2013/04/28

蓮實重彦「「かのように」のフィクション概念に関する批判的な考察――『ボヴァリー夫人』を例として――」(2013)

ボヴァリー夫人 (河出文庫)


フローベールの『ボヴァリー夫人』――フィクションのテクスト的現実について」に続く、蓮實重彦の『ボヴァリー夫人』論・講演編第二弾(ほかにもあったら教えていただけるとうれしいです)。今度は2012年12月15日に立教大学で行われたものだそうで、「文學界」の2013年4月号に掲載されています。

 小説『ボヴァリー夫人』(1856)の主な舞台になるのはヨンヴィル=ラベイという架空の村だが、描かれる出来事が起きたのは西暦何年から何年のあいだなのか、作中にはっきり書かれてはいない。しかし、ある駆け落ちの計画が失敗に終わるところで1ヶ所だけ「九月四日の月曜日」という日付プラス曜日の記述があって、これを現実のカレンダーやもろもろの歴史的事実と照らし合わせれば、それは「一八四三年」のことだとほぼ特定することができるらしい。しかし、
《テクストに書きつけられている「九月四日の月曜日」という表記は、作品の語りの論理からして、それを「一八四三年」と確定することを許すものでしょうか。その「編年史」的な再構築は、この長編小説の「テクスト的な現実」にふさわしいものなのでしょうか。》p214

 こんな指摘から蓮實重彦は語りはじめる。というのは、現実の1843年ならすでに開通していたはずの鉄道について、主人公とその不倫相手をはじめとするこの村の人たちみんながみんな、そんなものはまったく存在していないかのように行動しているという不自然があるからだ。そのくせ別の地域についてなら、ごく自然に鉄道の駅のことが言及される部分もあるのだから、この小説において鉄道は《あるようでなく、ないようである》。
《『ボヴァリー夫人』は、鉄道の現存と不在とを同時に肯定しているといえるのかもしれません。この点にかんして、フローベールは意図的に曖昧さを維持しています。》pp217-8

《こうしてみると、「九月四日の月曜日」という表記が、『ボヴァリー夫人』においてはある種の罠として機能していることが明らかになります。読むものを、その日付に対して厳密に振る舞えと誘うことなく、むしろ意義深い不明確さの中に置きざりにしているからです。ヨンヴィル=ラベイと呼ばれる時空にあっては、その住人たちの誰もが、あたかも鉄道の開通式など行われなかったかのように振る舞っており、物語もそれにふさわしく語られている。この「かのように」こそ、この長編小説がまとっている曖昧な現実性を開示するものなのです。》p220

 と、こうやって明快かつ思わせぶりに「かのように」というワードを示してから蓮實重彦は、いったん別の「かのように」へと話を変える。それは、多くのフィクション論での「フィクション」の扱い方に対する不満である。
 語源からいって「フィクション」には「装われたもの」と「虚構のもの」というふたつの意味があるが、フィクション論の中には、フィクションというものを「現実を装ったもの」だとか、さらには「ごっこ遊び」として捉えているものが多くある。こういった考え方はフィクションを、まるで現実であるかのように見えることをめざした現実じゃないもの、現実を真似した非現実、としてしか受け取っていない。
 そういった、現実に依存した「かのように」の構造でフィクションを考えている理論家を蓮實重彦はことごとく斥けて、フィクションが持っている(「装われたもの」ではない)「虚構のもの」としての「テクスト的な現実」を主張する。だからここでは、「かのように」は排撃されるものである。
《私は、ハンブルガーとともに、小説的なフィクションにおいては、言語によって作りだされる見せかけの生、あるいは現実の幻想は、それ自体が一つの現実にほかならないと認めるものです。それこそ、私がここでフィクションの「テクスト的な現実」と呼ぶものにほかなりません。》pp222-3

《ハンドルを握って運転するふりを装うとき、子供には、大人になったらできるだろうが、いまの自分には禁じられている自動車の運転という魅力的な行為をまねしているにすぎません。ところが、フィクションを書く作家は、それが自分には禁じられていながら、あるとき許されるかもしれない真の発話内行為を模倣しているのではないはずです。》p224

《それが現実の事態を語っているのか虚構の事態を語っているのかをテクストは明らかにしていないのですから、それを読むことを、「ごっこ遊び」に比較することはできません。あらゆるテクストは、それが現実の事態を語っているのか虚構の事態を語っているのかにはかかわりなく、一つの言語的な現実を構成するものだからです。そして、「『まるで……であるかのような』王国」は、この現実のとりうる無数の相貌の一つであるにすぎません。》p227

