2014/01/19

ミラン・クンデラ『可笑しい愛』(1986,1994)

可笑しい愛 (集英社文庫)
西永良成訳、集英社文庫(2003)

《なんとも具合の悪いことが生じた。じっさい私は(歴史的背景を見失いそうになっているかもしれない人々のために)その時代、教会は禁止されていなかったとはいえ、それでも教会に通うことに危険がなかったわけではないことを想起しておかねばならない。
 それは理解するのはそう難しいことではない。いわゆる革命と呼ばれるものの側のために戦った者たちは、そのことに大きな誇り、前線の良き側にいるという誇りを保持している。その十年か十五年後(ちょうどその頃にこの物語は位置づけられる)、その前線が消えはじめ、それとともにその前線の良き側と悪しき側もまた消えはじめた。だから、元の革命信奉者達が欲求不満を感じ、じりじりしながら代用の前線をさがし求めたとしても驚くにはあたらない。宗教のおかげで(信者と戦う無神論者の役割を演じることで)、彼らは新たに良き側に立つことができ、彼らの優越性という慣例的で貴重な仰々しさを無傷のまま保持することができたのだ。
 しかしじつを言えば、その代用の前線もまた他の者たちにとっては僥倖だったのであり、おそらくこのことを明かしても時期尚早ではないだろうが、アリツェもそんなひとりだった。校長が良き側に立ちたがったのと同様、アリツェはその反対の側に立ちたがった。彼女の父親の店はいわゆる革命の日々のあいだに国有化されたので、アリツェは自分をそんなひどい目に合わせた者たちを憎んでいた。しかし彼女はその憎悪をどのように表明することができただろうか? ナイフを摑んで父親の復讐に出かけねばならないのか? そんなことはボヘミアの慣習にはなかった。アリツェには反対を表明する最良の手段があった。彼女は神を信じようと企てたのである。
 そんなふうにして、神様が双方の救いに駆けつけてきたのであり、そのおかげでエドワルドはふたつの火のあいだに捉えられることになった。》
「エドワルドと神」pp303-5