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『よりぬきサザエさん』のこと
よりぬきサザエさん  5  よりぬきサザエさん  6


 長谷川町子の『よりぬきサザエさん』全13巻が復刊、というニュースをこないだ知って、思いのほか「ううむ」となった自分の気持がわれながら興味深かった。それについて書こうとしたら、意外と難しくて10日くらい経ってしまった。

「ううむ」の理由は、単純には、このシリーズを「ディープに読み込んだことがある」からだ。でも、これらの本は私にとってかなり独特で、ほかのどんな本ともちがった関係を持った実感がある。ややこしいことに、それは、これが特別な本にならなかったからだった。

 ↑こういう面倒な始め方をしてしまうから10日も書きあぐねるわけである。
 何かについて「わざわざ書く」のは、それを特別なものにすることだ。「思い入れのあるものについて書く」、というのも順序が逆で、「書くから、それに思い入れがあることになる」のに決まっている。
 それでは、あるものについて「思い入れがない」ということを書くにはどうすればいいだろう。書けば書くほどそれは特別なものになり、思い入れがあることになってしまうのに。私はやっぱり、「思い入れがない」と書くしかないと思う。
 私は『よりぬきサザエさん』に思い入れがない。体験が何でもかんでも特別なものにするわけではないという、当り前のことについて書きたかった。 

 またもうっとうしくなってきたので事実から並べる。
 私が幼稚園だか小学校の低学年だったころに、もとの姉妹社版『よりぬきサザエさん』を親が買ってきた。最初に2、3冊から始まり、年に数冊ずつ増えた。それを私は、何十回となく読み返して過ごした。子供のときを思い出してもらえればわかっていただけると思うが、何十回というのは誇張ではない。
 で、ここがいちばん大事なのだけれども、だからといってとくに好きになったわけでもなかった。えんえん読み返したのは、ほかにすることがなかったからだった。
 あのころはほんとうに読むものがなかった。もうちょっと大きくなってからは、毎日読み返すのは「コロコロコミック」になった。

 とくに生活に必須ではない娯楽品一般に収集欲のある家族はいなかったため、『よりぬきサザエさん』は巻数もてきとうな順番で増えていったし、ぜんぶ揃いもしなかった。10冊あったかもあやしい。第1巻の表紙(すばらしい)なんてどう考えてもおぼえがないから、うちにはなかったんだと思う。そもそも、全13巻だったというのも復刊のニュースではじめて知った。
『よりぬきサザエさん』各巻の巻末で宣伝されていたのは、通常版の『サザエさん』全68巻だったような気がする。

 めくりすぎて表紙のカバーが破れたところにセロテープを貼り、それも破れて見苦しいので結局カバーはどの巻からも外して捨てて、何冊かは表紙じたいが取れかけたものがいまでも実家のテレビ台の中に積んであるはずだ。
 そこまで読んでも、「残りの巻も読みたい」とは思わなかった。ただ、あったから読み、あるものだけを読んだ。「この四コマは、最後のコマの背景に小さくワカメが入っていなかったら磯野家といっさい関係ないよ」などとはよく考えた。

 だいぶあとになってから、いつのまにか朝日の文庫になっていた(よりぬきじゃない)『サザエさん』を、親がなぜだか今度は全巻揃いで買ったので、それもひと通りめくったはずだけど、「サザエさんの漫画」と言われて思い浮かぶのは、『よりぬき』のほうの本である。そっちによりぬかれた四コマをもとにしたくだりがアニメにあると、最初の台詞を聞いた時点でオチまでつながって想起される。これはもう、生理に組み込まれているような反応である。
 でも、何度も繰り返すが、とくにサザエさんが好きにはならなかった。それとこれとは別である。アニメにいたってはなおさらで、何の因果か、見たときはメモをするようになって2年経つが、依然として愛着の生まれる気配すらない。
 特別じゃない、特別じゃないと繰り返すことが対象を特別なものにする、という逆説もここにはない。それは書いている私じしんが保証する。

 読んだ、しかも相当に読み込んだ、という事実はたしかにあり、しかし、特別な思い入れはない。
 私にとって『よりぬきサザエさん』はそういう本で、何ものかとのこのような関係の持ちかたは、意志や好みが生まれる前でないと(少なくともそれを自覚する前でないと)できないと思う。そしてどんな意味でも、これは貴重な体験なんかではない。ただ「事実として、そうだった」だけである。

 自分が格別な思い入れを持つ作品、大好きなもの、唯一無二の大切な対象について、思いのたけを滔々と語る言葉なら、かえってそこらじゅうにあふれ、いくらでも手に入る。いまやそういうことになっている。私だってずいぶん書き散らかしてきた。
 それはそれで面白いし、そういった他人の強い言葉に触れると熱が移ってくるようで、こちらものぼせた気持になることができ楽しいが、私の場合の『よりぬきサザエさん』のような、「ただ、あったから読んだ」だけの「とくに思い入れのない」本について、ほかの人の話を聞いてみたいとときどき思う。
 なぜ、ほかの作品ではなくその作品だったのか? そんなこと訊かれましても、としか答えようのない作品。それらについてわざわざ語る言葉はきっと、おおむね地味で退屈で、それだけに不穏なものになりうる気がするのである。



 でも、ここまで書いてきて、思い出してしまった。『よりぬきサザエさん』でひとつだけ、強烈に好きだった四コマがあった。
 何巻だかはわからない。たしか、各巻のごく前半だけがカラーになっている、その色の付いたページに収められていたうちの1本で、カツオがひとコマ目から激怒しており、顔を歪めて「もういやだ うちのみんなの顔も見たくない」みたいな台詞を発したのちに、こういうタイプの折れるマットレスを四角に折って立て、その上にこたつの天板を乗せて自分の個室を作る四コマがそれだった。
 カツオはマットレスの城に閉じこもり、見えなくなってしまう。でも、なかに持ち込んだ電気スタンド(漫画を読むのである!)から、マットレスの外へちゃんと電気コードがのびている。その黒いコードに私は憧れた。
 家にあったマットレスと電気スタンドで同じ真似をしようとさえして、現実のマットレスは2箇所で折るとコの字形にならない(階段形になる)のを知った。

 これだけは、『よりぬきサザエさん』にまつわる思い出であると認めざるをえないのかもしれない。だからと言って、今度の復刊本を買おうという気にはまだなっていないのだけれども。