2012/05/22

ピンチョンの燃えるマットレス

トマス・ピンチョン全小説 LAヴァイス (Thomas Pynchon Complete Collection)

*『LAヴァイス』と『競売ナンバー49の叫び』の内容に少し触れています。


 トマス・ピンチョンの現時点での最新作、2009年発表の『LAヴァイス』(栩木玲子+佐藤良明訳、新潮社)第17章は、このようなドタバタで始まる。
《ドックが家へ戻ると、スコットとデニスがキッチンにいて冷蔵庫を漁っていた。たったいま路地側の窓から入ってきたようだ。その前にデニスは、自分のアパートでいつもながら火の点いたマリワナを口にくわえたまま寝込んでしまったところ、そのマリワナはいつもと違って胸の上に落ちなかった。いつもなら肌が焼け焦げて眼も半分くらいは覚めるのだが、この日はどこかシーツの上に転げ落ちて煙をくすぶらせた。やがて目を覚ましたデニスは、立ち上がってヨロヨロとバスルームに向かい、シャワーを浴びようと思って裸になり栓をひねったが、そのうちベッドから火の手が上がった。炎はめらめらと天井を燃やし、上の階の住人であるチコのウォーターベッドに届いたが、幸いなことにチコは寝ておらず、ベッドのポリ塩化ビニールが熱に溶け、床に開いた穴から一トンの水が放水されて火は消し止められた。脛の高さに水の張られたプールとなった自分の部屋を、バスルームからフラフラと出てきたデニスが見ても何が起こったのかすぐさま理解することができず、加えて到着した消防隊を警察と勘違いし、路地を走っていってスコット・ウーフのビーチのねぐらまで逃げていくと、自分の頭が紡ぐままを話して聞かせた。曰く、これはザ・ボーズの連中による破壊活動[サボタージュ]だ。あいつら、俺を狙って陰謀を仕掛けてばかりいやがるんだ。》pp403-4

 舞台は1970年のカリフォルニア、ロサンジェルス。私立探偵のドックが、元カノの絡むトラブルを入口にして巻き込まれた殺人事件の真相を追っていくこの小説では、ドックもその仲間たちも多くがヒッピー崩れで、慣れた手つきでマリワナを巻き一服キメるのが歯磨きをするのと同じくらいありふれた動作になっている。
 意外にも(失礼)粘り強い調査で事件の背後にひかえる不穏な黒幕を徐々に浮かび上がらせながら、ドックはしょっちゅうトリップするため話も調査から脱線し、かと思えば幻覚にヒントをもらったおかげでまた一歩、真相ににじり寄ることができるようになったりもする。
 こんな説明では「オゥ、それは半分ふざけた小説なのか?」と受け取られてしまうのは想像に難くなく、その反応も半分は正解だと思う。つまり半分の半分はふざけている。
 そんな調子がいかにもうまくまとまっているのが上の長い引用で、第17章ともなれば小説は大詰めに向かっていくところだが、それでもピンチョンはこのように楽しくもくだらない与太話を挟むのをやめない。
 そしてしょうもないドタバタも陽気に展開し、トントン拍子に進むというのがこの小説の基調をなすトーンである。小説全体という大きな枠で捉えても、ときに千鳥足になろうがステップは軽快なまま、『LAヴァイス』は前へ前へと、事件の解決に向かって進んでいく。ミーハーなピンチョン読者としてまずおどろいたのは、この“健康的”と言ってもいいくらいのユルさと足取りの軽さだった。
 もちろん、小説がどれだけすいすい進んでいても、ひとつの挿話がツボにはまって反芻したり元ネタをさがしたり、言及される音楽をYouTubeで順番に再生し続けているうちに半日が過ぎたりといった脱線はいくらでもあるだろう。太く明快な1本のストーリーラインと、無数に伸びる寄り道は、まったく普通に両立しうる。そして私の場合、じつは先ほど「くだらない」「与太話」として引いたドタバタに、それこそ十トンの水をかぶるような思いをしたのだった。

 ベッドに火が点き、盛大に燃え上がった。でも天井が抜けて
 上階のウォーターベッドの水が落ちたから消火できた。

 やっぱり、これはどうしたって「しょうもない」。この小事件単独で何か深い意味が取り出せるわけでは全然ない。それがどうしておどろきを生むのかというと、ピンチョン作品でマットレスが燃えるのは(少なくとも)2回めだったからである。

