趣味は引用
穂村弘『ぼくの短歌ノート』(2015)
ぼくの短歌ノート
講談社

妻を得てユトレヒトに今は住むといふユトレヒトにも雨降るらむか
大西民子


 やっと出たのでうれしい。これは、穂村弘が「群像」で長く連載している短歌の紹介をまとめた本である。
 たぶん何千という単位でノートしてあるのだろう好きな歌・最近気になった歌の数々から、穂村弘は毎回、「高齢者を詠った歌」とか「天然的傑作」とか「素直な歌」のようにひとつのテーマを定め、それに沿った歌をいくつも取り出してきてそれぞれの魅力を語り、共通点と差異を説明して、そういった歌を発生させた背景を論じていく。
 毎回のテーマ制、そして1回の分量も多くない(4、5ページ)ことから、これは短歌の友人』(2008)のような、長めの論考を入念に準備して「戦後短歌とは」といった大問題への登攀を試みる本ではない。
 それよりももっと、近所を散歩しながら目についた珍しい昆虫だったり、引っかかる表札だったりを次々に指さし教えてくれるような調子でこの本は進む。とても読みやすい。
 だからといって軽いだけの本ではぜんぜんなく、同じ形式をテーマを変え品を変えして積み重ねていくうちに、読んでいるこちらも気がつくとページの中で空を飛んでいたり時代が変わっていたりユトレヒトに住んでいたりするからまったく油断ならない。
「油断ならない」とは「ずっと面白い」の言い換えである。安易な分けかただけど、『短歌の友人』が歌を読む理論編なら――もちろんその理論は個々の歌の読み取りから導かれるものだったわけで――『ぼくの短歌ノート』は、さらにその読みかたを実地に活用してみせる実践編ということになるのかもしれない。ならないかもしれない。雑なことを言った。ごめん(わたしはおそらく『短歌の友人』が好きすぎるのだ)。

 紹介されている短歌はどれも面白いのだが、こうやってテーマごとに並べられると、一首だけで読んだときに感じるだろう面白さよりずっと面白さが増しているように思ったし、もしかすると、一首だけだったら素通りしてしまった歌を、このように並べられることで面白く読ませてもらえた、という場合もたぶんにあったのかもしれないと思う。
 それはまず、「ちやらちやらてふてふ」や「貼紙や看板の歌」や「落ちているものの歌」のように、何だそのくくり、というテーマがときおり混じっているからでもあるし、作者が昔の人の歌も、現代の人の歌も、(現代の人は現代の人でも)プロの歌人だけでなく新聞の歌壇に投稿されてきた歌だって、テーマによっては一堂に会してしまうからでもある。テーマ制という形式が、歌の傾向を縛るというより、かえって歌をごちゃまぜにしてくれるというありがたい結果を生んでいる。

 そんな短歌紹介の本なのだから、さっき冒頭に置いた一首のように、紹介されている短歌を引用するのが本書の紹介には欠かせないように思うのだけど、短歌と同じくらいこちらの目を惹くのは、それらを評する穂村弘の言葉である。
 この本に出てくる、ざっと数えておよそ330首の短歌の多くはほとんど同じ顔をしていない。当たり前だ。それぞれ別の短歌なんだから。それに、テーマごとにまとめられ、ごちゃまぜにされたからこそ、小さなちがいが小さなまま際立って見えるということもある。
 穂村弘は、一首一首、その独特な突起やへこみにフィットする言葉を、あくまでふつうの語彙と言葉遣いの中からさがす。この繊細な観察と表現の的確さがなければ、これだけ多くの短歌をそれぞれ別のものとして読み、また、別々のものを同じテーマの下に集わせることはできないだろう。言いたいことが先にあって、それに合う短歌を引いてくるのではなく、引用歌に合う言葉を組み立てていくうちに、先に決まっていたテーマがもういちどとらえ直されていく、その手つきまでが見える思いがする。どの評も、一点物なのだ。
 なので、ここでは短歌は無しで、穂村弘の言葉だけをいくつか書き写すことにする。引用のうしろの小文字がその回のテーマである。
《わざわざ短歌にした。しかも、結びは「みた」ではなく「みたことがある」である。これによって、一首は単なる報告以上のニュアンスを伴うことになる。或る日或るところでみかけたそいつのことを、作者はわざわざ思い出しているのだ。ここには或る種の感情移入があるんじゃないか。》「コップとパックの歌」p12

《遠足のおにぎりの歌はあるけど、鮨屋で食べる鮨の歌はほとんどない。それなのに、コンビニやスーパーに並んでいる鮨の歌はやけに多い。》「ゼムクリップの歌」p25

《男は自らの体をこのように詠わないし、詠ってもニュアンスが変わって、詩的な衝撃は発生し難いことが予想される。そこに痛みの感覚がないからだ。》「するときは球体関節」p38

