2011/04/12

モンダウゲンと巻きひげの話

V.〈上〉 (Thomas Pynchon Complete Collection)  V.〈下〉 (Thomas Pynchon Complete Collection)

小山太一+佐藤良明訳(新潮社、2011)

以下の文章には、『V.』を読むうえで有用な知識はなんにも含まれておりません


 新潮社から新訳が出たトマス・ピンチョンの『V.』(1963)のうち、上巻と下巻にまたがる第九章「モンダウゲンの物語」は、1922年におけるドイツの南西アフリカ保護領を舞台にしています。
 
 大学を出たばかりの技術者クルト・モンダウゲンは、空電の調査を命じられはるばるこの地までやって来たものの、5月のある日、原住民のボンデルスヴァールツ族が反乱を起こしたと知らされる。
 あわてたモンダウゲンが避難した先は、フォプルという農園主の屋敷。そこは外界から切り離された、ヨーロッパ各国の白人たちの集う社交場になっており、彼らは酒池肉林の“籠城パーティー”を始めていた。
 パーティーの続くあいだ、屋敷ではあやしげな男女が次々に登場してそれぞれの思い込みをモンダウゲンの耳へ一方的に注ぎ込み、やがて壊血病にうなされる彼のあたまには、これに先立つ1904年の原住民大虐殺の記憶が(他人の記憶なのに!)フラッシュバックする――
 
 喧噪を遠くに聞きながら、薄暗く淫猥で残酷な内容に満ちているこの章は、語られ方もまた複雑で、パーティーの様子はこのあと30年以上も過ぎた1956年にモンダウゲンの口から別の人物に伝えられ、その人物がさらに別の人物に語り直す、という枠組みが用意されています。
 だからこの物語には、もとの体験談から相当に変形が加えられている、と、話の始まる前にも話の途中でも読者への注意が促されており、そういった設定を素直に受け取るならたいへんややこしいことになっていくはずですが、いま、ここで取り上げたいのは本当にごくごく小さな一部分でしかないので、じつは以上の説明にはたいして意味がありませんでした。
 
 さて、モンダウゲンがフォプルの屋敷に到着した翌朝、屋根にのぼって作業をしてから、ふと視線を下に移す場面があります。まずは、国書刊行会から出ていた旧訳(1979)を引きます。
(うちの国書版は、奥付によると「1979年初版」→「1989年新装版」となっていますが、新装版にする際に訳に手を入れたとは明記されていないので「1979」ということにしました)
国:《モンダウゲンのいる所からは下の中庭風な場所ものぞくことができた。はるかな砂漠の激しい砂嵐をくぐって来た日光は、開いている張出し窓に当ってはね返り、まるで強化されたような強烈なまぶしさで下の中庭に射し込み、真紅に染まった地面ないしは水たまりを照らし出した。そこからは二筋の巻きひげが近くの戸にまで延びていた。モンダウゲンは戦慄を覚えて凝視した。》上p319

 モンダウゲンは、《真紅に染まった地面ないしは水たまり》と《二筋の巻きひげ》を見て脅えますが、それが何だったのか、この部分だけではまだわかるようになっていません。ただし、それは翻訳のせいでは絶対にない。原文はこうです(手許にあるのはこの版
 Back here Mondaugen could also see down into a kind of inner courtyard. Sunlight, filtered through a great sandstorm far away in the desert, bounced off an open bay window and down, too bright, as if amplified, into the courtyard to illuminate a patch or pool of deep red. Twin tendrils of it extended to a nearby doorway. Mondaugen shivered and stared. (p249)

 下線と太字にした部分を訳文と照らし合わせれば、言葉がきちんと対応しており、非常に正確な訳になっているのが見えると思います。ズレのない直訳。《二筋の巻きひげ》も、Twin tendrils で間違いない。
 
 だから、さっきの部分を読んで、《真紅に染まった地面ないしは水たまり》と《二筋の巻きひげ》に対し「?」と疑問をおぼえるとしたら、それはもともと、作者が明示していないせいであり、つまり、ここではまだわからなくてよいのだ、と言っていいはずです。
 そして実際、1ページあとで、この中庭から人間の発する苦痛の叫びが聞こえてきて、モンダウゲンはさきほど目にした真紅のものが何だったかを察している様子です。そこを読んで私も「そういうことか」と一応の納得はできました。
 しかし正直に告白すれば、それでも私は、「巻きひげ」のほうはわかりませんでした。それは読解力の不足、と言われても仕方ありません。なぜ仕方ないのかは後述しますが、いずれにせよ、国書版の訳は正確だったというのがポイントです。
 