 ついでに言うと蓮實重彦は、小説の登場人物に感情移入したり共感したりしながら読むたぐいの読み方もきびしくdisっている。こんな人ならそりゃdisるだろうと当然のように思われるわけだが、その物言いが非常にいかしている。
《かりにそれが遊戯としてであるにせよ、作中人物に対するこの種の心理的な共謀関係――歓喜、悲嘆、憎悪、等々――がフィクションを著しく貧困化するものであることはいうまでもありません。それは、現実の振る舞いの模倣でしかないからです。》p228
太字は引用者

 わたしなんかはわりと簡単に登場人物と一緒になって喜んだり嫌な気持になったりする読者なので、ここでキツく叱られているようで肩身が狭いのだけれども(というかマゾヒスティックにうれしいのだけれども)、注目すべきは太字にしたところ、小説というフィクションは現実とは切れたところに虚構として成立しているのだから、それを読む行為も現実のふるまいとは別であるはずだという、過激な一貫性だと思う(自分で実行することを考えたらたいへん難しいにちがいないのに、こう書いてくると「ごもっとも」に見えてしまうのが何より過激)。

 こうやって、フィクションは現実を模倣した「かのように」ではない虚構なのだよ、とえんえん述べてきたあとで、その実例である『ボヴァリー夫人』に蓮實重彦はもういちど立ち戻り、それが鉄道について、同時にある/ないの両方であるかのように不確かな扱い方をしていたことに注意を促し、ふたたび作中でなされている特異な「かのように」的ふるまいを指摘してみせる。それは小説最大の事件・エンマの服毒死をめぐる周囲の反応である。

 まず「エンマは自殺した」という要約は、はたして正確なのだろうか。主人公に対し「エンマ・ボヴァリー」という表記が1回も使われていなかったように、
《テクストの水準にかぎってみれば、そこには「自殺」という語彙はまったく使われていません。また、物語の水準においても、エンマの最期は、宗教的にも、また社会的にも、意志的な自死とは見なされておりません。ヨンヴィル=ラベイと呼ばれるノルマンディー地方の農村共同体においては、それはあくまで事故死として処理されており、それをくつがえすものはなにひとつとして書きこまれておりません。》
p229

 エンマはたしかに薬屋に侵入し、みずから砒素を飲んで死んだ。しかし、自殺を神への罪として禁じているはずのカトリックの聖職者は彼女に臨終の秘蹟を授けに駆けつけてくるし、当の薬屋の主人は自分の落度がばれないよう後処理に汲々として、地方新聞を通じ、その死が不幸な事故だったことを大々的に発信しさえする。
 この小説の副題は「地方風俗」というのだった。エンマのまわりの地方風俗を構成する人間たちは、だれもが彼女は自殺なんかしなかったかのように行動している。《エンマの最期が間違いなく自殺でありながら、にもかかわらず、それが事故死と見なされている》のが、《この長編小説の基本的な不確かな現実》である(pp229-30)。つまるところ、エンマが死んでもヨンヴィル=ラベイという村には何も起こらない。
《『ボヴァリー夫人』という長編小説にこめられた意味は、そのヒロインの醜聞めいた自死が、「ボヴァリー事件」とはならなかったということのうちに読みとられねばならないものなのです。》p231

《「九月四日の月曜日」という表記が、意義深い不明確さの中に読むものを置きざりにしたように、エンマの自殺もまた、現実に起こったことであると同時に、現実には起こらなかったことであるかのように、ごく曖昧に語られています。社会的にも、宗教的にも、それは事故死と見なされているからです。『ボヴァリー夫人』とは、そのヒロインの「意志的ではない自殺」という矛盾しきった物語にふさわしい作品にほかならず、そのとらえにくさはまぎれもなく現実のものなのです。》pp231-2

 小説は言葉で現実を写し取り、まるでその現実であるかのように作られるものだという、不十分なフィクション理解をよしとする論者の杜撰な「かのように」と、一編の小説の中で鉄道を存在するのと同時に不在であるかのように扱ったり、自殺を自殺でないかのようにふるまう人びとを描き出す、作家の繊細な「かのように」。
 こう書いてみると二種の「かのように」はぜんぜん別の種類の事柄であるはずなのに、前者の「かのように」を否定したところに成り立つ虚構を認め、その虚構の中で行われている後者の「かのように」的ふるまいに気付いてみせるこの講演のストーリーラインをたどっていくと、両者はたしかにつながっている――つながっているかのように見えてくる。
 丁寧な眼に支えられた豪腕、という趣があってとても面白かった。

 それにしても、何がこの人に、こういった読みと語りの曲芸めいた実演をさせるのか。はばかりながら忖度してみるに、周囲に対して「もっと丁寧に読め」と言い続けたいのだと思う。「これぐらい丁寧に読もうとしない読者は、もっとはるかに簡明な、小説にはっきり書いてあることまで読み落としてしまうよ」という警鐘と、「小説は小説として丁寧に読めば丁寧に読むほど、面白く読めるのだよ」という啓蒙。警鐘と啓蒙は、挑発でもある。
 メモの終わりにひとつ、無理な飛躍をするならば、不倫の末の自死というエンマの醜聞をなかったかのように押し隠してしまうこの小説の「地方風俗」を、蓮實重彦ほど丁寧には小説を読めず、結果として細やかなディテールをなかったかのように押し隠してしまう「わたしのような読者の読み方」に重ねてみると、蓮實重彦はエンマなのかもしれない