《どの場合も、作者は完全に本気。ただ、なんというか、これらの歌はあまりにも非メタ的でありすぎて、現代の人間の目には冗談のようにみえてしまう》「天然的傑作」p56

《「字余りになるにも拘わらず、敢えてこう詠まれているからには本当にこうだったにちがいない」という読者側の錯覚を誘うこと。》「日付の歌」p73

《ここには丁寧に捨て身になってゆくことで何とか活路を見出そうとするようなサバイバル感覚があると思う。》「素直な歌」p79

《おじいちゃんやおばあちゃんは孫がたまらなく可愛い。だが、相手はそんなことにはお構い無し。その非対称性によって、孫可愛さの壁が結果的に突破されている「子供の言葉」p84(強調は引用者)

《窓越しの世界が無人で不動だからこそ、それはもうひとつの世界のスクリーンになりうるのだ。
 では、そのスクリーンに映るもうひとつの世界の正体とは何だろう。私は未来だと思う。》「窓の外」p89

《我々の意識は、現に生命が生きている今から常に遅れ、必ずズレを生じることになる。しかしながら、何かのきっかけで日常の意識に裂け目ができて、捉えられない筈の今の光を浴びることがある。
 日常的な時間の流れのなかでは捉えられない今が剥き出しになるとき、それは永遠の相貌を帯びる。「目の前のコップがびっくりするくらい光って」いたり、「グラスが変に美し」かったりするのは、今から永遠の光が溢れているからではないか。云い換えると、それは可能性の光に他ならない。》「今と永遠の通路」p98

《だが、政治とか経済とか恋愛とは、いずれも人間にとっての優先項目に過ぎない。世界を作り出した神の視点からは全ては等価なのだ。それならば、人間が人間用の意味を読み取らない細部にこそ、世界の在り方の秘密が潜んでいる、とは考えられないか。》「ミクロの視点 空間編」p143

《どこか屈折したナルシシズム。でありながら、平仮名表記及び「する」「だろ」「たる」「たり」「マロ」「ばり」「がら」というラ行音の連鎖によって作中世界はどこまでも柔らかい。あれほど柔らかい「マシュマロ」がその片仮名表記によって相対的には硬くみえるほどだ。》「平仮名の歌」p156

《「浣腸」の意外性、さらに「秘書」とのギャップに惹かれる。現実の中に体ごと突入してゆくことで摑んだポエジーというか、頭の中の想像だけでは書くのが難しいタイプの歌である。》「会社の人の歌」p189

《決して誤らない神仏に対して人間の女の生命力をぎりぎりまで主張する一首は、誤り得る生の輝きを放っている。》「間違いのある歌 その1」p205

 どんなものだろう。「短歌がなくっちゃ、どうもこうもないよ」というのが正しい反応だろうと思いつつ、どうしてもこんなふうに並べてみたかった。
 ほかの本(短歌ではなくエッセイでも)を読んでいてもたびたび見られる、神だとか永遠だとかいった、絶対的なもののあらわれを感受するアンテナの過敏さはこの本でもところどころに顔を出し、ふだん人はそんなにひんぱんに神や永遠のことは考えないだろうから、それは穂村弘の偏りといえば偏りということになるのかもしれない。
 けれども、ここにあるどの言葉からも――つまり本書の言葉ぜんぶからだが――浮かび上がってくるのは、他人の手になる短歌を紹介したいと思った穂村弘が、その歌にだけ当てはまる言葉を、自分の偏りのなかで、かつその歌からの影響を確実に受けながら、一生懸命さがしている姿である。
 だから、それぞれの言葉が、それぞれどんな短歌のために発見されたものなのかは、実際に『ぼくの短歌ノート』で確認してほしい。

 そしてこの本は、そこまでとまったく同じ形式・ページ数の「殺意の歌」でもって、唐突に終わる。最後がそれなのか、とか、「まとめ」も「あとがき」もないの?とも思うが、それはこの連載が「群像」でいまも進行中だからで、そう考えると、この素っ気なさはかえって頼もしく映る。
 何年か後に出るだろう2冊目のノートを楽しみに待ちたい。


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ひとつだけ追記:
 本書の帯には、紹介されている中から選ばれた短歌が一首、大きく印刷されている。それはもちろん面白く(そんな視点、そんな乗り越えかたを想像したことがなかった)、そのことは何度でも念を押したいんだけど、この場所に一首だけ選ぶなら、ほとんど特権的といってもいいくらいの言葉で取り上げられているこちらの歌もよかったのじゃないだろうか。
ハブられたイケてるやつがワンランク下の僕らと弁当食べる
うえたに

《ここには死の凝視も社会への批評もユーモアらしきものも見当たらない。その代わりに独特の感触がある。強いて言語化すれば、「僕」の表情がみえない、ということになるだろうか。[…] ともあれ、一首における高純度の「身も蓋もなさ」は、短歌史の中でかつて踏まれたことのない場所を踏んでいるようにみえるのだ。》「身も蓋もない歌」p127