趣味は引用
レニ/レェニ/レーニはKの膝の上で
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 前回のぶんから続く、カフカ『審判』感想の続き。

 小説の中盤、Kが訴訟を起こされていると知って田舎から叔父がやって来る。
 Kの職場である銀行に乗り込んできた叔父は、家名の恥だというのにお前はいったいどういうつもりなのか、そんなやる気のなさでは負けてしまうぞと悲憤慷慨し、Kを執務用の個室から引っぱり出して助力を求めるべく旧知の弁護士の自宅を訪ねる。
 夜更けに何の約束もなく押しかけられた弁護士は、折り悪く病気で床に伏せっていた。世話をするために雇われている女中も強引な来客に迷惑顔である。それでも叔父が無理やり話を進めて甥のKを引き合わせると、ベッドの弁護士のほうは弁護士のほうで裁判所界隈の注目を集めているKの件をすでに承知しており、え、もうそんなに知られてしまってるんですか、とはじめてうろたえるKだったが、ここでとつぜん、この薄暗い蠟燭に照らされた寝室で、灯りの届かない部屋の片隅にじつはもうひとり人間が座っているのだと部屋の主は客人ふたりに告げる。
 弁護士にうながされて嫌々会話に加わることになるその人物、裁判を深く知る立場にあり、うまくすれば力になってくれるかもしれないという期待を不作法な叔父にも抱かせるこの男が小説に入ってくるシーンは、何度読んでも魔法が起きているように見える。
《「いったいどこに?」とKはびっくりしたとたんに、ほとんど乱暴な調子でたずねた。
 おぼつかない様子で彼はあたりを見まわした。小さなろうそくの光は、むこう側の壁まではとてもとどかなかった。ところがそのかたすみに、ほんとうになにかが動きはじめたのだ。叔父がろうそくを高くかかげてみると、その光をうけて、小さな机のそばに中年の男がすわっているのが見えた。こんなに長いあいだ気づかれないでいたなんて、きっと今までぜんぜん息をしないでいたにちがいない。男のほうは、自分の存在に注意をむけられたことが不満だったらしく、まわりくどいしぐさをして立ちあがった。両手を短い翼のように動かして、紹介やあいさつはぜんぶおことわりしたい、といった様子であり、自分がここにいるせいで、他の人たちのじゃまになることだけは金輪際したくない、どうかまた暗やみにおいておいて、自分のいることなどは忘れてほしい、と頼んでいるようだった。しかし今はもう、そんなことを認めてやるわけにはいかなかった。
 「みんなびっくりしたところですよ」と弁護士はその場の説明をしてやったが、それと同時にはげますような合図を送り、こちらに出てくるようにうながした。男は、ためらいながらあたりを見まわし、ゆっくりと出てきたが、なにかその動作には一種の品位がそなわっていた。
 「事務局長さんが――ああ、そう、ごめんなさい、ご紹介しませんでしたな――こちらは友人のアルバート・K、こちらはその甥御さんの業務主任ヨーゼフ・K、そしてこちらは事務局長さん――で、事務局長さんがたいへんご親切なことに、ここにおいでくださっているんです。[…] 」》辻瑆訳(岩波文庫)pp156-7

 これよりも前、気乗りのしないKを従えて、病人への気遣いなど皆無のまま自分の都合だけを通そうとするがさつな叔父と、気力の萎えた弁護士と、その弁護士をかばう役割のためKの叔父と衝突して部屋を追い出される付き添いの女中、そんな人間たちの噛み合わない会話がぎくしゃくと続いていた数ページのあいだ、「そこにいる」ヒントはページの上にひとつもあらわれていなかったこの事務局長が、いま、ここで言葉によって書かれたことで唐突に、存在を始める。
 動きを描写され、さらにこのあと重い口から発される言葉が記されるにつれて、彼が徐々に肉体をまとっていくのと同時に、「書かれる前はそこにいなかった」こともさかのぼって印象づけられるこの事務局長の登場シーンは、落ち着いて考え直せばどの小説のどんな登場人物のどのような登場シーンも、本来はここと同じように、それまで存在しなかった何者かが、ただ文字だけを足がかりにして暗がりから灯りの届くページの上へと歩み出る、力動に満ちた瞬間であることをこちらに生々しく思い起こさせてやまない。
 書かれたものは実在を始める。だからいったん書かれたものは、どうあっても消えない。そのことも書いてある。
《どうかまた暗やみにおいておいて、自分のいることなどは忘れてほしい、と頼んでいるようだった。しかし今はもう、そんなことを認めてやるわけにはいかなかった。》

 今回メモしておきたかったのは、しかし、ここではなかった。事務局長があきらかに面倒くさそうに弁護士と叔父の会話に加わり、話題になっているのは自分の訴訟でありながらますます興味を失っていくKは、ドアのむこうで何かが割れたような音がしたのをチャンスとばかりに「見てきます」と寝室から出る。
 じつはそれは弁護士を看護している女中の仕業で、Kを最初に見たときから気になっていた彼女は、彼を呼び出すきっかけを作るために皿を壁にたたきつけたのだと言う。
 Kをこっそりと弁護士の書斎へ導き入れ、いまや望みどおりのふたりきりになった娘はレーニと名乗って、長持の上に座らせたKに謎の積極性でもってぐいぐい迫る。引き続き、辻瑆訳(岩波文庫)から引く。
《「この裁判所のことや、ここで必要な嘘のことなどを、ずいぶんよく知っているんだね」とKは言い、女があまり強く体を押しつけてくるので、ひざの上に抱きあげた。
 「これでいいわ」と女は言い、スカートのしわをのばし、ブラウスをちゃんとひっぱって、ひざの上で居ずまいをなおした。それから両手で彼の首につるさがり、体をのけぞらせて長いこと彼の顔を見つめた。
[…]どうもこの女はおれに対してわけのわからぬ欲求を抱いているようだ。まるで処を得た場所はここしかないとでもいわんばかりに、おれのひざの上にのってるじゃないか!》p163

