文章の書かれっぷりはおそろしく雑多だということだ。「たしかに思い出話」「たしかに身辺雑記」と分類できて、そういうものとして落ち着いて味わっていられるものがたくさんがあるいっぽう、「こんな書かれ方のエッセイがあるものか」「これはもう小説じゃんよ」と立ち上がってしまう文章も山ほどある。そんなあれこれのすべてをひっくるめ、一冊に収める枠に何とか使えそうなものとして“随筆”を持ってくるしかなかったんじゃなかろうかと、あきれながら感心する。つまり、ここで“随筆”は何の枠でもない。『百鬼園なんでも箱』である。
(だから何も調べずに決めつけるが、この本の題と同じ意味での“随筆”がブームを起こすなんてありえないだろう)

 たとえば、子供のころの思い出話に「遠洋漁業」がある。千島の探検をした郡司大尉の講演を聞いて真似をしたくなった百閒少年は、幼馴染みの「壽さん」といっしょに目高[メダカ]を30匹捕まえる。保存食にするために干して乾かし、それから火鉢で煎って醤油で味付けまでして、ひどい臭いがするけれども空き鑵に入れて戸棚にしまう。
《さうしておいて遊びに出た。私共は一先[ひとま]づ目高の事を忘れなければいけない。さうして、腹がへつて帰つて来て、何か食ふものはないかと考へた時に、目高があるから、あれを食つて飢ゑを凌[しの]がうと思はなければ面白くない。しかし、外に出て見ても、目高の事ばかり気になつて、忘れる事はとても出来さうもないから、又ぢきに帰つて来て、二人で目高を食ひ始めた。鑵の中から出して、一匹づつ食つた。にがくて、煙臭くて、口の中がぢやりぢやりして、ちつともうまくない。》p36

 そりゃそうだろうという話ながら、もう一文だけ続きがある。
《それを我慢して、幾匹も幾匹も食つてゐる内に、何となく悲痛な気持になり、何を云ひ出したのか忘れてしまつたけれど、後で壽さんと喧嘩[けんくわ]をして別れた。》p36

「悲痛な気持」から唐突な喧嘩に流れる子供の心理を、さっきあったことのように簡単にたぐり寄せて文章にしている(少なくとも、そんなふうに見える)手つきに、目の覚める思いがする。書いているのは、当たり前だが子供じゃないのに、である。

 たぶんこれよりさらに幼いころの思い出が「虎列剌」。読み方は「コレラ」で、あの伝染病を漢字だとこう書くのはこの本ではじめて知った。
 家族で海水浴に行って旅館に泊まっていたら、夜中に2階で虎列剌の客が出た。叩き起こされ、慌ててみんなで未明の海辺を逃げることになる。
《土手の道は暗かつた。足許[あしもと]の石垣の下で、浪が砕けるたびに、ぴかりぴかりと光るものがあつた。細い道が、あやふやな薄明りで、魚の腹のやうな色をして伸びてゐるけれども、直[す]ぐ先で闇との見境がなくなつてしまふ。後から何だかついてくるらしかつた。虎列剌と云ふ恐ろしいものが、わざと姿を消して、私共を追つかけてゐる様に思はれた。
 夜が明け放れてから、港の町に著き、そこで俥[くるま]を雇つて駅に出た。巡査や駅員のゐる所では、だれも口を利かなかつた。》p16

 その語を聞いても意味がわからなかっただろうコレラから逃げる(=コレラが追いかけてくる)怖さ――もしかすると「怖さ」とさえはっきり理解できていなかったかもしれない、わけのわからなさ――が、「虎列剌」の文字面と相まって、それを何か生き物のような存在にしてしまっている。コレラがそのようなものに思われた幼時の感覚に似た印象を、もう幼児ではない読者に対し、「虎列剌」の文字面を使った文章で再現しているとでも言おうか。こんなふうに言葉を使うから、思い出話も思い出話だけには収まらなくなって、「虎列剌」が読んでいるいま、こちらにまで忍び寄ってくる感じがする。