 最後にひどく間違ったことを書いた気がする。ぜひ図書館で全文を読まれることをおすすめします。


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2013/04/26

蓮實重彦「フローベールの『ボヴァリー夫人』――フィクションのテクスト的現実について」(2012)

ボヴァリー夫人 (河出文庫)

 フローベールの『ボヴァリー夫人(1856)について、蓮實重彦の行った講演がとても面白かったのでメモしておきたい。もともとは「日本フランス語フランス文学会」の五〇周年を記念する大会で、「特別講演」として東大の安田講堂で披露されたもの(2012年6月2日)。掲載は「群像」の2012年9月号、図書館でコピーしてきて読みました。

 大まかにいってこの講演は、フィクションの「テクスト的現実」をないがしろにして小説を――『ボヴァリー夫人』を――読むやり方を批判して、するとどういうわけか、名だたるフィクションの理論家は多くが批判の対象になってしまうようだから、何が・どうしていけないのかを「虚構」「物語」などいくつかの観点から検証する。それから「テクスト的現実」に従った、かつ作品を豊かにする読解とはどんなものなのか、その一例を自分で実演してあげましょう、という構成になっている(もちろん、本当はもっといろいろ書いてある)。
 たとえば、『ボヴァリー夫人』の全篇を通し、主人公の名前が「エンマ・ボヴァリー」とフルネームで表記されるところは1ヶ所もない(!)というのが紛れもない「テクスト的現実」なのであって、にもかかわらず無造作に「主人公のエンマ・ボヴァリーは…」と書いてしまう論者はいったい小説を小説としてちゃんと読んでいるのだろうか、みたいなスタンスをこの人はとる(もちろん、本当はもっといろいろ書いてある)。
 そうなると、作品を「大まかに」「まとめる」ものはたいていテクスト的現実に背く危険をおかしていることになるのは想像にかたくなく、そのような要約を軒並み批判してまわる蓮實重彦の講演をこうやって要約するのが正しいふるまいなのかといえば「とてもそうとは思えない」わけだけれども、ええと、ここからの実演についてはこちらにもっと的確なまとめがあるよ。

2012-09-12 Wed 蓮實重彦「フローベールの『ボヴァリー夫人』――フィクションのテクスト的現実について」 (「やしお」
 http://d.hatena.ne.jp/Yashio/20120912/1347461470

 たしかに、いちどこれを読んでしまうと『ボヴァリー夫人』は「もはやそうとしか読めなくなってしまう。」
《こうしてみると、悲劇と呼ぶほかはない『ボヴァリー夫人』の物語が、作中人物の「性格」の違いによる心理的な「悲劇」として語られていないことは明らかでしょう。これを、「性格悲劇」を題材とした「心理小説」ととることは、「見せかけの自明性」に安住することでしかありません。それは、何よりもまず、まるで兄妹のように似ている男女が、その類似のはてに生じる齟齬を生きるしかないという悲劇なのです。テクストという「見せかけの自明性」は、「性格悲劇」を思わせる装いを超えて、しかるべき「読み方」に応じて否定しがたい「自明性」を露呈させるものなのです。それが、これまで述べてきた「テクスト的現実」にほかなりません。》pp184-5

 この面白さと説得力はいったい何なんだろう。
 これは『「赤」の誘惑――フィクション論序説(2007)を読んだときにも感じたことだけど、そして今ではおぼえているのはこのことひとつだけだけど、蓮實重彦は内外のさまざまなフィクション論を参照して理論的な言説を組み立てていくのだけれども、根っこにあるのは(いや、表層にあるのは、というべきでしょうか)「小説は言葉でできている」、それなのに「書いてあることをちゃんと読まない人間が多すぎる」という単純な事実の確認と嘆きであって(だって、高名なフィクション論者であっても、自分の扱うストーリーの要約を間違うのである)、その歎きの深さゆえにこの人じしんは逆の極端をきわめるところまで行ってしまう。
 単純なことを徹底するためにこういったぜんぶを書いている、というストレートな衝動がつねに文章のはしばしに(表層に!)見えているので、そしてその成果がスーパープレイになってあらわれるので、ついていくのが簡単ではないこういった小説論をわたしは読んでいるのだと思う。
 ――と、これはまあ、この人の書くものをわたしがそれくらいの水準でしか読めていないということでもあるけれども。
(そして、低い水準でしか読めない人間のほうが真に受けがちというのもよくある話だけれども)