 ここまではわかる。いや、レーニの猛攻の動機は見当もつかないが、ふたりがどういう格好になっているのかを把握するのは難しくない。それこそ書いてあるとおりで、Kの膝の上に(正確には、Kの腿の上に)レーニが横座りになり、彼の首のうしろに両手をまわしているのだろう。
 その姿勢のまま、レーニはKにいま恋人はいるのかと尋ね(Kは見栄をはってそれほど思い入れのない女の写真を見せるなどし)、それから彼女は自分の体の小さな畸形として、右手の中指と薬指の間にある水かき状の皮膜を見せる。ところで、以下、太字にしたところと下線を引いた部分をよく読んでほしい。
《「なんという自然のたわむれだ」とKは言い、その手全体をながめた上で、こうつけ加えた。「なんというかわいいけづめだ!」
 レーニは一種の誇りをもって、Kが目を見はりながら、幾度となくこの二本の指をひろげたり、しめたりしているさまをながめていた。最後に彼はその指にちょっとキスをして、はなした。
 「まあ!」とたちどころに女は叫んで、「あなたわたしにキスしたのね!」
 口をあけたまま、いそいで女はそのひざがしらでKのひざをよじのぼった。Kはほとんど狼狽して、その顔をあおぎ見ていたが、こうそばに寄られると、胡椒のような、からい刺激的なにおいが女から発散するのだった。女は彼の頭をかかえこみ、頭ごしにその身をかがめて、彼のくびを嚙んでキスし、髪のなかまで嚙んだ。
 「あなたはわたしと取りかえたんだわ!」と彼女はときどき叫んで、「ほらね、もうわたしと取りかえたんだわ」
 とそのとき、彼女のひざがしらがすべった。女は小さな叫び声をあげて、ほとんどじゅうたんの上にまで落っこちた。Kが支えようとして抱きかかえると、逆に女のところへひきずりおろされた。
 「もうわたしのものよ」と女は言った。》p166

 ここで展開されているのはいったいどのような動作で、ふたりはどういう格好になっているのか、という野暮の極みのようなことを考えたいというのが、今回のこの文章の本題である。
 Kは30歳の男、レーニは若い娘と書いてあった。レーニがKの腿に腰を下ろして彼の首に腕をまわしているのだから、成年のふたりは当然その時点でかなり密着している。だが、そこから「女はそのひざがしらでKのひざをよじのぼった」と進むのをあくまで字義どおりにおさえるなら、小さな女の子が父親の膝の上をのぼるように、まるでレーニが縮んでしまっているかのように映る。
 その印象をもって読み進めると、下線部では、それこそ幼児のサイズになったレーニがKの膝から落っこちそうになったのを、彼がすばやく手を伸ばしてつかまえようとしたかのように見えてくる。弁護士書斎のキャッチャー。いや何でもない。
 最終的にはふたりで絨毯の上を転げまわることになるのは誤解の余地のない(つまらない)事実なので、やはり問題はそこにいたるまでである。レーニが小さくなっているようだと書いたが、直後、Kはレーニの顔を「あおぎ見て」いるのだからまた変なことになっている。
 別の訳ではどうなっているか。Kが娘の指を見つめているところから、池内紀訳(白水社)を見てみる。
《Kがしきりにその指を伸ばしたり、曲げたりしているのを、レニが誇らかに見守っていた。最後にKはすばやくキスをして、手をはなした。
 「あら!」
 レニがすぐさま声を上げた。
 「わたしにキスをした!」
 身をよじり、口を開いたまま、膝がしらでKの膝に這い上がってきた。まぢかに迫ってきて、そのからだから胡椒のような強い匂いがした。レニはKの顔を両手に抱くと、上からかぶさるようにして首すじを嚙み、キスをした。さらにKの髪に嚙みついた。
 「わたしと取り換えた」
 なんども声を出した。
 「ほらね、わたしと取り換えた!」
 両股をひらき、小さな叫びとともに、あやうく絨毯に落ちかけた。あわててKが両手を差し出すと、強く引き寄せてきた。
 「あなたはもう、わたしのもの」
 と、彼女が言った。》pp139-40

 すでにKの膝に乗って、彼の首のうしろに両手をまわしていたレニだから、これ以上に彼女が詰めることのできる距離はせいぜい自分の腕の長さのぶんしか残っていないはずである。それなのに「膝がしらでKの膝に這い上がってきた」、続けて「まぢかに迫ってきて」とあるせいで、いっそう、小さくなったレニがKの腿をよじのぼっていく印象が強くなるように読める。
 だが、繰り返すがふたりは大人だし、はじめから相当くっついているはずなのだ。ないはずの距離があることになっている。あるいは、レニは小さくなってから大きくなっている。そして下線部最初の「両股をひらき、」は、ほかのどの訳にもないオリジナルな描写なので謎は深まる。
 本邦初訳だった本野亨一訳(角川文庫)ではどうなっていただろう。
《レェニの顔に優越感に似たものが溢れ、Kが驚歎の声を放ちながら二本の指を拡げたりすぼめたりしている有様を、眺めていたが、やがてKがその指に軽く唇を触れ、離すと、「まあ!」とすかさず叫び声を挙げ、「あたしに接吻なさったのね!」大きく口を開いたまま、せかせか膝を使ってKの太股の上へ、よじ上ってくる、茫然としてKは女を見上げる、身体がふれ合いそうになると、辛子のような一種のはげしい刺戟性の臭いを、彼女は発散させる、Kの頭を引きよせた、頭を越してかがみこみ、首筋に嚙みつき、接吻した、髪のなかにも顔をうずめて、嚙むのだ。「取りかえておしまいになったのね、」何度もそう叫び、「いいこと、取りかえておしまいになったのよ。」女の膝がすべっていく、小さな叫び声をあげると、あやうく絨毯の上まで落ちてしまいそうになる、Kはその身体を抱きとめようとして、女のほうへ引きずりおとされてしまった。「もうあなたはわたしのものよ。」そんな言葉が聞えた。》p130

 いや「せかせか」はいけないと思う。これだと池内訳よりさらに極端で、「せかせか」「よじ上ってくる」では、まるでレェニは滑り台を下からのぼるくらいの勢いでKの太腿をかけあがっているように見える。そのあとの「身体がふれ合いそうになると」と相まって、やはりそれまでは距離があったようになっており、そして下線部は、あたかもレェニが急な斜面を滑落していくアクションを演じているふうに映る。
 
 字義どおりに受け取ると、奇妙なことになる。だが、字義以外の文脈に沿って想像しながら読むというふつうの作業をすれば、「どう書いてあるか」はともかく、「何が起きているはずか」はわからなくはない。その話の前に、飯吉光夫訳(ちくま文庫)も引いておく。
《Kは賛嘆しながら二本の指をひろげたり、とじたりし、最後には軽い接吻までしてようやくはなしたが、レーニはそのあいだじゅう、ほこらしげに見まもっているだけだった。しかし、接吻をされるとすぐ、「まあ、接吻をなさったのね」というなり、口をあけたまま、Kの膝のうえをよじのぼりはじめた。Kはあっけにとられてレーニを見あげた。まぢかから胡椒のような刺激的な香りがただよってきた。レーニはKのうえにかがみこむと、その首筋を嚙み、接吻した。髪の毛までを嚙んだ。「わたしにとりかえたんだわ!」と、とぎれとぎれに叫んだ。「ねえ、わたしにとりかえたのね。」そのとたん、小さな叫び声とともに膝がすべって床におちそうになった。Kがとめようとすると、その手はかえって下方に引かれた。「もうわたしのものね!」とレーニが言った。》pp137-8

