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「宇宙人東京に現わる」(1956)、 「地球の静止する日」(1951)

■ 「宇宙人東京に現わる」(1956)

宇宙人東京に現わる [DVD]
島耕二監督

「日本が原水爆の廃止を叫んだところでどうなるものですか…」
「どうにもならないことも知っています」

 わたしは借りてくるまで知らなかったんだけど、1956年公開のこの作品は、日本初のカラーSF映画なのだそうである。特撮とかまったく疎いので、申し訳ない気持で正座して見た。これを見るべき人はほかにいる。でもそういう人はみんな見てるのか。

 空飛ぶ円盤の目撃情報が相次ぐ東京。天文台のトップや物理学者といった科学者たちの身辺も慌ただしくなっていた。加えて、巨大なヒトデ形の生物があちこちで目撃されてそのたびに悲鳴が飛び交う。
 じつは、パイラという遠い星の宇宙人が地球の人類とのコンタクトを求めてやってきたのだった。そのパイラ人が主張するのには、

・地球人が原水爆を作るようになったのがわかったので「平和利用しないと地球は壊滅します」と警告する
・原水爆より危険な“ウリウム101”を発見した科学者に「ダメ。ゼッタイ。使うと地球が壊滅します」と破棄を迫る
・「新天体“R”なる星が、地球に衝突する軌道で接近中。このままだと地球は壊滅します」と教える

と、三つもあるのでなんとも壊滅しやすい地球だった。彼らパイラ人によると、世界中の原水爆ぜんぶをまとめて新天体“R”にぶつければ、あるいは危機を回避できるかもしれない。どうなる日本、どうする世界――
 面白いのは、パイラ人とやりとりして奔走するこの映画の主人公が壮年の科学者三人とその部下・家族であることで、“世界会議”に働きかけるのも、マスコミへの発表も、彼らが手弁当でやっている。だいたいパイラ人のほうでも頼りにしているのは最初から最後まで科学者たちで、この映画を見るかぎり、日本政府は存在してない。
 そんな市井の生活者たちを通し、とくにパニックが起きるまえの前半では、昭和三十年代初頭の生活もカラーでうかがえるのが見どころである。家族ぐるみでハハハ、ホホホ、とピクニックに行ったりしますからね。
 もっとも、見ているわたしはあらゆることに疎いので、「映像がカラー」というだけで時代の距離感がつかめずとまどった。たとえば中盤、いよいよ地球壊滅の危機が迫るので東京から疎開しよう、という謎展開があるのだが、子供はともかく、役者やエキストラの大人たちは演じながら十年ちょっと前を思い出していないはずがなく、それってどういう気持なんだろう、ていうか十年ちょっとで生活はこうなっているのか、十年という時間の長さと短さよ、でもこういうのはみんなただの安易なおもんぱかりだろうか、などなどを思った。安易であることだけは間違いない。
 とはいえ、何より鮮烈な印象を残すのはパイラ人のフォルムで、彼らはなんとか日本人に怖がられずに接触しようと、自分たちの美意識から外れることはなはだしいのに、耐えがたきを耐えて日本人に変身してくれた。宇宙道徳にのっとる優しい彼らの困惑と嘆息を忘れない。ありがとうパイラ人。ありがとう。
「彼等は我々パイラ人を醜いと云うのか それ程彼等は美しいのか?」
「これが美人か? 顔の真中にこんな出っ張りがあるではないか?」

 だからといって、いきなりトップ女優を手本に変身して無用な混乱を引き起こさなくてもいいような気はした。宇宙人東京に現わる。何事にも中庸を知らないパイラ人が、東京に現われたのだった。



■ 「地球の静止する日」(1951)

地球の静止する日 [DVD]
ロバート・ワイズ監督

「首府では皆が注目していますがパニックの兆候はありません」

 時速六四〇〇キロで飛来した円盤がワシントンに着陸する。軍隊と野次馬が取り囲み、固唾をのんで見守ること二時間、ついに円盤の中から現われた宇宙人は、地球人全員に伝えねばならないメッセージを持ってきていた――ということで、こちらも初見。それにしたって二時間も何をしていたのだろう(この映画本編より長い)。