 かと思えば子供時代のずっとあと、書いている現在に近く、いわゆるふつうのエッセイにも近いのが「大人片傳」。これは語学教師だった百閒の「鳳生大学」での元同僚、大人[たいじん]こと森田草平のエピソードを集めたものだが、その大人が出てこなくても、教員室でのお昼について書いている部分はとくに面白い。
 そこでは毎日11時になると昼食の注文を取る。人がいいものを食べていると自分も御馳走を食べたくなるが――
《一体出先の午食[ひるめし]に御馳走を食はうとするのは、何と云ふ浅間しい心根だらう。明日からは握り飯を持つて来る事にきめたいと思ふのである。さうして手辨当を一日二日続けると、また他人[ひと]の食つてゐるものが欲しくなる。忽[たちま]ち握り飯を廃止して、暫らく振りに天丼を食ふ。初の二口三口は前後左右の物音も聞こえなくなる程うまい。しかし凡[およ]そ半分位も食ひ終ると、又いろいろ外[ほか]の事を考へ出す。御飯が丼の底まで汁でぬれている。天丼と云ふものは、犬か猫の食ふものを間違へて、人間の前に持ち出したのだらう。ああ情ないものを食つた。明日からは、もう何も食ふまい。腹がへつたら、水でも飲んでゐようと考へる。》pp97-8*太字は引用者、以下同じ

 勝手すぎるし極端すぎる煩悶だが、わたしはこれを読んだ次の日に天丼を食べに行った。ともあれ、そこに大人が登場する。
《さう云ふ教員室の午食時[ひるめしどき]に、草平大人は、脇目もふらず、お皿を鳴らしてライスカレーを食つてゐる。》p98

 この「お皿を鳴らして」という、一見何気なく読み流しそうなのに、よく考えれば考えるほど卓抜なものに思えてくる表現は、よそで見たおぼえがない。スプーンを急いで使うとき、鳴るのはたしかに皿である。ほかに用例はあるのだろうかと訊きたくてここを引用した。あるんだろうか。
 身の回りの小さなことが面白おかしく書かれるだけでなく、スペクタクルが描かれることもある。大正12(1923)年の関東大震災よりも前、海軍の機関学校に勤めていた百閒は、週一で学校のある横須賀まで行っていた。駅からの道の途中に工廠があり、「恐ろしく大きな軍艦」が建造されているのを行きも帰りも見て通った。
《鉄骨の足代の底から、伸び上がつて来た鉄壁が、いつとはなしに、見上げる様な高さになり、煙筒も帆柱もない、のつぺらぽうな大きな船の形になる迄に、一年かかつたのか、二年たつたのかわからない。鉄骨の枠の中に、その大きな物体が固定して、もうちつとも伸びなくなつてからでも、一年ぐらゐは過ぎたらうと思ふ。毎週一囘づつ、横須賀に行く私には、向うの岬の展望を遮つて、枠の中に赤黒い丘の如く聳え立つてゐる陸上の船が、横須賀の自然の一部となつてしまつたのである。》p30「進水式」