 ほかの訳と大差はない。「よじのぼる」ほどの余地はKの腿の上にもふたりのあいだにもないだろう、というのがここまで何度も書いてきたことだが、いまこの場面で起こっているのは、つまりこういうことだと思う。

 レーニは、Kの太腿に横座りしていた状態から、膝立ちに格好を変えた

 彼女がしたのはこれくらいの動作のはずだ。「よじのぼる」とか「這い上がる」といった言葉から、山道をのぼったりスロープを匍匐前進で進んだりする斜め移動を読み取ってしまったが、この状態にあるレーニにできるのは、膝立ちになる、というタテ移動をともなう姿勢の変更でしかない。
 はじめからそうとしか読めなかった、と言われるかもしれない。これほど書いてしまったあとでは、自分が最初はどんな動作を思い浮かべて読んでいたのか、わたしはとっくに見失っている。
辻訳:
《口をあけたまま、いそいで女はそのひざがしらでKのひざをよじのぼった。Kはほとんど狼狽して、その顔をあおぎ見ていたが、こうそばに寄られると、胡椒のような、からい刺激的なにおいが女から発散するのだった。女は彼の頭をかかえこみ、頭ごしにその身をかがめて、彼のくびを嚙んでキスし、髪のなかまで嚙んだ。》

池内訳:
《身をよじり、口を開いたまま、膝がしらでKの膝に這い上がってきた。まぢかに迫ってきて、そのからだから胡椒のような強い匂いがした。レニはKの顔を両手に抱くと、上からかぶさるようにして首すじを嚙み、キスをした。さらにKの髪に嚙みついた。》

本野訳:
《大きく口を開いたまま、せかせか膝を使ってKの太股の上へ、よじ上ってくる、茫然としてKは女を見上げる、身体がふれ合いそうになると、辛子のような一種のはげしい刺戟性の臭いを、彼女は発散させる、Kの頭を引きよせた、頭を越してかがみこみ、首筋に嚙みつき、接吻した、髪のなかにも顔をうずめて、嚙むのだ。》

飯吉訳:
《口をあけたまま、Kの膝のうえをよじのぼりはじめた。Kはあっけにとられてレーニを見あげた。まぢかから胡椒のような刺激的な香りがただよってきた。レーニはKのうえにかがみこむと、その首筋を嚙み、接吻した。髪の毛までを嚙んだ。》

 レーニ/レニ/レェニはKの腿の上で膝立ちになり、いちどKを見下ろしてから体を折るようにしてうなじに顔を押しつけ、嚙む。そのさいKは顔をレーニの胸のあたりにうずめているはずで、そこから彼は胡椒のような刺激性の体臭を嗅ぎとっている。
 それはともかく、いまふたりの距離はゼロだから、「こうそばに寄られると」や「まじかに迫ってきて」、「身体がふれ合いそうになると」といった書き方はやはり、ない距離をある(あった)ことにしてしまっているのではないかとわたしはしつこく思う。
 はじめから密着している(膝の上に乗っている)だろうにそのうえ「そばに寄る」「迫る」「ふれ合いそうになる」と重ねて書くのは、上半身の動きだけをクローズアップして、ごくわずかな移動を細かく描写していたのだろう。スカートを履いて成年男性の腿の上で膝立ちになりうなじを嚙んだ経験がわたしにはないが、きっとそうだと思う。
 それでは、この体勢からレーニがすべって落ちる後半の部分はどうなっていたか。
辻訳:
《「ほらね、もうわたしと取りかえたんだわ」
 とそのとき、彼女のひざがしらがすべった。女は小さな叫び声をあげて、ほとんどじゅうたんの上にまで落っこちた。Kが支えようとして抱きかかえると、逆に女のところへひきずりおろされた。
 「もうわたしのものよ」と女は言った。》

本野訳:
《「いいこと、取りかえておしまいになったのよ。」女の膝がすべっていく、小さな叫び声をあげると、あやうく絨毯の上まで落ちてしまいそうになる、Kはその身体を抱きとめようとして、女のほうへ引きずりおとされてしまった。「もうあなたはわたしのものよ。」そんな言葉が聞えた。》

飯吉訳:
《「ねえ、わたしにとりかえたのね。」そのとたん、小さな叫び声とともに膝がすべって床におちそうになった。Kがとめようとすると、その手はかえって下方に引かれた。「もうわたしのものね!」とレーニが言った。》

 この3種では、「どうやって落ちたのか」ははっきりしない。
 Kの腿の上で膝立ちになっている、その膝がすべって小さく悲鳴を上げながら落ちるらしいのだが、たんにバランスを失い床まで崩れ落ちるごく短い転落と、そこに反射的に手を伸ばしたK、その手をつかんでレーニは逆に彼を床まで引き落ろす、という一瞬のあいだに起きた一連の動作が、スローモーションなのに、省略して描きとられている。省略の隙間に具体性は落っこちているので、レーニがKの腿から床の絨毯までどんなふうな落ち方をしたのか正確にはわからない、と、そのようにわからなさを確認してからもう一度、池内紀訳(白水社)を見直してみる。
《「ほらね、わたしと取り換えた!」
 両股をひらき、小さな叫びとともに、あやうく絨毯に落ちかけた。あわててKが両手を差し出すと、強く引き寄せてきた。
 「あなたはもう、わたしのもの」
 と、彼女が言った。》

 あらためて下線を引いた、ほかのどの訳にも該当部分がない「両股をひらき、」というのは、“レニはKの腿の上で膝立ちになっている”という格好をまず押さえたうえで、次に彼女が“膝をすべらせ、落ちる”からにはどんなふうに体勢が変化しているはずかを考えて、

左右どちらかに倒れるのではなく、閉じていた膝が開いてKの腿に内股と尻を落とし、それからうしろに倒れる

 このような動作としてとらえ、そうなるように都合した訳文なのではないかと推察する。横座りから膝立ちに移り、それからこのようにひっくり返った場合、レニの長いスカートがどのように動いてしわを作り、よじれるのかは想像もつかない(ちょっと宮崎駿に作画してもらえないだろうか)。
 真うしろに倒れていくレニにつかまれたKの手は、そのまま前方に引っぱられ、中腰の状態からKはレニに覆いかぶさっていくことにおそらくなるというところまで、この訳文は、書かれていないふたりの姿を読者の頭のなかに描き、引っぱっていく。
 その始まりの「両股をひらき、」という付け足しを、かんたんに“意訳”と言い切ってしまっていいものかどうか、わたしには判断が難しい。“鋭い洞察”である可能性もなくはないのではないかと思うのだが、ドイツ語原文の読めない人間にそんなふうにおもんぱかられても、池内紀だって迷惑だろう。
 