 で、それはともかく、もうひとつどうしてもメモしておきたいことがある。
「群像」掲載にあたり5つの章番号を付けて構成されているこの講演には、本論の前後に「始めるにあたって」、そして「終えるにあたって」という部分があり、このどちらもがたいへん面白い。これがほかの本に収録されるかわからないので、要約でもまとめでもなく蓮實重彦の書いた文章そのものを、思い切り引用してしまいたい。文章の芸というのはこういうものだと思う。
《始めるにあたって

「現実」でもあれば「虚構」でもあるというオクシモロンめいた副題で予告されているこの講演では、いったい何が語られようとしているのでありましょうか。この副題が選ばれたのは、これという勝算があってのことなのでしょうか。それとも、それは近く刊行される予定の講演者自身の書物の題名でしかないのでしょうか。ことによると、講演者たる私は、その書物の内容を芸もなく要約して与えられた時間をみたすというはしたない振る舞いを、後期高齢者だけに許された特権としてあられもなく行使しようとしているのかもしれません。とはいえ、ことのほか昵懇の仲だったともいえない「日本フランス語フランス文学会」に対して、とりわけその創立五〇周年を祝うにあたって、そうした非礼だけは働くまいというそれなりの学術的な社交性は、この私にもそなわっております。いずれにせよ、私自身の書物の題名はこの講演のそれとは異なり、『「ボヴァリー夫人」論』という何の変哲もないものであり、四百字詰め原稿用紙に換算してほぼ千八百枚ほどの原稿はすでに数ヵ月前に編集者の手に渡っております。再読されたのち、さらにいくらかの加筆修正がほどこされてから印刷所に送られるのはおそらくこの晩秋、刊行は早くて来年の晩春、遅ければ麦秋のころかと思っております。
 本来であれば、この『「ボヴァリー夫人」論』は、いまから十年ほど前に脱稿されていたはずのものであります。ところが、講演者自身の老後の生活設計の無残な計算ミスによって、あるいは、その意志を遥かに超えた過酷な宿命に弄ばれてというべきか、一九九三年から二〇〇一年までの約八年間、私はどことも知れぬ不気味な無法地帯に拉致され、幽閉されておりました。できれば記憶からは遠ざけたいその幽閉空間が、こうして聴衆の皆様を前にしてみますと、どうもこの場所ともまったく無縁ではなさそうに見えてまいります。その視覚的な類似の不穏さに講演者自身ははたしてたえられるのか、心もとないかぎりであります。その八年間は、フローベールと向かいあうことはおろか、行政文書以外の文字を書くこともままならぬ日々ではあったのですが、とうてい取りかえしはつくまいと思われたその大幅な遅れが、かえって有利に働いたという側面もないではありません。これまでいくつもの雑誌に連載されたり、あるいは大学の紀要への定期的な掲載などとして部分的に発表していた『「ボヴァリー夫人」論』を、そこでの記述を間接的には反映しつつも、まったく新たな構想のもとに、最初の一行から最後の一行まで、改めてその全文を書き下ろすという息の長い執筆形態へと向かわせてくれたからであります。[…]p162

 この御老人、明らかに笑いをとろうとしている。であればじつは本論にも、そしてここで予告された『「ボヴァリー夫人」論』にも、そのねらいは薄く濃くただよっているのではないかとの疑いまで浮かんでくる。この2013年中に『「ボヴァリー夫人」論』が本当に読めるのか、楽しみでならない。
 そして「終えるにあたって」だが、この特別講演は、コレージュ・ド・フランスからゲストとして来てもらったアントワーヌ・コンパニョンという教授の話に続いて行われたものだったそうで(そちらも併せて掲載されている)、蓮實重彦は時代を半世紀ほどさかのぼる若いころの留学中に、そのコレージュ・ド・フランスで「極めて深い印象」を受けた、ジャン・ポミエなる教授の思い出を語っている。
[…] 軽快でありながらも荘重さをたたえたポミエ教授の孤独な人影は、私の目に、老齢の研究者の理想像のように映りました。明瞭でありながらも平明さからは思いきり遠いみごとに推敲された言葉は、その内容をすっかり忘れてしまったいまも、「権威」とは異なるあるなめらかな精緻さとともに、知性のおさまるべき場をたえず指し示していたように思われます。》p185

《私が深く印象づけられたのは、ポミエ教授が、「では、投影を始めて下さい」などとは口にされず、いつでも中指でこんこんと講壇の表面をたたかれ、その響きに応じて、助手がスライドを投影するという手はずになっていたことです。言葉を欠いていながらもなだらかに推移していたそのコミュニケーションが、奇妙な爽快さで記憶にやきついております。
 私は、ポミエ教授のような魅力的な老教授像におさまることには、みごとに失敗してしまいました。しかし、そんな私にも、ポミエ教授を模倣しうることがひとつあります。それは、視覚的な資料の投影をうながす教授が、講壇の表面を中指でこんこんとたたかれるその無言の仕草であります。コンパニョン教授の先任者の五十年近く前の講義を知っている数少ない証人の一人として、私もまた、ここでこんこんと講壇をたたき、その言葉を欠いた響きをもって、コレージュ・ド・フランスへのつきることのないオマージュとさせていただきます。》
p186