 その船がいよいよ完成した進水式に、百閒も呼ばれる。
懸橋は段段に高くなつて行つて、厳[おごそ]かにしつらへられた台に通じてゐる。辺[あた]りの気配が次第に引きしまつて来るらしかつた。その台の上に起[た]たれた高貴の方[かた]が、小さな黄金の槌を挙げられたのを、遙かに拝したやうな気がした。不意に辺りがしんとして、息がつまる様に感じた瞬間、忽[たちま]ち何処からともなく湧き上がる様なざわめきが傳[つた]はつて、それが段段に大きくなつて来た。軍艦の胴体を繋ぎ止めた最後の綱の端が、高貴の方の前に導いてあるのを、黄金の槌を以[も]つて打ち断[き]られたのである。大きな薬玉[くすだま]が割れて、鳩の群が出鱈目の方角に乱れ飛んだ。どよめきが益[ますます]大きくなつて、何の声だか、響だかわからなくなつた途端に、私は、はつとして全身に水をかぶつた様な気がした。すぐ目の前にある赤黒い丘が、少しづつ動き出したのである。まはりのどよめきは怒号に達してゐる。その中に、微[かす]かに音楽の音色も混じつてゐるらしい。胴体が辷[すべ]り出した。見る見る内に速さを増した。辷つて行く艦底を目がけて、砂囊を無暗[むやみ]に投げつける人があつた。何処かで、火花が條[すぢ]のやうに走つたと思つたけれど、はつきり意識する事が出来なかつた。足の尖[さき]から、地響が傳はつて、段段大きくなる様に思はれた。
 赤黒い胴体が、速さを増して海の方に遠ざかるにつれて、少しづつ、輪廓の収縮して行くのがわかる様な気がした。それが何とも云へぬ物凄い感じを與へた。
 遠くに見える海面に、白浪をたてて、のつぺらぽうの軍艦が浮かんだのを見ても、何となく気持がぴつたりしなかつた。あんまり勝手のちがつた光景を瞬間に眺めて、私は壮大な感激を十分に会得する事が出来なかつた。ただ、今まで目の前にそそり立つてゐた大きな物が急になくなつて、その向うに大勢の人の顔が一ぱいにつまつて居り、向きの違つた風が吹いて来て、辺りが何となく白け返つてゐる事の方を、しみじみと感じた。》pp31-2「進水式」

《あんまり勝手のちがつた光景を瞬間に眺めて、私は壮大な感激を十分に会得する事が出来なかつた》と言っているけれども、こうやって文章で、ただ文章だけで、「あんまり勝手のちがつた光景」のスケールを紙上に収めようとしていることにわたしはちょっと感激する。そのうえで、《辺りが何となく白け返つてゐる事の方を、しみじみと感じた。》なのである。
 なお、震災後に百閒はこの横須賀の様子を見に行く。
《駅の前の広場を過ぎて、すぐに崖の下の狭い道にかかる所の様子が変つてゐた。暗い筈の道が妙に明かるかつた。見上げる崖の上の山の姿が、すつかり変わつてしまつて、高さがもとの半分にも足りなかつた。大地震が、横須賀の自然を変へてしまつたのである。姿の変つた山を見上げた時、私は不意に芽出度[めでた]い進水式当日の記憶から、急にゐなくなつた、のつぺらぽうの軍艦の姿をなつかしく思ひ出した。》p32「進水式」

 この人は「大きいもの」、「大きな変化をもたらすもの」によく惹かれ、果敢に観察して文章化を試みる。そしてまず「大きいもの」として、自然が捉えられている気がする。『第二阿房列車』(1954)でも、車窓に日の出と富士山の組合わせを見て仰天するところとか、水害のあとの阿蘇山の絶景を写し取った部分があった。「大きいもの」として、自然を描く調子と建造物を描く調子とに違いがなく、半分なくなった山といなくなった軍艦が重ねられるとすれば、『東京焼盡』(1955)も同じように自然を観察する眼で見られ描かれたものとして読めるかもしれない。いまひどく乱暴なことを書いた。

 大きいものの対極の小さい文章として、アフォリズムのように読めるものにも、たびたびびっくりさせられる。
《本を読むのが段段面倒くさくなつたから、なるべく読まないやうにする。読書と云ふ事を、大変立派な事のやうに考へてゐたけれど、一字づつ字を拾つて、行を追つて、頁をめくつて行くのは、他人のおしやべりを、自分の目で聞いてゐる様なもので、うるさい。目はそんなものを見るための物ではなささうな気がする。》pp39-40「風呂敷包」