 それでは、カフカがもともと書いたドイツ語で読む人がこの部分を読んだとき、Kとレーニがどんな順番でどんなふるまいをしたのかは、どのへんまで共通した理解になるのだろうか――としばらく考えてみて、その共通の程度を示すのがここまで並べた各種の翻訳だというところに、1周まわって戻ってきた。
 これらを「ばらばらである」と見るか「そこそこ共通している」と見るかは、読む人によって、あるいは同じ人が読んでも場合によって、ちがってくるだろう。

 そしてもうひとつ思うことがある。ここまで、姿や動作を描いた文章から、それによってあらわされる登場人物とその動きを想像し、ああでもないこうでもないと考えてきたけれども、小説を読むときにふだん、つねにそんなことをしているのかといえば、まずそんなことはないわけである。
 言葉は言葉でしかないのだから、そのうしろに(まるで実在の人物であるかのように)ひとりの人間を想定し、大きさがさっきより小さくなるのはつじつまが合わなくておかしいだとか、スジを通すにはどう受け取ったものかなどとあれこれ考える必要も、本当はないだろうという気持も半分くらいある。

 レニ/レェニ/レーニがKの膝の上で小さくなっても、体を寄せあっているふたりの距離が妙に広々としても、そのように読めるかぎりにおいてそのように書かれることは、ぜんぜん、かまわない。
 それがどれくらいかまわないかと言ったら、ある日とつぜん有罪だから逮捕すると書かれたり、猿だけど猛勉強して喋れるようになりましたと書かれたり、これがすばらしい処刑機械ですと書かれたりしてもいっこうにかまわない、というのと同じくらいにぜんぜんかまわない、と言うだけは言っておきたい。
“どれだけ読んでも読み返しても、具体的な像を結べない文章”を読まされることについて、「それでいっこうにかまわない」との心がまえができてはじめて読める小説を読めるようになりたいとわたしは思う。
 そのような小説は極度に読みにくいか極度に読みやすいかのどちらかに分かれるか、あるいはさらに、そのようなものではない小説のなかの一部分にそのような小説がひそんでいるかもしれず、カフカの小説はそういったものに反応する練習にもたぶんなる。
 そんなものはどうやって読んでいけばいいのか、自分でも書いていて不分明ながら、それはきっと人の腿の上を膝でよじのぼり這いあがるような読み方になるのではないだろうかと付け足すのは、まったくの今日の思いつきだった。



   □  □  □


『審判』にはもちろん英訳版(The Trial)も複数ある。amazonで探してみるとがんばった表紙も見つかるが、あたらしめで、かつKindle版のあるものを選んでみた。Kindleを持っていないのに、わざわざiPhoneにアプリを入れて買い、該当箇所を見つけたからという、ただそれだけの理由でいちおう最後に貼っておく。
 訳者はBreon Mitchellというアメリカ人、底本にしているのは1990年の“手稿版”(または“批判版”)で、もとは1998年に出た翻訳である。
Leni watched with a kind of pride as K. opened and closed her two fingers repeatedly in astonishment, until he finally kissed them lightly and released them. "Oh!" she cried out at once, "you've kissed me!" Hastily, with open mouth, she climbed up his lap on her knees; K. looked up at her in near dismay; now that she was so close to him an exciting, almost bitter odor, like pepper, rose from her; she pulled his head to her and bent over it, biting and kissing his neck, even biting his hair. "You've traded her for me," she cried from time to time, "you see, now you've traded her for me after all!" Then her knees slid from under her, and with a small cry she almost slipped to the carpet; K. put his arms around her to catch her and was drawn down with her. "Now you belong to me," she said. (p106)

 何か、びっくりするほどシンプルであるところに希望を感じる。


The Trial: A New Translation Based on the Restored TextThe Trial: A New Translation Based on the Restored Text
(2012/10/03)
Franz Kafka

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ヨーゼフ・K!(6人)
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 2013年8月の終わりからの1ヶ月、「風立ちぬ」の高揚と「あまちゃん」の盛りあがりにどっぷり浸かりながら、ずっとカフカの『審判』を読んでいた。

 前に読んだもの、今回手に入れたもの、あわせて翻訳は6種類。これを続けて読んでみた。おそろしいことに大きい図書館へ行けばあと3、4種類は見つかるらしいが、このへんで自分を許してあげたい。まったく得がたい夏の終わりだった。
 こんなにも多くの種類の翻訳が出ている小説は、ほかにどれくらいあるだろう。シェイクスピアとか、『アリス』とかなら確実にもっとあるだろうし、メルヴィルの『白鯨』だって10種類は翻訳が出ているらしいが、『審判』のバージョンちがいも両手にあまるとしたら、ここはどういう文化国家なんでしょう。
 ともあれ、気がついたことを忘れないうちにメモしておく。でもまずは言い訳から。

・わたしはドイツ語が読めない。だから、訳のちがいをうんぬんするとしても、それは「ほかの訳と比べたときのちがい」でしかない。
・加えて、これだけ読んでいると頭のなかに“『審判』ってこういう小説”という前提ができてきて、目の前のあたらしい小説(それも『審判』だが)を読んでいても、その前提に沿って補完したり、削ったりしながら読むようになっている自分に「あ」と気付くことがたびたびあった。

「いや、でも、その“『審判』ってこういう小説”、という前提じたいが、どの訳をどういう順番で読んだかでちがってくるのでは?」と言いたくなるかたがいるかもしれない。わたしもはじめはそう思っていた。
 それなら、どうか3冊でいいから続けて『審判』を読んでみてほしい。たぶん、どれをどの順番で読んでも同じような前提ができあがるといまのわたしは想像する。だから、繰り返し読むことでかえって鈍くなっている面もずいぶんあると思う。
 ものを比べるなら2つがベスト。そんなことも知らなかった。

 こういう次第でたいして当てにならない雑感を、以下、刊行年の順に書く。
(なお、『審判』を含めたカフカ諸作品の翻訳リストとしては、2ちゃんのカフカスレ冒頭にテンプレとして貼り付けてあるものがたいへん便利だった)


■ 角川文庫(1953) 本野亨一訳(もとの訳は1940?)