 講演録はここで終わり、あとには参考書誌のリストが続く。『ボヴァリー夫人』をめぐるこの講演録もまた言葉による(言葉だけによる)構築物であるから、ここに書かれてあった内容を踏まえながらこれを読むとき、「ポミエ教授」という言葉のうしろにポミエ教授その人を、「私」という文字の向こうに蓮實重彦本人を想定してしまうのは、「ここまで何を読んできたのか」とあきれられそうな、素朴にすぎる受け取り方なのかもしれない。
 しかし、いまの最後の挨拶を読んで、2012年6月2日のその時間、じっさいに安田講堂を埋めていた人びとの全員が(そう、きっと全員が)思わず、蓮實重彦の指が講壇をたたく小さな音――こんこん――を、耳をすまして待ってしまったであろう数秒間を想像するのを自分に禁じたままでページを閉じることはむずかしく(まず無理)、この講演の言葉によって、わたしの思い描くそのフィクションの安田講堂が、現実とも、この講演のテクスト的現実(!)とも離れたところに否応なく存在を始めているのじゃないか、という気持をおさえることもできないのだった。

 最後にひどく間違ったことを書いた気がする。ぜひ図書館で全文を読まれることをおすすめします。
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2013/04/21

島尾敏雄『「死の棘」日記』(2005)

「死の棘」日記 (新潮文庫)
新潮文庫(2008)

昭和二十九年九月三十日

この晩より蚊帳つらぬ。

十月一日


十月二日

p13

 島尾敏雄が遺した日記のうち、昭和29年の秋から翌30年の大晦日までのぶん。昭和61年に本人が没した20年近くあと、妻のミホによる整理と校訂を経て、数回に分けて発表されたのを1冊にまとめた本らしい。整理というのが具体的にどういう作業だったのかわからないが、何しろタイトルが『「死の棘」日記』だから、小説『死の棘』の背景なり直接的な素材なりとして読み比べられることを第一義にしてあるのはまちがいないだろう。
 前回『死の棘』を読んだとき、夫婦はともかく子供たちがあまりに不憫で、「でもそれは小説だったからであって、日記を読めば“ああ、モデルとはいえ、あれはやっぱり小説だからあんな書かれようだったんだなあ”との感想が得られるのではないか。そんな感想をぜひ持ちたい。お願いだからどうか持たせてくれないだろうか」との一心でこれを読むことにしたのだが、結論からいってその感想は得られなかった
 わたしが甘かった。むしろ「毒食わば皿まで」の気持で読んだ。読書にそんな言葉が当てはまるとは思わなかった。
(以下、『「死の棘」日記』は『日記』と略記)

 事実を記録した『日記』が材料だとしたら、小説『死の棘』は作品ということになる。とはいえ、ここにある『日記』は本当に材料になった日記そのものではないのかもしれないし、だから本当はこの『日記』じたいをひとつの作品として読むべきなんだろうし、と、いろいろ身構えて読むのだが、それでも「へえ」と思ってしまうのは、たとえば『日記』には何度か島尾敏雄じしんの父親が登場するのに『死の棘』のほうには出てこない(たしか出てこなかったと思う)とか、そういった取捨選択の手つきが、探さなくてもはっきり見えてしまうからである。わたしはどちらも1回ずつしか読んでいないが、もっと綿密に照合した人もきっといるだろうから、その結果をちょっと知りたい気持にもなる。

 材料と作品という、単純なだけに便利でもある仮の区分にしたがってもう少し考えると、なんとなく、小説より日記のほうが事実に近いだろう、という先入観を読む前は持っていたような気がする。めくっていくと、たしかに『日記』は事実の集積で、妻の発作および島尾敏雄の誘爆と直接は関係のない、見た映画のタイトルもメモされていたりする。
(家にテレビのない時代なのでこの人はひとりでも家族でもよく映画を見にいくのだが、作品名だけでなく監督・主演まで記録されている珍しい例が成瀬巳喜男・高峰秀子の「浮雲であることからは何か意味をくみ取るべきなのだろうか――昭和30年2月17日)