 話はピンチョンが1966年に出した『競売ナンバー49の叫び』にさかのぼる。やはりカリフォルニアで、退屈な毎日を送っていたエディパ・マース(28歳、主婦)は、元愛人だった男の遺産をめぐって地下郵便組織と謎のラッパのマークを追いかける羽目になり、それまでの平凡な家庭生活を送る限りでは視界に入ってさえこなかった者たちの生きざまを目の当たりにすることになる。
 小説の中ほど、自分の行う探求のあちこちに見え隠れする秘密組織が“実在するのか/妄想なのか”という二択問題に決着をつけるため、エディパは身ひとつで夜のサンフランシスコに飛び出す。ところが、1個見つければ確実な証拠になるはずのマークが、さまざまなはみ出し者たちの姿と共に次から次へとエディパの前に現われて、彼女の判断力は停止に追い込まれてしまう。
《あれほど勇敢に乗り込んできたのに、あのときの、往年のラジオの私立探偵を気取っていたエディパはどこに行ってしまったのか。警察官僚の縛りから自由になって、ガッツを出して調べまくれば解決できない問題はないと信じた楽天家のエディパはどこに。
 私立探偵にだって、いつか袋叩きにされる日が来るのだ。今晩の郵便ラッパの毒々しい開花、その悪意に満ちた複写の連続は、探偵エディパを痛めつける、彼らなりのやり方なのだ。彼らはツボを心得ていた。彼女の楽天性神経網の節目を一つひとつ、寸分の狂いなく押していって、彼女を動けなくしていく。》p155

 二択はラッパのマークの洪水によってナンセンスの海に押し流される。いちおうの謎解きをめざして動いていた小説が(相当あやしいとはいえその方向へ動いているように見えなくもなかった小説が)、探偵役に退場を迫る瞬間だ。小説ははっきり、これまでたどってきたレールから外れていく。
 謎の解明に向かって、前へ前へと進まない。ヒールを履いた主人公の足取りはもつれ、小説の側から返り討ちにあって挫折する。20代の青年ピンチョンの“探偵小説”はそんな筋道をたどった。ここではユーモアはことごとくブラックユーモアで、程度の差はあれ、ドタバタもみな陽気には突き抜けず病的な陰を残した。そして何より、エディパは苦しんでいた。主人公を動けなくしたあとで小説が持ち込んでくる、“謎の解明”とは別の動力はどんなものだったか。しかし話を戻そう。
 やがて夜が明け、ふらふらと行き当たったアパートの階段に、老いた水夫がひとりうずくまっているのをエディパはみとめる。声をかけると老人は、捨ててきた妻への手紙を「投函してくれ」と彼女に託した。この老水夫の姿を通して、エディパはあるイメージを幻視する。
《「フリーウェイの下だ」 老人は、彼女が歩いてきた方向に手を差しのべ、波打たせた。「いつもある。行きゃあ、わかる」 目が閉じた。日が昇り、街のみんなが起き出して今日もまた健気に耕し始める、その安全な溝から毎晩、少しずつ押し出されて、この老いた水夫は、どんな肥沃な土地を掘り返したのだろう。どんな軌道を巡る惑星を見いだしたのだろう。壁紙の、染みのついた葉っぱの模様のまにまに、どんな声を聞き、どんな神々しい輝きの断片を目にしただろう。どんな蠟燭の切れ端が、火を灯したまま、彼の頭上を回ったのだろう。いつか火を灯したままのタバコを、この水夫か友人が持ったまま寝込んでしまえばそれまでだ。長年蓄えられてきたマットレスの詰め物が燃え上がる。悪夢にうなされた時の汗も、間に合わずに膀胱から溢れたものも、悪意と涙にまみれた夢精も、一切の痕跡が――見捨てられた者どもの電算機のメモリーバンクのすべてが――燃え上がる炎とともに失われる。感情の波がいっぺんに押し寄せて、エディパは今、老人の体に触れずにはいられない。触れなくては、その存在が信じられなくなりそうで、思い出すこともできなくなりそうで、自分自身疲れ切って頭が少し朦朧としていたけれども、彼女はステップを三段上って腰を下ろすと、老人の体に腕をまわして抱きしめた。黒く汚れた自らの瞼の向こう、視線を階段に沿って下ろした先に朝の光があった。胸が濡れるのを感じた。見れば老人は、また涙を流している。》pp157-8、太字は引用者。以下同じ。