審判 (角川文庫クラシックス)審判 (角川文庫クラシックス)
(1953/03/30)
フランツ・カフカ

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《「そんな法律はないでしょう。」とKは云った。「それだからますます君は困るというのだ。」「あなたがたの妄想ですよ。」とKは答え、見張りの考えのなかへ何とかして忍び込み、それを自分に有利な方向へ導くか、或いは相手に同化する気持でいたのだが、見張りは突っ放すように、「今にわかるだろう。」と云い、フランツが嘴[くちばし]を入れて、「おい、ヴィレム、あいつは、法律なんぞはない、自分は無罪だ、と云ってるんだぜ。」「お前の云うとおりだが、話して聞かせてもどうせ駄目だ。」ともう一方が云った。Kは返答する気持もなくなり、[…]p11

 フランツ・カフカの Der Prozess を、はじめて日本語にした仕事。このとき、原題は「訴訟」くらいの意味なのに重々しくも「審判」とタイトルを付けたため(受け売り)、以後の訳は2009年までみんなこれを引き継ぐことになる。

 読んでみると、非常にきびきびとした名調子で、じつに格好いい。眼光鋭く、鷲のような相貌の作家がペンを走らせている様子が目に浮かぶ。が、ほかの翻訳はどれもこれもこんなにきびきびとはしていないので、この名調子は、この訳者による名調子ではないかと思われる。あくまでほかの訳と読み比べての推測に過ぎないが、複数の文をつなげて一文にまとめているっぽいところもたくさん目につく。
 その訳者じしんの手になる巻末「解説」から、特に筆の乗っている部分を引いてみよう。創作するカフカの姿を、こうもあろうと想像している。
《仕事を始めようとする彼は、漠然たる恐怖に取り憑かれる。故郷を去らねばならぬ人のような気持だ。しかしそれは決して懐かしい故郷ではない、慣れて知っているという程度の故郷なのだ。仕事は、自分を、何処へ連れていく? 雑沓の大通りを引っ張られていく犬のような彼。だが、雑沓は彼の耳に入らず、彼を興奮させ夢中にさせることはない。雑沓を極めているにもかかわらず、変な一種の静けさだけが、耳に入る。気味がわるい、妙に胸騒ぎがし、同時にひどく彼は退屈である。何処へいくのだ? 何処へいくのだ? 何処へいくのでもない。二歩、三歩、あるくと、もう進めなくなる。疲れてよろよろとふたたび故郷へ戻らねばならぬ。灰色の、まるで愛情のない故郷へ。》p307

 何処へいくのだ? や、つい引用しすぎた。こういう人が訳しているからか、ある日理由も告げられずに逮捕され、具体的なことは何もつかめないまま状況はちゃくちゃくと不利になり、ちょうど1年経って処刑されるにいたる主人公のKは、(言動はかなり傲慢で自己中でセクハラ野郎なんだけど)まるで悲劇のヒーローであるかのように見えてくる。なんというか、格好いいカフカを読みたい人におすすめです。

・一応の結末のあとに、未完の断章(本編のどこに組み入れるつもりだったのか不明な断片)を5編、並べてくれている。「支店長代理との戦い」というのがわたしは好きです。



■ 新潮文庫(1971) 原田義人訳(もとの訳は1953?)

審判 (新潮文庫)審判 (新潮文庫)
(1971/07)
フランツ・カフカ

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《「そんな法律って知りませんね」と、Kは言った。
「それだからなお困るんだよ」と、監視人が言った。
「ただあなたがたの頭にだけある法律なんですよ」と、Kは言い、なんとかして監視人の考えていることのなかにはいりこみ、それを彼の都合のよいほうに向けるか、あるいはそれにもぐりこんで同化しようと思った。ところが監視人はただ突き放すように言うのだった。
「今にわかるようになるよ」
 フランツが嘴を入れ、
「おい、ウィレム、あいつは、法律を知らないって白状し、同時に、自分は無罪だって言い張っているぜ」
「まったくお前の言うとおりだが、あいつには全然わからせることはできやしないよ」と、もう一方の男が言った。
 Kはもう返事をしなかった。》pp12-3

 最初の角川文庫・本野亨一訳に比べると、改行が多くなっているのがこの短い引用でもわかる。これは訳者が読みやすくなるよう手を入れたためで、もとのカフカの原稿はきわめて改行が少ないらしい。
 女性の喋り言葉なんかはさすがにいくらか古くなってる気がするが、そういう“古めの翻訳小説”としてオーソドックスといってよいのではないかと思う。安心して読める。正確には、どこも安心できないこの小説を、安心して読める。

 それにしたって、これはどういう小説なんだろう。
 Kは逮捕されてからも表面的には以前とあまり変わらない生活を送ることができており、ある日、勤めている銀行からの帰りがけに物置部屋から声がするので何気なくドアを開けてみると、散らかった部屋のなか、自分を逮捕した男ふたり(フランツとウィレム)が半裸の笞刑吏から今にも笞を打たれそうになって哀れに泣き叫び許しを乞うている、という場面のコント感といったらない。なぜ、銀行で。
 珍妙なくせに身につまされるやりとりのあとドアを閉めて逃げ帰り、でも気にはなっているので翌日、24時間後におそるおそるもう一度ドアを開けると、Kのいなかったあいだだけ一時停止されていたみたいに笞打ちと哀願のドタバタが再開される――というくだりは何度読んでも笑ってしまう。
 ドアを開けたKのほうを、ハッと振り返るふたりと笞刑吏の姿が見えるようで、しかもふたりは声を揃えて「ああ、あんた!」と叫ぶ。ここの呼吸は神がかっていると思う。

・完成している章&ほとんど完成している章を、すじの通るよう配列したあとに未完の断章を並べているのは角川文庫と同じだが(というか底本が同じなんだろう)、こちらのほうが断章の量がほんのちょっとだけ多い。
★この新潮文庫・原田義人訳は2013年10月現在では絶版ながら、青空文庫でもって無料で読むことができる(それを用いたKindle版もある)。カフカにはつらい時代。
・新潮文庫では、この原田義人訳のあと、1993年に中野孝次訳というものも出ている(もとの訳は1981?)のがわかったが、そこまでは追っていなくて未読。



■ 岩波文庫(1966) 辻瑆訳(もとの訳は1960?)

審判 (岩波文庫)審判 (岩波文庫)
(1966/05/16)
カフカ

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《「そんな法律は知らないね」とKは言った。
 「知らないだけあんたの損さ」と監視人が言った。
 「そりゃあまたあなたがたの頭にだけある法律でしょうよ」とKは言い、なんとか監視人たちの考えていることのなかにそっとはいりこみ、その考えを自分に有利なようにしむけるか、逆にその考えに同化してみようとしてみた。しかし監視人はただ拒むようにこう言った。
 「そのうち目にものを見せてもらうさ」
 フランツがくちばしを入れて、
 「見ろよヴィレム、奴さんは法律を知らぬと白状しながら、同時に無罪だなんて言いはっているんだ」
 「おまえの言うとおりさ、でもこの男には、なんにもわからせてやることなんかできないよ」ともう一人のほうが言った。
 Kはもう返事をしなかった。》pp13-4

 はじめて読んだ『審判』がこれだったので、今回ほかの訳を読むのでも、思わず知らずこの岩波文庫版を基準にしているような気がする(個人的な事情)。ご覧の通り、これも改行を増やしている。
 訳文は、新潮文庫の原田義人訳に比べても、もう少し生硬。適度にぎこちなく、なんとも変なリズムで進む感じがあって、こういうのがカフカだとわたしは刷り込まれている(個人的な事情・2回め)。