 しかし、実際あった出来事は短く記されていても、そのときどきの心情の移ろいまでが細かく丁寧にたどられているわけではないから、極端にいえば、『日記』は起こった出来事のメモ書きにとどまっている。そこにはたしかに事実が羅列されているが、事実の羅列はあんまり現実っぽく見えない
 そうなると、目を背けたくなるような修羅場の連続と、そのときどきの自分の思いや心持ちをあとから綿密かつ妙にスラスラ読める文章で書き継ぎ、20年越しでページの上に現実の生々しさを再現してみせた小説家はやはり何かを達成したことになるのだろうし、その執念には、やっぱり「どうかしている」との畏怖を感じてしまう。
(これはもちろん、あとからそのような文章を作り上げることで「その当時の自分の思いや心持ち」がそのようなものであったことになる、という話でもあるだろう。そして、どうかリアルタイムで子供のことを何とかしていただきたかったよ、という消耗は1ミリも目減りせずに畏怖と並立したままある)

 でもそのいっぽうで、簡素な書きぶりの日記よりも、自分と家族のたいへんな姿を外側も内側も包み隠さずに描いていった小説のほうが、いわば「凄惨な現実」として現実っぽく見える、というのには、「それでいいのか」と思う気持もある。その現実っぽさとは、つまり「いわゆる小説で描かれそうな現実っぽさ」なんじゃないか、と。

 畏怖は畏怖として、そして子供のネグレクトぶりへのげんなりはげんなりとして、そういったこととはまた別に、「いかにも真に迫っていると称されそうな、小説らしい現実っぽさ」に絡めとられ、「すげえ」と思ってしまうのには、漠然とした抵抗がある。
「いわゆる小説」なんて物言いが安易なのはいちおう承知しているつもりだし(そんな言い方をして「いわゆる」の程度が問題になったりしたらもう目もあてられない)、なにも「本当の現実はどこにあるのか」といった無茶な話ではない(だいたい「本当の現実」って意味がわからないじゃないか)。
 ただわたしは、小説ではなく日記を読むのなら、小説ではない日記にしかない変なものを読みたいと思った。それは事実を小説に加工していく過程でまず拾われない部分、整理しようのない部分、ということになる。繰り返すけど「そういう細部こそが本当の現実なのだ」とかいう鼻息の荒い話ではない。自分で勝手に材料(日記)と作品(小説)を分けておきながら、分けない読み方をしたいというマッチポンプなことを言っている。
 たとえば、昭和30年2月24日の記述。このころ、頻繁に発作をおこすようになったミホを島尾敏雄は慶応病院の神経科に短期入院させている。この日は朝から電話で呼び出され、昼に病院へ行ってみるとミホから平手打ちをくらう。
[…]そのこと鎮目医師と相談しているとミホ興奮して加わる。塩入助教授来る。ミホと三人で語る。あと助教授と二人、精神分裂症でない事、心因性反応であること、治療法アイマイなること、病院を変更すべきか、即時退院は無理な事、固定するといけない事。附添人の遠藤、交代を申し出る。ミホ精神的負担を主張して附添を断る。遠藤看護婦と解約。ミホ泣き、看護婦依怙地になる。家を安く売るとうらむ。その金はウニマから取って来いなど云う。(相部屋の林さんおくさんはダンナさんが好きで好きでたまらない病気だ、と云う)方途立たず涙下る。子供たちさわいでじっとしていない。しばらくミホのベッドで横になる。ミホ子供らをつれて中村錦之助の病室を見に行ったり。[…]pp196-7(太字は引用者)

 太字の部分でわたしはつい笑っていた。横になっちゃったよ。
 まったく笑える状況ではない。それはわかる。だが、このような八方ふさがりの場面をまったくのゼロから創作したときに、ここで「しばらくミホのベッドで横になる」はおよそ出てこない一文じゃないだろうか、という点において、わたしは小説『死の棘』とは切れた、変な部分にじかに触ったと思った。
 曖昧な言葉遊びめいたことを長々と書いておいて実例がこれか、という気もしないでもないが、わたしが読みたいと思ったのは(読めてよかったと思ったのは)、日記だからこそ紛れ込んだ、こういう文章である。そういう部分にぶつかって立ち止まったとき、『日記』は小説の材料であることをやめ、事実の記録であることを(事実の記録でしかないことを)やめている。

 ――と言いながら、このような興味だけで『日記』を読み通したわけではぜんぜんなかった。
『死の棘』は、「私」が子供たちを奄美大島の親族に預け、妻を「D病院」に入院させて自分も付き添いで病院に入るところで終わっていた。
『日記』では、島尾敏雄とミホは昭和30年6月6日に「市川市国立国府台病院」の精神科病棟に入院するが、それは全部で550ページある文庫本の半分を越えたあたりにすぎず、記録はこの年の年末まで続くから、後半のしばらくはミホの隣で内側から見た精神科ルポといった様相を呈する(10月にふたりは退院し、船で大島へ渡る)。
 いまと比べると格段に劣悪だっただろう施設のあり方への単純な好奇心はやはりあるし、そんな環境でも島尾敏雄は小説に取り組もうと苦心して、ほんの少し前のミホの行状を題材に短篇を書きあげあろうことかミホに読ませるなど、「待て」としか言いようのない行動にも事欠かない。子供のつらい境遇が表面にあらわれなくなったこともあって、頭は重たいままながら、前半に倍するスピードで読んでしまった。
 まとめるなら「いろいろ考えさせられる読書だった」わけだが、そんなまとめならしないほうがましである。