「感情の波がいっぺんに押し寄せて」とあるごとく、すぐれて喚起的なこのイメージは、数ページあと、エディパが老人を支えてのぼった部屋のベッドの前で念を押すように繰り返される。
《この老いた船乗りの、ヴァイキング式のお葬式でマットレスが燃え上がると、そこに暗号化され保存されていた無益な歳月のすべてが抹消される。早死にの人生も、自分自身を耕した跡も、確実に崩れ落ちていった希望も。かつてこの上で寝たことのある、さまざまな人生を生きた男たちの全集合が、永遠の無の中へと拭い去られる――マットレスの炎のなかで。見つめるエディパの目が驚きに染まった。まるで、非可逆的なプロセスというものを、いま初めて目にしたかのように。それだけの量のものがいっぺんに無に帰してしまうなんて。この一人の老人の妄想だけで猛烈な量なのに、それがまるごと、世界に何の痕跡も残さずに消え去ることが驚きだった。》pp160-1

 老人の汗と涙と尿と精液、つまり、貧しくみじめな暮らしを送る人間(=すべての人間)の生が凝縮された、記憶媒体としてのマットレス。それに火が点いたとき、彼の生きた痕跡はいっせいに燃え上がり、この世界から消え去る。彼は文字通り以上の意味で失われ、あとには何も残らない。
 燃えるマットレスは、人間を灰燼どころかそっくり無に帰す、切実で鮮烈なイメージだった。
 もうひとつ面白いのは、この炎上するマットレスのイメージが、また別の連想を引っぱってくることだ。『競売ナンバー49の叫び』では、マットレスに火が点く前に燃えていたものがもうひとつあった。それは炎の舌である。
 サンフランシスコよりさらに前の場面、エディパが観に行った「急使の悲劇」という演劇で、聖書にある“ペンテコステ”のことが語られる。作中では悪趣味なパロディになっているが、もとはこういう話だった。
《五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。
 そして、炎のような舌が分かれ分かれに現われ、一人一人の上にとどまった。
 すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。
 さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。》
「使徒言行録」2章1‐6節、新共同訳

 炎のように燃える舌なのか、舌のかたちで燃える炎なのか、ともあれ炎の舌は、言葉の壁を越えてすべての者に御言葉をもたらす。
 燃え上がるマットレスが生の消滅を意味していたのに対し、炎の舌は完璧なコミュニケーションを行う、伝達の奇跡として燃えている。無と完全解。対照的な二種の炎が燃える、『競売ナンバー49の叫び』はそんな火床でもあった。
 もちろん、火に包まれるマットレスはあくまでエディパの想像だし、炎の舌に至っては、それが訪れないことをタイトルの“49”で示しているのがこの小説だ(ペンテコステの“五旬祭”に1日足りない)。着火することで現実化せず、イメージの中でだけ燃える正反対の炎ふたつを思い浮かべるとき、その意味は、両極端であるために対立しないで曖昧になる
 二択を不可能にしたうえで、別の地点に足場をつくろうとするのが『競売ナンバー49の叫び』の試みだった。答えの与えられない謎を、拡大すること。Aでもあり非Aでもある中空にラッパのマークを掲げ続けること。後半はそのために費やされ、それによって小説は動く。
 ただ結論を回避し続けるのではなく、はぐらかして逃げるのでもなく、謎のまとうディテールを増加させることによって、謎を具体的で、かつ曖昧にすること。積極的などっちつかずを果敢に夢見るこの小説では、マットレスは実際に燃えてはいけないし、真実を語る炎の舌も訪れてはならなかった。

 ひるがえって、『LAヴァイス』の同じ部分をもういちど読んでみる。
《デニスは、自分のアパートでいつもながら火の点いたマリワナを口にくわえたまま寝込んでしまったところ、そのマリワナはいつもと違って胸の上に落ちなかった。いつもなら肌が焼け焦げて眼も半分くらいは覚めるのだが、この日はどこかシーツの上に転げ落ちて煙をくすぶらせた。やがて目を覚ましたデニスは、立ち上がってヨロヨロとバスルームに向かい、シャワーを浴びようと思って裸になり栓をひねったが、そのうちベッドから火の手が上がった。炎はめらめらと天井を燃やし、上の階の住人であるチコのウォーターベッドに届いたが、幸いなことにチコは寝ておらず、ベッドのポリ塩化ビニールが熱に溶け、床に開いた穴から一トンの水が放水されて火は消し止められた。》

 ヒッピー仲間の口元を離れたマリワナは、ベッドに落ちるまでの1秒の間になんらかの時空を越えて40年を飛び、マットレスがついに本当に燃え上がったと私は思った。
 けれどもその炎は、想像の中で抽象的な人間の生を象徴的に抹消したりはせずに、いまそこにある天井を燃やし穴を開け、しかもウォーターベッドの水を呼び込んでみずから鎮火する。一件落着。この冗談のような放水と、エディパの胸を濡らした老水夫の涙との、隔たり。