 最初の審理の呼び出しで、Kが指定された住所に行ってみると建っているのは立派な裁判所ならぬ貧民街のアパートで、目当ての部屋を見つけるつもりが本当にあるのか疑わしくなるふざけた探しかたをするくせになぜかちゃんとホールに案内されてしまい、そこにぎゅうぎゅう詰めの男たちはたしかにKを待って集まっており、そんなところで空気を読まずに演説をぶとうとするけれども生活感丸出しの洗濯女に邪魔される――というまったくわけのわからない進みゆき、じつにほれぼれする。そのあたり(第2章)から引用。
《下のほうでは人々が、小声でではあったがさかんに話しあっていた。まえにはひどく対立した意見を持っているように見えた二つの党派が、まじりあってしまい、Kを指さす者がいるかと思えば、予審判事を指さす者もいた。部屋のなかの霧のようなもやがひどくじゃまくさかった。このもやが妨げになって、遠くのほうに立っている者を観察したくても、それがよくできなかった。特に回廊の客たちには、このもやがじゃまになったにちがいなく、情勢をくわしく知ろうと思えば、予審判事に臆病そうな横目をつかいながらでも、集会の参加者に小声で質問しないわけにはいかなかった。》p69、下線は引用者

 これはあくまで屋内の場面である。「もやが妨げになって、遠くのほうに立っている者を観察したくても、それがよくできなかった。」と書くのは簡単だが、そんなことがありえるのか考えると、この記述、現実よりもなんだか漫画やアニメみたいなことになっていないだろうか。もちろん、現実に近くないといけない理由などひとつもなく、書こうと思えばこんなふうにも書けてしまうのが面白いと思う。
 カフカの小説では、人はわりと簡単に視界を妨げられるとわたしは思っており、そう思うようになったきっかけが上の引用部分だった、たしか。ここは本野訳(角川文庫)や原田訳(新潮文庫)だと、
本野訳:
《塵埃が霧のように立ち籠めて全く耐え難く、すこし遠くのほうになると、演壇からは、詳しい様子がわからぬくらいである。》pp54-5

原田訳:
《室内の霧のような塵がひどく耐えがたく、遠くのほうに立っている連中をよくながめることを妨げた。》p64

 こうなっており、“塵やホコリが目に入るから、目を開けていられなくて遠くがよく見えない”という取りかたをすると、現実的なぶんだけつまらなくなってしまう。ここはやっぱり、“もやが人の顔を隠して見えなくしている”と考えたいという、これはわたしの希望である。訳としてどちらのほうが正しいのかはわからない

・巻末に収められた未完の断章・カフカが抹消した部分の量は、新潮文庫よりさらに多い。1行とか2行だけの断片まである。
★1冊だけ選ぶなら、これでいいと思う。新刊書店で買えるし。
・なお、訳者「辻瑆」は「つじ ひかる」と読む。



■ ちくま文庫(1991) 飯吉光夫訳(もとの訳は1977)

審判 (ちくま文庫)審判 (ちくま文庫)
(1991/03)
フランツ カフカ

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《「そんなしきたりは知りませんね」とKは言った。「お気の毒に」と監視人は答えた。Kは、「あんたの頭のなかだけに書かれてあるんじゃないですか」と言いながら、できればこの監視人たちの頭の中についてまわり、それをうまくあやつったり、相手の考えかたに自分からとけこんだりしたいものだ、と思った。ところが背の高いほうの監視人はそんなことにはいっこうにおかまいなく、「いまにわかるさ」と言ったきりだった。フランツが横から口を出して、「なあ、ヴィレム、この御仁は法律のことは何も知らないと言っておきながら、一方で、自分には何の罪もない、と言うんだからな。」「そのとおり。どうしてもわかっていただけないわけだ」ともう片方が言った。Kはなにも返事をしなかった。》pp13-4

 あのカフカ・セレクション』全3巻より前からちくま文庫にカフカが入っていたとは、今回探してみるまで知らなかった。
 これはとても読みやすい。で、読みやすいといっても「平易になっている」「意訳っぽい」というのではないと急いで付け足したい。
 説明しにくいけれども、原文を手に持って、ひねってひねって日本語にし、ページの上に置くという、そのような作業として翻訳を想像したときに、この飯吉光夫の訳はこれまでの訳に比べ、原文を手に持っている時間が長いような印象がある。
 もうまったくの印象でしかないので伝わってないと思うが、この訳だと、建物のつくりや人物の位置関係なんかを描写する部分がほかより格段にわかりやすい。岩波文庫とあわせて読みたい。これがいま絶版なのはもったいないと思う。
 たとえば、裁判所にコネがあるという画家のティトレリを紹介されたKが、その住居を訪ねにいくところ。粗末なアパートの階段を、あたりにいた子供たちにはやし立てられながら上っていく場面をこんなにきっちりした文章でまとめている訳はほかになかった。
《つきあたりがティトレリの部屋のドアだった。このドアはそのななめうえにある小さな明り取りの窓のために、階段のほかのところより明るく照らされていた。ニスの塗ってない板張りで、そのうえには朱の太書きで「ティトレリ」と書かれてあった。子どもたちをあとにしたがえたKがまだ階段の途中までしかさしかからないとき、にぎやかな足音におどろかされたのだろう、上のドアが少しあいて、寝巻き一枚の男が首を出した。大ぜいがあがってくるのを見て「うわっ」と言い、またドアの背後にかくれた。せむしの女の子は手をたたいて喜び、ほかの女の子たちもKをせきたてて、はやくのぼらせようとした。》pp173-4

 なお、無謀にも巻頭に「主要人物」表がついている。選んで引用する。
二人の男  突然闖入して来る。
  最初は裁判所のある建物で洗濯をしている。
学生  最初は裁判所内で女といちゃついている。
僧教誨師  「掟」の話をする。
二人の紳士  処刑に訪れる。》

 要るか、これ? 面白い。

 ここまでの角川文庫・新潮文庫・岩波文庫では、翻訳のもとになる底本はカフカの友人マックス・ブロートの編集になる“ブロート版”で、この飯吉光夫訳もそっちを使っていたはずだが、おそらくちくま文庫に入れるにあたり、ブロートの死後、研究者たちが生原稿を校訂して1990年に出した“手稿版”(または“批判版”)も参考にしたらしいことが巻末「解説」に書いてある。
 何にうなるかといえば、カフカの生原稿(章ごとに別になっている何冊ものノート)を仔細に検討したすえに、最初の章(Kが逮捕される)と最後の章(Kが処刑される)は同時期に続けて書かれているのを発見したという研究者たちの執念である。カフカは最初と最後を決めてから間を埋めるようにしてこの小説を完成させようとし、ついに未完のまま放棄した――と聞いたら、ミーハーなカフカ読者(わたしのことです)は「万里の長城システムか!」と叫ばざるをえません。