追記:

 この際なので、こちらの本で紹介されているのを見てから気になっていた、しまおまほのエッセイ『まほちゃんの家(2007)も読んでみた。
『死の棘』の「伸一」のモデル、『日記』の「伸三」がしまおまほの父親なわけだが、続けて読んだためにかえって6歳の少年と「しまおの父親」である男性の像がつながらず、この本の中の「島尾伸三」のたたずまいはいちばん不思議なものに見えた。それでいて、1980年代から90年代の記憶、過去の思い出を丁寧に文章にしてみせるしまおまほは、父親が祖父母(島尾敏雄・ミホ)と同席する際の硬くなる空気も一度ならず写しとっていて、その、まったくきびしくはないが容赦もない書きぶりにしびれた。
 そして、だれに頼まれたわけでもないが、まだまだわたしには島尾伸三当人の著書は読めないなあ、と思わされたのだった。読書はときどき大変だ。


まほちゃんの家まほちゃんの家
(2007/02/16)
しまお まほ

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2013/04/16

島尾敏雄『死の棘』(1977)

死の棘 (新潮文庫)
新潮文庫(1981)

《私たちはその晩からかやをつるのをやめた。どうしてか蚊がいなくなった。妻もぼくも三晩も眠っていない。そんなことが可能かどうかわからない。少しは気がつかずに眠ったのかもしれないが眠った記憶はない。》p5

 なにしろ有名な作品だからどんな話かは知ったつもりでおり、それでひるんだまま手が伸びないでいた『死の棘』を、思い立って読んでみた。事前に持っていた「こんな本らしい」という前知識は文庫本の裏表紙に印刷されている紹介がちょうど過不足ないのでそのまま書き写す。
思いやりの深かった妻が、夫の〈情事〉のために突然神経に異常を来たした。狂気のとりことなって憑かれたように夫の過去をあばきたてる妻。ひたすら詫び、許しを求める夫。日常の平穏な刻は止まり、現実は砕け散る。狂乱の果てに妻はどこへ行くのか?――ぎりぎりまで追いつめられた夫と妻の姿を生々しく描き、夫婦の絆とは何か、愛とは何かを底の底まで見据えた凄絶な人間記録。

 こういう話が、たしかに書いてある。「私」と相手の女とのいきさつを、眉間に皺を刻んで執拗に追求し責め続ける妻のミホ。罵声と平手打ち、謝罪のすえに我慢できなくなる「私」、自殺未遂、すぐにひっくり返される和解、また最初から始まる細部の追求、心中の相談、服従と爆発、罵声、狂言自殺、云々。出口のない(まったくない)もろもろが、600ページにわたり綿々と繰り返される。このふたりのやりとりだけに限って言えば、たしかにおそれていた通りの内容だった。
 ところが、実際に読んでみないとわからないことも確実にあって、まずひとつめは、意外にも文章は軽快ということだった。
《次第に日が傾き、部屋のなかがうす暗くなっても電灯のスイッチをつけるきもちが起こらない。はなしはぐるぐるまわるだけで結末はつかず、妻の態度だけがますます確信を加えてくる。それまでの妻は私の目の動きにもおびえ、かえって私を不機嫌にした。私はその顔つきを消さず、妻はすべてをゆるし、あばくことをおそれてますますやさしくなった。もう一度だけゆるすことが生活の良知なのにと苦しまぎれに思い、そうすれば私は生まれかわるだろう。ゆるしてくれなくてもいいがこのたえまのない尋問のくりかえしは不毛だなどと私は腹の底で思う。こんなときには悪びれない態度をと考えるが、かきたてられた過去のしかばねのなかではどうしてもおもてをあげていることができない。行為の細部を数えるときに、駈け足をして通りぬけ、とぼけて知らぬふりをしたり、隠して言わぬことのどうしても残るのがわれながら不審だ。
「たしかにそれだけなの。かくしているのじゃないの」
「いいえ、隠してなんかいない。いまさら隠したってどうなるもんじゃない」と私はいなむ。》pp11-2