 続けて見てるのでどうしても「宇宙人東京に現わる」と比べてしまうが、いちばんのちがいは「宇宙人が人間型(アメリカ人と区別つかない)」というところで、パイラ人を見たあとの目には、いったいなぜこれでOKということになるのか不思議でならない。OKじゃないかも…と疑いをはさむことさえ許さない確信が全編を貫いている。そしてこちらではちゃんと軍隊が出動し、大統領補佐官が交渉にあたるのだけど、そういう展開だって一種の確信あってこそだと思う。
 確信といえば、クラトゥという名のこの宇宙人は、補佐官が「いまの世界には悪質な勢力があって…」などと国際情勢を説明しようとするのに「君らのような愚劣さを我々は卒業した」と切って捨てるほどの確信と、地球人をはるかに超越した知性をもって行動するのだが、いっぽうでふつうの家庭生活にもぐり込み、アーリントン墓地に連れて行かれれば戦没者の墓にショックを受けるし、リンカーンの碑を読んで「こういう立派な人と話してみたかった」などと感想を洩らすのだから、遅れた世界の一国に感化される内面だって持ち合わせているようで、いろいろ複雑な御仁である。というか、感化してやろうというつもりもないのに的確にそんなところへ連れていったアメリカ人少年が末恐ろしい。彼もまた確信のもと呼吸して成長している。
 テルミンの音色とともにゆっくりと動くロボットのシーンが有名だけど、こちらの映画も、背景の生活に「へえ」と思わされることが多かった。家族で白黒のテレビを見るときは部屋の照明を消しているとか、そのテレビの中のキャスターが帽子をかぶったまま喋るとか。映画の外もやはりこうだったのだろうか。気になる。


 ○ ○ ○

 それにしても、「宇宙人東京に現わる」にしても「地球の静止する日」にしても、なんてすばらしいタイトルだろう。文字の並びを眺めていると、かっこよくてため息が出る。
「クローバーフィールド」(2008)、「クロニクル」(2012)

■ 「クローバーフィールド」(2008)

クローバーフィールド/HAKAISHA スペシャル・コレクターズ・エディション [DVD]
マット・リーヴス監督

 (なんだかよくわからないが)ニューヨークの一室で若者たちがパーティーを開いて(なんだかよくわからないが)男女関係がもつれたりしていると、(なんだかよくわからないが)外に巨大な怪獣が現われて(なんだかよくわからないが)盛大に破壊の限りをつくし、(なんだかよくわからないが)軍隊が出動して応戦する夜から朝までを、一般人の回していた一台のビデオカメラが記録していた。(なんだかよくわからないが)それがこの映像である――ということになっている映画。
 カメラを任されているのが、若者でいるあいだは人気者になれないだろうタイプの男(そこはよくわかる)なのが切ない。でもそれ以外はとてもよかった。

 一人称カメラは“そういう設定”であるだけなので、あちこちの都合よすぎる撮り方に「都合よすぎる」といった不満は特にわかないし、リアルっぽくしようと工夫を凝らせば凝らすほど、その作為のために画面はますます作りものめいて見えてくるという倒錯が楽しい。ここでは、リアル感と作りもの感が同じものである。「がんばれ作りもの!あと俳優!」と声援を送らずにいられない。
 いや、そんなことではなくて、とてもよかったのは「なんだかよくわからない」まま始まって「なんだかよくわからない」まま進み、「なんだかよくわからない」まま終わることだった。これはネタバレではない。
 