・そんな執念の“手稿版”(または“批判版”)は、“ブロート版”とは章の組み立てがちょっとだけちがう、ということまでこの翻訳は「解説」で紹介してくれているが、その変更は本編に反映させていない。やっぱり、むかしの訳に「解説」だけ足して文庫にしたのかな。
・そして、ほかの5つの訳すべてに付いている“未完の断章”群が、このちくま文庫版にはひとつも収録されていないのが惜しまれる。この人の訳で「支店長代理との戦い」が読んでみたかったよ。

「支店長代理との戦い」は、銀行でKと出世争いをしている支店長代理に向かってKが自説を主張するが、支店長代理は話を聞きながらKの机についている装飾をずっといじり続けており、Kはむきになって主張を続行、支店長代理もますます指に力を込めて装飾をいじるさまが細かく描写される――という、手に汗にぎる断片である。



■ 白水社(2001) 池内紀訳

審判 (カフカ小説全集)審判 (カフカ小説全集)
(2001/01)
フランツ カフカ

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《「そんな法律は初耳だ」
 と、Kが言った。
「なおさら悪い」
 と、監視人が言った。
「頭でこじつけた法律だろう」
 と、Kが言った。なんとかして監視人の考えに入りこみ、いいように仕向けるか、あるいは手がかりをつかみたかった。しかし、監視人は突き放すように言った。
「そのうち、わかる」
 フランツが割りこんできた。
「おい、ヴィレム、こいつときたら法律を知らないって認めてるくせに、それでいて無罪だって言い張っていやがる」
「そのとおり、わからせるのは厄介だ」
 と、もう一人が言った。Kは口をつぐんだ。》pp13-4

 読みやすさでいえばベストだろう。すらすら進み、とても読みやすい。で、それがどこまでカフカに忠実なのか、どこからが“意訳”とされるのかが、原文の読めない身には判断つかない。
 上に引用した部分でも、ほかの訳では「その考えに同化してみようとしてみた。」(辻訳)とか、「相手の考えかたに自分からとけこんだりしたいものだ、と思った。」(飯吉訳)となっているところが、この池内訳だと「手がかりをつかみたかった。」となっているように、おそらくはまわりくどいはずの文章が「えいやっ」とばかりに簡潔になっていたりするから、いいのかそれで、と思わなくもない。

・ちくま文庫のほうの感想にちょっと書いた、“ブロート版”ではない“手稿版”(または“批判版”)からの翻訳。なので、章の組み立てがこれまでのものとちがうが、がらっと変わるわけではない。
(Kの隣室に住むビュルストナー嬢の女ともだち、モンターク嬢の登場する章が本編ではなく“未完の章”のほうに移されているなど、小さなちがい)
・巻末解説で「万里の長城システム」に触れられていた。前に読んでいたはずなのにすっかり忘れていた。
★この訳は白水uブックスにも入っているが、まさかの在庫僅少。
・本野亨一訳(角川文庫)とはまた別の、簡明という意味で名調子。訳者による語り直しみたいな味があるので、2冊めに読むならこれも面白いと思う。
・ほかの訳には存在しない一文が足されていたりするのは、正直なところ、見つけるとうれしい



■ 光文社古典新訳文庫(2009) 丘沢静也訳

訴訟 (光文社古典新訳文庫)訴訟 (光文社古典新訳文庫)
(2009/10/08)
フランツ カフカ

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《「そんな法なんて、知るもんか」と、Kは言った。「だったらなおさら、まずいじゃないか」と、監視人が言った。「そんなの、君たちの頭のなかにしか存在しない法だろ」と、Kは言った。なんとかして監視人の考えのなかに忍びこみ、その考えを自分に有利な方向に転換させようと思った。あるいは、自分をその考えのなかに住まわせようと思った。だが監視人は、拒絶するようにこう言っただけだった。「そのうち肌で感じるようになる」。フランツが割り込んできた。「おい、ヴィレム、こいつはさ、法なんて知らない、って言っておきながら、自分は無罪だと主張してるぜ」。「まったくな。こいつには、なんにもわからせることができないぞ」と、ヴィレムが言った。Kは答えるのをやめた。》pp17-8

 いまのところ最新で、タイトルもついに『審判』から『訴訟』に変更。
 訳者の「解説」と「あとがき」が面白い。底本として使ったのは、“ブロート版”の次の“手稿版”(または“批判版”)よりも、さらにあたらしい“史的批判版”というものらしい。専門家はたいへんだ。
 もっとも、“手稿版”(または“批判版”)と比べた“史的批判版”の特徴はカフカの元原稿も写真のまま収める・章ごとの分冊にして、順番はつけず箱に入れて刊行ということだそうで、そんなの、1冊の文庫本には反映させようがないのだった。テクストの進化は、カフカのノートへと戻っていく流れ。専門家は本当にたいへんだ。

 それで翻訳なのだが、とても平易なのでおどろく。
 訳者は「あとがき」で“意訳”を厳にいましめ、白水社・池内紀訳の一部分を引用までして「こういうのではない、犬のように忠実な翻訳を自分はめざしたよ」といった旨のことを述べておられる。
 とすると、訳者は「あえて平易な言葉にする」よう試みたのではなく、ひたすら原文に忠実に訳した成果としてこの翻訳を提出したことになるはずだが、おそれ多くも「これでいいんでしょうか」と言いたくなるところがいろいろある。
 というのは、言葉が平易なだけでなく、文章構造じたいがほかより平易になっている箇所があちこちにあるからで、「カフカは原文では陰鬱でも重苦しくもなく、もっと平易だ」とはよく聞く話だけれども、それはこのような平易さなのかなあと、かえって考えさせられる。
 とくに登場人物の会話(発言)が、だれもかれもみんな舌足らずで、それをもって「いま、息をしている言葉」になったと考えておられるのだとしたら、そういうことではないんじゃないでしょうか、と小声で申し上げたい。
 ほかの訳と並べるとちがいが際立つのでやってみよう。冒頭、Kが自分の部屋でふたりの男に逮捕・軟禁されているところに「監督がやって来たぞ」と声をかけられ、飛び出した直後。
本野訳:
《「気でも違ったのか?」と呶鳴りつけ、「下着のままで出るつもりか? 君も、ついでにわれわれも、叩きのめされてしまうぞ。」「いちいちうるさく云わないでくれ給え!」と云っているうちに衣裳棚のところまで押し戻されていたが、「寝込みを襲われては、礼装しているわけにもゆかない。」「言いわけは後で聞こう。」と二人は云い、[…]p14

丘沢訳
《「なにを考えてるんだ?」と、ふたりは叫んだ。「シャツのまま監督に会うつもりか? 鞭で打たれるぞ。われわれも巻き添えだ!」。「いいじゃないか、くそっ」と、Kは叫んだ。もう洋服ダンスのところにまで押し戻されていた。「寝ているところを襲われたんだから、ドレスアップなんかしているわけないだろう」。「つべこべ言うな」と、ふたりの監視員が言った。》pp21-2