《「己[おれ]は嘘はついてもそんな嘘はつかない」と彼が云つた。方針を立てて嘘を吐くのを恥づかしいと思つてゐない。》p67「梟林漫筆」

私と云ふのは、文章上の私です。筆者自身の事ではありません。p188「蜻蛉玉」

 もういちど書き写す。
私と云ふのは、文章上の私です。筆者自身の事ではありません。p188「蜻蛉玉」

 もういちど、書き写す。
私と云ふのは、文章上の私です。筆者自身の事ではありません。p188「蜻蛉玉」

 砂糖をなめて「甘い」と言うみたいで気が引けるが、百閒の文章は本当に自在である。その自在な文章の粋を尽くして書かれた頂点として、わたしは「地獄の門」を選びたい。なんだか言葉遣いが大げさになってしまって恥ずかしい。
 これは金に困った「青地」という名を持つ「私」がはじめて高利貸の家を訪ねるところから書き起こされ、金を借りるまでにどんなやりとりがあったか、そしてそれからどうなっていったかを描いた、一種の小説だとまずは言えそうである。それにしても冒頭からもう怖い。
《暗い横町の角を曲がつて、いい加減な見当で歩いて行つた。今まで、大通で向かひ風を受けてゐたのに、急に風の当たらない向きになつたので、頸[くび]から顔がほてつて来るやうに思はれた。しかし、その所為[せゐ]ばかりでもないらしい。軒燈に照らされてゐる表札を見ながら行くと、その家の番地が、だんだんに近くなつてゐる。道端に寝てゐた犬が寝返りした拍子に、私はびつくりして、飛び上がつた。
 暗い小路を二三度曲がつて、もうここいらに違ひないと思ふあたりを探して歩いたけれど、路地ばかり無暗[むやみ]に沢山あつて、なかなかその家は見当たらなかつた。初めての、知らない家を訪ねるのだから、夜ではわかりにくいと思つたけれど、昼日中[ひるひなか]、さう云ふところを訪問する元気はなかつた。》p132

 気は進まない・だがほかに方法がない、という重苦しい気持を抱えて、しかも見つからない家を探さないといけないのである。気が滅入る。
《酒屋で教はつた角を曲がつて行くと、暗い道が、少し坂になりかかつたところに、変に明かるい街燈が一つ起[た]つてゐた。手前の家の石垣の陰になつてゐて、余程傍まで行かなければ見えなかつたのである。近づいて見ると街燈の丸傘に「田島」と云ふ字が、はつきりと読めた。私は、はつとして、その字を横目にちらりと見たきり、急いで前を通り越して狭い坂道をどんどん下りてしまつた。》pp133-4

 この「はつとして」目当ての家をいったん通り越してしまう心理が、痛いほど、嫌になるほど、よくわかる。このあと、借金の手続の進められる様子がおそろしく細かく描かれ、それは「私」が受け入れるべきでないことをひとつずつ受け入れていく(ほかに方法がない)過程と言っても同じだが、読んでいるこちらは《私は顔の熱くなるのを感じた。》(p145)など自身に向けられた直截で容赦ない表現を追いながら見守ることしかできない。
 心胆を寒からしめるというのはこういう文章のことかと思うけれども、百閒の観察は苦しむ「私」を見つめつつ、苦しめる高利貸「田島」の人となりをも容赦なく浮き彫りにしていく。借金、しかも高利貸の現場において優勢・劣勢は一方的だろうが、その文章化ということになると、決してそうとは限らないようである。それも、高利貸の非道を筆の力で暴く、みたいなことでは全然なく、ただその現場を丹念に描写することで、この作者は上述のすべてを行なうのである。
《私は、それから直[す]ぐに帰つた。
 玄関には、また細君が控へてゐて、同じやうな挨拶をした。今夜は昨夜ほど、顔が長くないやうに思はれた。
「やあ」
 と主人が、昨夜の通りの強い声で、私を送つた。
「御免下さいませ。お気をおつけ遊ばしませ」
 と云ふ細君の声が、玄関の前に迫つてゐる崖の、暗い石垣にぶつかつた。》pp151-2