 この映画を見てみようと思ったのは、2014年9月7日(日)にあった『モンスターズ』(B・J・ホラーズ編、白水社)刊行記念の古屋美登里×岸本佐知子トークショー(@紀伊國屋書店新宿本店)で岸本さんが名前を挙げていたからだった。
 もし本当に怪獣があらわれたら、イケてる者もそうでない者もみんな等しくこんなふうにわけのわからないまま右往左往し、騒いで逃げて転んで迷って泣いて叫んで、つまりなんにもできずにオロオロするだけだろう、「そこがすごくいい」みたいなお話だった(わたしの記憶によります)。
 これはまさにそういう映画で、ときおりギョッとする瞬間もあるしそういう方向を狙って作られているのだろうに、見終えるとたいへん穏やかな気持になっている自分がいた。
 ずっと前に見た、同じような趣向の「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」(1999)だと、カメラに撮られている数名がそれぞれヒステリックに叫ぶだけでひどく神経にこたえ、最後まで見るのが辛かったのとはぜんぜんちがった。
 大勢の群衆の全員が(そう、一人残らず全員が)等しなみにゼロになるという状況にはどうしてこんなに心が安らぐのか。それは映画の作りではなく、見る側の問題なのかもしれない。ひとまず、作りものってすばらしい。

 あともうひとつ、「あの橋を渡ってどこどこへ逃げよう」とか「あの子のアパートは○番街だから地下鉄の路線ならこのへんで」みたいなご当地感が満載なので、ニューヨークの地理のわかる人がうらやましくなった。こんな羨望は、たとえばウディ・アレンの映画を見てもおぼえないと思う。
 なお、作中に「今日は5月23日土曜日」との発言があるので舞台は2009年のはずで、公開年からすると未来を描いていた模様。


■ 「クロニクル」(2012)

クロニクル [DVD]
ジョシュ・トランク監督

 毎日がパッとせず、辛いことは山盛り、これっぽっちも楽しくなくて、ついにビデオカメラによる自分撮りにまで手を染めてしまった(「生活のすべてを記録するんだ…」とか言っちゃう)高校生のアンドリュー君とあと二人が、ひょんなことから超能力を手に入れる。トレーニングで力を強めていく過程と引き起こされるスペクタクルが、彼ら当事者の撮影した映像と、実際にその場に居合わせたカメラ(防犯カメラとか他人のスマホとか)の記録した映像の切り貼りで構成されている――ということになっている映画。
 でも問題はそういう画面の設定(カメラが複数なので一人称ではないけれど、広く“found footage”というジャンルにくくられるらしい。なるほど「本物の映像もの」ということでしょうか)ではなく、アメリカの高校生活のおそろしさだった。
 弱肉強食のパーティー。車で通学。明朗快活で人望のある生徒は政治家志望を公言してはばからない。タレントショー。自分が魅力的だとわかっている女子。こっちの名前とカバンを知っている不良。またパーティー。おそろしいったらない。これはクロニクルというよりアポカリプスなんじゃないか。
 中盤でアンドリュー君にあることをする(未遂)モニカの罪は、その後、鳥山明と大友克洋の両先生がなぜかシアトルで戦う展開を見るにつけ、あまりに重いと言わざるをえない。街をあんなことにした責任の一端は、何の超能力も持たないはずのあの女子にある。
 それとあと、アンドリュー君の父親(元消防士。保険金で酒浸り)がひどい男なのは間違いないが、一途にひどいのか、ひどいところにプラスしてそうじゃないところも同居していると言えるのか、判断つけにくいのがかえってよかった。
 どうでもいいけど、“地面にあいた、深そうな謎の穴に入ってみる”のに際して、プラトンの洞窟の比喩を連想する人間はふつういないと思います。
 獲得した超能力を駆使して巧みに自分撮りをするアンドリュー君の、笑えて悲しい表情が印象的だった。

 ○  ○  ○

 手持ちカメラっぽい映像を装った映画というのはどんなふうになっているのだろうという関心で、その点が公開時に話題になっていた映画を二本続けて見たのに、得られた教訓は「パーティーが災害の始まり」。知ってた。それ、知ってた。
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