 これくらいならたいしてちがいは見えないかもしれないが、「ドレスアップ」のようなカタカナを多用するのもこの訳の特徴。
 その日の夜、Kが隣室の女性(ビュルストナー嬢)の帰りを待って、ちょっと話ができませんかと声をかけるところ。
原田訳:
《「今ですの?」と、ビュルストナー嬢はたずねた。「今じゃなくちゃいけませんの? 少し変じゃありません?」
「九時からお待ちしていたんです」
「でも、私は芝居に行っていましたの。あなたがお待ちだなんて少しも存じませんでしたわ」
「お話ししようということの動機になっているのは、今日初めて起ったことなんです」
「それじゃ、倒れるほど疲れてはいますけれど、それ以外にはどうしてもお断わりする理由もありませんから、ほんの少しだけ私の部屋に来ていただきましょう。こんなところでは絶対にお話もできませんし、みなさんをお起ししてしまうでしょう。そうなったらほかの人たちのためというより、私たちのため不愉快なことになりますわ。私の部屋の明りをつけますから、それまでここでお待ちになってちょうだい。それからここの明りを消してくださいね」》pp36-7

丘沢訳
《「いまじゃなきゃ駄目? ちょっと変じゃないかしら?」。「9時からずっと待ってたんですよ」。「あら、あたし、芝居を見てたのよ。待たれてるなんて知らなかったし」。「お話ししたいのは、きょう起きたことなんです」。「そう、だったら、まあ、いいわ。でもね、あたし、疲れていて倒れちゃいそう。じゃ、2、3分、部屋にどうぞ。ここじゃ話もできないわ。みんなを起こしちゃうし、そんなことになると、あたしたちのほうが不愉快な思いをするでしょ。待ってて、部屋の明かり、つけるから。ここの明かり、消してちょうだい」。》pp44-5

 後者のほうがいい、というなら丘沢訳はベストになるだろう。口調の変更でビュルストナー嬢の性格も変わっている。口調はともかく、性格はどっちのほうが正しいのか気になって仕方がない。
 次は最後のほう、Kがうすら寒い雨の日にイタリア人と大聖堂(伽藍)で待ち合わせをするがすっぽかされ、なぜか教誨師から声をかけられるところ。
本野訳:
《この伽藍は、人間の耐え得る最大限の大きさであると思った。もとの場所に来ると、置いてあったアルバムに飛びつき、立ち止る間ももどかしそうに、摑み取り、歩き出す。もう礼拝席の区域もほとんど通りすぎてしまい、礼拝席と出口の間を占める空いた場所に近づいたとき、突如、僧侶の声を聞いた。力強い、鍛えられた声、この声を響かせるために建てた伽藍の隅々までそれは充満し、しかもそれが呼びかける対象は一般礼拝者ではない。疑う余地もなくただひとりの相手に、もはやKの退路は完全に絶たれ、「ヨーゼフ・K!」》p243

辻訳:
《それに聖堂の大きさも、人間にとって耐えうるもののちょうど限界にあるように思えた。まえにいた場所までくると、それ以上はもうそこにとどまらず、置いておいたアルバムを、まるでひったくるようにつかみ取った。もうほとんどベンチのあるところを離れて、ベンチと出口とのあいだの空いた場所にさしかかったが、そこではじめて僧の声がひびいてきた。修練をつんだ力強い声だった。その声を待ちかまえていた聖堂に、凜としてひびきわたる声だった! ただしかし、僧が呼びかけたのは教会員に対してではなかった。まぎれもなかった。どんな逃げ道もなかった。彼は、
 「ヨーゼフ・K!」と叫んだのだ。》p310

丘沢訳
《大聖堂の大きさも、人間が耐えられる限界ぎりぎりのように思えた。もとの席に着くとすぐ、そこに置いてあったアルバムをさっとつかみ、脇にかかえた。ベンチが並んでいる場所を後にして、ベンチと出口のあいだのスペースに近づこうとした瞬間、はじめて聖職者の声を聞いた。トレーニングされた力強い声だ。その声を受けいれる用意のある大聖堂に、なんとよく通る声だろう! 聖職者が呼びかけたのは、信者ではなかった。誰の耳にも明らかだった。逃れようがなかった。聖職者はこう呼んだのだ。「ヨーゼフ・K!」》pp313-4

 この場にはKと僧(聖職者)のふたりしかいないのが重要なのだから、「誰の耳にも明らかだった。」みたいな言葉遣いは避けたほうがよろしいのじゃないかと思うものの、「原文がそうなっている」と言われたら謝るしかない。

・テクストの変遷に興味のある人に「解説」と「あとがき」がおすすめ。
・これと同じように新刊書店で買える、岩波文庫あるいは角川文庫とあわせて読むのを推奨。



■ まとめ

・本野亨一訳(角川文庫):
 格好いい名調子。文字数までは数えてないが、ページ数は有意に少ない。

・原田義人訳(新潮文庫):
 オーソドックス。紙でなければただで読める。

・辻瑆訳(岩波文庫):
 イチ押し。

・飯吉光夫訳(ちくま文庫):
 未完の断章も足して復刊してくれたらこれも推したい。

・池内紀訳(白水社):
 すがすがしい名調子。のびのびしてる(が、在庫は僅少)。

・丘沢静也訳(光文社古典新訳文庫):
 疑心暗鬼を生むほどの平明さ。口調は10年後にどう映るか興味がある。


 以上、好き勝手に読んで、好き勝手に書いてきた。あとは何よりドイツ語でも読んでいて、翻訳に一家言ある人の意見(審判)も聞いてみたい。

 もう1ヶ所だけメモしておきたいところがあるので、次はそれについて書く。

…続き



2013/10/02 追記:
 最初にちょっと触れた2ちゃんのカフカスレ(フランツ・カフカ Franz Kafka 9)をずーっと見ていったら、それこそ、『審判』の翻訳8種(!)とドイツ語原文、英訳まで比較対照して検討しているかたがいらした。すごいすごい。
 おかげでわたしは、岩波文庫の辻瑆訳だと、大聖堂の章で訳文に2ヶ所の欠落があるのをはじめて知った(それぞれ2行ずつ、文が飛んでいる)。
 その抜けている箇所は、ほかの訳で読んでたしかに記憶に残っているところだった。辻訳のことを思い出すときは、ほかの訳の印象からそこを補って思い出していたらしい。
 わたしの目が節穴なのはもちろん、この文章の最初に書いた「何冊も読んでると、勝手に補完したり削ったりしながら読むようになる」とか「繰り返し読むとかえって鈍くなる」だとかいう事態を、こんなにもはっきり実演していたと確認までできた経験は稀有だと思う。
 節穴と記憶が手に手を取ってページをめくっていく読書。

 ところで、そのすごいかたの意見だと、「一番マシ」なのは中野孝次訳のほうの新潮文庫、とのことだった。それは持ってない!