 この部分を書くピンチョンの念頭に『競売ナンバー49の叫び』のマットレスがあったことを読者の私は疑わない。しかしこれはどういう種類の再利用なのか。
 かつて使ったモチーフを、後年、深化させて再提出するとか、あるいは、何らかのオブセッションのために小道具が作品の垣根を越え繰り返しあらわれるという事態は珍しくない。しかしこのピンチョンのマットレスの使いかたは、そういうものではないように感じられる。
 ここ以前、そもそも、主人公の元カノが大富豪の愛人、という設定から、主人公が大富豪の元愛人だった『競売ナンバー49の叫び』を(もっとシンプルだった原型、として)思い出さないほうが無理であるわけだし、調査の過程で発見されたさまざまな事物が〈黄金の牙〉に流れ込んでいく展開に〈トライステロ〉の影を見ないのもむずかしい。それでいて、ふたつの小説の感触は大きくちがう。
 後半でドックに伝えられる、高速道路に隠された死体の話(p440)は、エディパが切手蒐集家と話したフリーウェイと墓地の関係を連想させるし、もっと細かいことを言えば、アメリカ合衆国の建国者がドックの相談に乗ってくれる〈プラスチック・ニッケル〉で、店を飾る人工の生け垣に押し込まれたゴミの数かずが《一グラムにも満たない命の営み》(p400)と形容されているのは、中古車販売店で働いていたエディパの夫、ムーチョ・マースをノイローゼに追い込んだ車内のゴミくずが《生の残余物》と呼ばれていた部分と小さく呼応しているように――見ようと思えば――見えないこともない。

 でも、そう見ようとさえ思えば、そう見えないものなどない。
 ミッキー・ウルフマンの〈アレペンティミエント〉が、ピアス・インヴェラリティによる〈サン・ナルシソ〉の実現しなかったバージョンなのか、そしてなぜそれが小説の中でさえ実現しなくなったのかを真面目に考えることにはおそらくもう少し意義があると思うが、マットレスや、そのほかこちらの記憶を小さく刺激して去っていく細部についてなら、それがはらんでいるかもしれない意味ではなく、それを作中に再び持ち込んだ手つきにこそ見るべきものがある。
 私は、ピンチョンは遊んでいるんだと思った。
 年齢が半分以下だった過去において自分が作品を書くのに使ったシリアスな材料を取り出し、いま書いている作品に面白半分で足してみる。鼻歌さえ聞こえてくるような、そんな遊びをこの大作家はしているのではないか。その際、作家が書棚から自分の本を取り出してページをめくり、行をたどり直している姿を想像すると不思議な気持になる。
(前作、2006年の『逆光』でもそんなそぶりはあった。『競売ナンバー49の叫び』でもっとも隠喩に満ち満ちた「鋤が畝の溝から外れる=錯乱」というイメージと、前述したペンテコステの挿話は、それぞれ『逆光』邦訳版の上巻p67と下巻p45で、非常にあっけらかんとした調子で言及される。「錯乱の語源はこういうことなんだよ」→「知ってるよ!あなたの本で読んだよ!」と私は突っ込まずにいられなかった

 言い換えればこういうことだ。このような再利用は、作品間の関連だとか、作者による何らかの企みとかいうよりもまず先に、同じ人間が書いているから起きている。そしてそれは、まったくの事実である。
 まったくの事実ではあるが、マットレスのくだりにぶつかってはじめて、自分はこのことが本当にわかったように思う。
『LAヴァイス』巻末、充実した訳者「解説」により私は何人かの登場人物が『ヴァインランド』(1990)からこちらに顔を出していたのを知った。それも含めて、解説をしめくくる次のくだりを、上述したような意味で私は読んだ。
《『LAヴァイス』は、王者ピンチョンが、文学のスケートリンクで、過去半世紀の自分自身からふんだんに引用しながらみずからの芸を披露する、エグジビションの舞いであるかのように思えるのだ。》p541

 そんな楽しげな筆致は何に喩えられるだろう。それはやっぱり、ワラッチ・サンダルを履いてゴルディータ・ビーチを行くドッグの、軽い足取りである。

『競売ナンバー49の叫び』の舞台は1965年で、『LAヴァイス』は1970年だった。この2点だけに目を留めると、作中の時間が5年推移するあいだにピンチョンは43年、小説を書き続けた。流れの種類がちがうので重ねようのないふたつの時間のねじれに、ささやかながら、私がピンチョンを読んでいる数年間という時間の幅が、もう少しのねじれをつけ加える。唐突だが、読むということは、なかんずく1人の作家を読み続けるということは、小説の文章をねじり、自分の受け取りかたをねじり、ついには時間をねじることなのかもしれない。できるだけもっと、ねじっていきたい。
 ことし2012年の5月8日で75歳になったトマス・ピンチョンの、次の作品がはやく読みたいと思う。