 いまこうやって書き写しているとなおさら、言葉のひらがなへの開きかたが絶妙に感じられるし(「かきたてられた過去のしかばねのなかではどうしてもおもてをあげていることができない」なんてどうだ)、妻ミホと「私」の台詞とで開きかたを変えているのもうならされる。次の引用はだいぶあと。
《今私はからだを軽快に動かし、さわやかな空気のそよぎを妻のほうに送らなければならないが、大気のなかには待ち伏せの敵がひそみ、いつすがたをあらわすか見当もつかない。目ざめぎわ、妻のかげりを引き出さないことに成功すれば、私はす早く海軍以来着古したネービイブルーのサージズボンをはき、アメリカの中古品を買ったホームスパンの大きな茶格子の上衣を着けて、廊下のガラス戸に引いたカーテンをひらき、玄関と建てかえたばかりの板塀の門の戸の鍵をはずして、表の小路に出る。まだにごらない早朝の空気のなかに炊煙のまざったけむたいにおいを吸うと、こどものときの埋ずまっていた記憶に結びついて行く。眠りがまだすっかり取れない頭のなかで未来の充実した生活のほうに深い呼吸をはきつけるようにしていた幼い自分がどこかに居た。使われていた者が寝不足の顔で店先の道路のごみをはき集めているのを、見ていた遠い日。いつのまに自分は袋小路にはいりこんできたのだったか。》p126

「私」の体を使った行動と、いま時点で頭を満たしている考えを境なくまたぎ、そこから嗅覚を通して過去の記憶にまで横滑りしていくこんな文章を追っていると、“時間の差”が果たす役割の大きさを痛感させられる。
「いま時点」と言っても、これを書いているのは書かれている出来事が起きたときよりずっとあとである。そのことを忘れると(忘れないが)、なぜそのキツい状況をそんなふうに描き出していけるのか謎に思われるくらいに自在な文章が、いまその場にいるかのような寄り添い具合で連ねられる。妻の怒りに縛られながら、みずからの逆ギレでも自分を縛る、二重に身動きできない「私」の姿を描く文章は、四方八方、自在に伸びてゆく。
 住んでいた小岩の家にいられなくなり、転居した先の小倉で勃発する事件をクライマックスとしてえんえんと繰り返される内的・外的な激しい衝突は、凄惨な日々を言葉で彫琢して定着させたこの文章のために、ときおりコメディに転じているかのように見えることさえあった。

 と、ここまで息を止める思いで上っ面なことを書いた。
 じつは、このようなことよりも何よりも、開巻7ページ目から読み終えるまで、いや、読み終えたいまもなお強烈に印象に残るのは、この夫婦による言葉を使った殺し合いと、その先は殺し合いになるほかないような格闘のほとんどが、家庭の中で、6歳の息子・伸一と4歳の娘・マヤの目の前で展開されていることであって、これにはほとほと参らされた(あまりに辛いので、読みながら逃避として考えていたのが、上述した文章についてのあれこれである)。
 自分の無知を棚に上げて言うけれども、この子供たちのことがどうして、文庫裏の内容紹介に書かれていないのか。どうかそれは事前に教えておいていただきたかったよ。
 とくに伸一が、荒れ狂う両親に向かって「カテイノジジョウをしないでね」と繰り返し繰り返し懇願する言葉はこれ以上引用するのに忍びなく、ここには、「ぎりぎりまで追い詰められた夫と妻の姿」などない。ただ、ひどい大人がいるだけだ。だからわたしの感想は、極限での愛のありようだとか作家の業だとかにはさっぱり反応せず、ひたすらに

 「子供は大変だ」

に尽きた。わたしは無粋な人間なのだろうか。たぶんそうなんだろう。
 巻末の解説で文芸評論家の人が「だが、待ってほしい。ミホさんの健康がすぐれなくなったのは昭和29年の夏の終わりで、翌30年の6月には入院している。この凄絶な日々は実際には1年に満たず、作者はそれをあとからふり返り、いわば回復と感謝の記録として見事に作品化したのである。」みたいなことを書いているが、それはせいぜい夫婦ふたりにのみとどまる話じゃないかという気がしてならないし、だいたい、言葉の真の意味で、半年が永遠とも等しくなるのが子供の生きている世界だと思う。指を詰めるために夫婦で鉈を買ってくる場面で伸一とマヤが眠っているのはほんとうに不幸中の幸いだった。しかしそんな幸いは、吹き荒れる不幸の嵐の中ではゼロである……。

 でもまあ、これは小説なのである。
「私」は明らかに島尾敏雄であり、ミホは明らかに島尾夫人のミホであり、伸一とマヤのモデルはたしかにふたりの実子だそうだが、これを小説として読む以上、その記述からモデルに思いをいたすなんて、できない相談のはずである。だが、わたしはこの際小説として読まなくていいから、内容に比して軽快すぎる文章のうしろに“時間の差”があるように、この子供たちの扱われっぷり(扱われなさっぷり)のうしろにも、“やっぱり、これは小説だったんだ”という支えを見たい。ぜひ見たい。頼むから見せてほしい。
 そこで次に、この『死の棘』の材料であるらしい『「死の棘」日記』を読むことにした。読書は続く。

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