 自身の経験に材をとっているのは間違いないにしても、みずからの姿を書き、相手を書き、さらに別の人間に焦点がスライドしていくこんな文章を読んでいくうちに、これはもう自身の経験の話ではなくなっている。入口と出口がちがっていて、最後のページで「いま自分は何を読んだんだ」と茫然としてしまう。

 いくつか抜き出しただけでも、これだけさまざまな文章が集められた百閒の文章の見本市、バラエティボックスみたいな一冊がこの『百鬼園随筆』で、最後に「手套」というスケッチを、文庫本の1ページ弱なので全文書き写す。こんなにも小さな出来事と、こんなにも小さな心の動きを、よくも「書くべきもの」としてとらえ、よくもこんなに丁寧かつ簡潔に書いたものだよなとつくづく思う。
《某月某日私の乗つた電車が水道橋を過ぎる時、私は金入れの中から囘数切符を出さうとした。その時手袋をはめてゐたので、手先が利かないため、十銭の小さい銀貨がついて出て、下の床に落ちた。私はその落ちた事も、落ちた所も知つてゐた。だから先[ま]づ切符を一枚切り取つてから、序[ついで]に煙草代を十五銭出して置くうちの十銭は、今落としたのを後で拾ふ事にしてもう五銭だけ金入れの中から出して、それをずぼんのポケツトに入れてしまつてから、最後に床に落ちてゐる十銭を拾ふつもりでゐた。さうして私が切符を切り取つてしまつた頃、丁度私の前に腰をかけてゐた学生が、わざわざ席を起[た]つて来て、私の足許[あしもと]に落ちてゐる銀貨を拾つて、私が気がつかないでゐると思つたのだらう、一寸[ちよつと]会釈しながら私に渡してくれた。私は気の毒な事をしたと思つて、礼を云つてそれを受取つた。けれども、その時初めて気がついたらしい、驚いた様な風も出来なかつたし、したくもなかつた。又する必要も認めなかつた。その私の落ちついた冷やかな態度の中に、その学生は、私が銀貨を落とした事を知つてゐて、後で拾はうと思つてゐた事に気がついたらしかつた。いくらか間のわるい様子をして、出口の方に行つてしまつた。私は本当に気の毒な事をしたと思ひ、その親切な学生にすまなかつたと思つた。けれども相手の親切に報いるため、もつと驚いた様子をすべきだつたとは考へない、又その学生が、彼の敢[あへ]てした親切のために、それ丈[だけ]の極[き]まりの悪さを負はされるべきものだとは猶更[なほさら]考へない。》pp58-9

 次は『続百鬼園随筆』です。



■ 旺文社文庫『百鬼園随筆』(1980)目次:
短章二十二篇
 琥珀
 見送り
 虎列剌
 一等車
 晩餐会
 風の神
 髭
 進水式
 羽化登仙
 遠洋漁業
 居睡
 風呂敷包
 清潭先生の飛行
 老狐会
 飛行場漫筆
 飛行場漫録
 嚏
 手套
 百鬼園先生幻想録
 梟林漫筆
 阿呆の鳥飼
 明石の漱石先生

貧乏五色揚
 大人片傳
 無恒債者無恒心
 百鬼園新装
 地獄の門
 債鬼

七草雑炊
 フロツクコート
 素琴先生
 蜻蛉玉
 間抜けの実在に関する文献
 百鬼園先生言行録
 百鬼園先生言行餘録
 梟林記

解説 戸板康二
「百鬼園随筆」雑記 平山三郎


*新潮文庫の『百鬼園随筆』は、仮名づかい以外はこの旺文社文庫の本篇と同じものが入っている。芥川龍之介の手になる百閒像を使ったこの表紙はたいへんよいものです(買ってしまった)。

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