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2012/05/06

2012年5月6日(日)


■ たしか去年の年末に、友達に向かって「来年はもっとブログを更新するっす! おれブログ好きなんす!」などと口走ったようなおぼえがあるが、まあ、ほとんど更新していないわけです。更新していないのに時々はてなアンテナで上にあがってしまうのはなぜなんだろう。あるいはもうみんな、はてなアンテナなんて使っていないのだろうか。
 こんなに更新頻度が落ちている理由を考えて、その大きな原因のひとつであるツイッターから、自分のつぶやきを自分でまとめたものが2本あったので、せめて更新の代わりに貼る。

 今週のサザエさんは: 2010.10-2011.10
  http://togetter.com/li/204366

 正月の漫画のナウシカ: 2010+2011+2012
  http://togetter.com/li/294814

 ふつう、人は興味のあるものについて詳しく書くわけだけど(当り前だ)、このようにただダラダラと書き続けていたものでも「まとめる」つもりで見返してみると、書いていたことから逆に自分の興味が発見できるというか、もっと言えば、まとめることにより「自分の興味」を後付けで作ることができるかのようで、書いてまとめた私には、こんなものでも少しだけ意味があった。私には。


■ ところで、去年2011年の読書で猛烈に面白かったのは、ミシェル・レリス『幻のアフリカ』と、武田百合子『犬が星見た』を、続けて読んだことだった。前者は1931-33年のアフリカ調査行に参加した詩人による日誌で、後者は昭和44年のロシア旅行記である。
 両方とも、書き手のまわりで何が起きるにしろ、書き手自身が何を考えるにしろ、そういった出来事だとか書き手の内面だとかといったものの外にある、もっと大きくて外的な流れ(旅の進行と、何より日付)にしたがって着々と記述が積み重ねられていく、そういうタイプの本だった。
 書き手のまわりで起こる出来事、記述の内容は淡々としていても淡々としていなくても、その積み重ねは坦々と続いて分量を増してゆき、それがただ続くことでもって(分量を増すことでもって)いつのまにか1個の作品になってゆく。そこが面白かった。
 だから、この2冊の本が面白かった、というよりも、この2冊の本を読んでいる最中が面白かった、というほうが正確なのかもしれない。作品の生成する過程を目の当たりにし続けるのがこちらの興奮を呼ぶのだろうか、という感じで、理由はまだうまく言語化できないけれども、このような作品のありかたが自分は本当に好きなんだなあと再確認し、そこで「いまがアレを読むときかもしれない」と、評判だけは目にしていた青木淳悟『私のいない高校』に手を出した。

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 ある高校の2年生の1クラス、留学生を受け入れた教室の全体を、とくに主人公や視点人物を置くわけでもなく、担任による日誌のようなスタイルで坦々と記録していったこの小説が、去年、私の読んだ小説のベストになった。
 この小説の面白さは、まだぜんぜん自分のなかで片付いていない。まず、わざとらしい事件や物語が起きないのがリアルでいい、なんて単純なことでは決してないし、このような内容とスタイルのものを小説だと言い張ることのおかしさが面白い、というのでもない。
 ここにある面白さは小説であることからしか出てこない面白さだと思うからには、それは小説ではなかった先の2冊とは別種の面白さになるはずだが、日付のついた記述の積み重ねという点では同じであるような気もしてくるし、しかし面白さの発生源がそこだけというのでもない。
 どこに設定してあるのかわからない視点のおかしさ、つまり、数十人をばらばらに追う記述の群れのうしろにひとりの(ひとつの)書き手を想定できるようにはとても見えない書きぶりの気持ち悪さと心地よさが並立している面白さもあるにしろ、それも本質ではないような……
 さっぱりわからないのに、作中いちばんのイベントである修学旅行の朝、クラスメイトが徐々に空港へ集まってくるところの盛りあがり(作中ではなく、読んでいるこちらの盛りあがり)は、あれは何だったんだろうなあ、などと考え出すとまた読み返したくなってきて、そして読み返せば、やはりまた変な面白さが着々と続いてゆくのだった。
 以上、結論は何もないんだけど、小説でもネットでも、進行中の実況とか、日記っぽいものとか、記述の積み重ねだとか本篇と並行する注釈だとかに妙に惹かれてしまう自分の興味のありようにしたがって、なるべくたくさん騒いだり書いたり、つまり記録を続けていきたいと思う――って、こんなことを書くつもりではなかったんだけどな。



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