 ところがいまの部分、今回の新潮社版ではこのようになっているのです。
新:《近くに目を転じて屋根の上のモンダウゲンが見下ろすと、中庭のようなものがあった。はるか遠くの砂漠を舞う巨大な砂嵐を通して差し込む太陽は、開いた出窓のガラスに当たって下向きに撥ね返り、あたかも反射によって光量を増したごとく、中庭にぎらりと射し込む。そこでは、濃い赤色の平面が光を受けて輝いていた。ひょっとすると、赤い液体の溜まりだろうか。細い流れがそこから二本延びて、近くのドア口に達している。モンダウゲンは思わず震え上がって、じっと見つめた。》上p352

 この、無茶苦茶にクリアで、一本の明快なスジが通っているのを感じられる訳文には、たまげました。ここには、国書版から浮かんだ疑問のはさまる隙はなく、書いてあることが即座にわかります。読んだままわかります。すごい。私は興奮しています。
 もう一度、後半だけ切り取ってみましょう。
国:《(日光が)強烈なまぶしさで下の中庭に射し込み、真紅に染まった地面ないしは水たまりを照らし出した。そこからは二筋の巻きひげが近くの戸にまで延びていた。》

新:《(日光が)中庭にぎらりと射し込む。そこでは、濃い赤色の平面が光を受けて輝いていた。ひょっとすると、赤い液体の溜まりだろうか。細い流れがそこから二本延びて、近くのドア口に達している。》

 こう見比べると、新潮版は、逐語的だった国書版とはかなりちがって見えます。どうしてこうなったのか、こちらも原文と並べずにはいられません。
(日光が) too bright, as if amplified, into the courtyard to illuminate a patch or pool of deep red. Twin tendrils of it extended to a nearby doorway.

新:《(日光が)中庭にぎらりと射し込む。そこでは、濃い赤色の平面が光を受けて輝いていた。ひょっとすると、赤い液体の溜まりだろうか細い流れがそこから二本延びて、近くのドア口に達している。》

"a patch or pool of deep red"と、そこだけ見ればまったくふつうに並列されている patch と pool を、国書版はそのまま引き移していました(正確に見えました)。
 同じ原文を新潮版は、ただ pool の一語にアクセントを置いて読み取ることで、日本語の組み立てを変更し、一文増やしています。《ひょっとすると、赤い液体の溜まりだろうか》。
 tendrils も「巻きひげ」で済ませず「巻きひげ状のもの」と捉え、さらに“それが何なのか”にまで踏み込んで、訳を起こしている。ここまでするのか。あらためて、たまげました。
 一瞬、「訳しすぎ」とか「解釈を入れすぎ」に見えて、しかし読み返せば読み返すほど、原文にたしかに踏みとどまっている。それでいて、格段にわかりやすくなっている。やっぱり、すごい。
 何度でも繰り返しますが、国書版は「正確」だと思います。でも、あちらが「正確」なら、こちらの新潮版は何と言えばいいのか。あたまをひねっても、「もっと正確」以外の言葉が出てきません。子供か。

 第一章、「木偶のヨーヨー、ベニー・プロフェインが遠手点に到達するの巻」から、内容に笑うのはもちろん、読みやすさにも笑いが出るほど読みやすいなあと思いつつ、ページをめくってきて、上巻の終わり近くでこの部分にいたり、おどろいて旧訳と原書をめくってわかったことをここまで書いてきましたが、あるいは私は、おそろしく些細な点にひとりで大騒ぎしているのかもしれません。きっとそうでしょう。それはわかっています。
 しかしここが決定打になって、今回の新訳が、計756ページある全篇を、すべてこのようなレベルでバージョンアップしたのだということがはっきり意識にのぼり、それこそ、おそろしい気持になりました。そんなことのできる人がいるんだと。
 もちろん、今回の訳者のお二人は、国書版を下敷きにしてそのバージョンアップを図ったわけではなく(そのような作業だったらここまで変わらない)、うんうん唸ってあたらしい訳をイチから練り上げていったにちがいありません。だから、バージョンがうんぬんというのは、従来の旧訳を通過してから新訳を読む側、つまり私の受けた印象にすぎない。
 けれども、たまに原書をチラ見してあちこちつまみ食いすることはあっても、結局のところは翻訳に頼ってピンチョンの声に触れている読者(私のことです)は、翻訳を通して触れているからこそ、この“バージョンアップ”には何度でもおどろくし、「やあ、おどろいたなあ」と書いてもいいのじゃないかという気がしています。

 これまで私が読んできた、白い表紙がだいぶ汚れてしまった国書版『V.』上巻では、くだんの319ページだと、「巻きひげ」の一語にだけ鉛筆で丸がつけてありました。わからなかったのです。原書でも、"Twin tendrils of it"の下に「(まきひげ?)」と書き込みがしてありました。
 おまえ、『V.』を読むんだったら、謎はほかにいくらでもあるだろう、もっとこう、全体の構成とか、詰め込まれた材料とか、『V.』の航時性についてとかさあ、というのは、めまいがするほど正論ですが、私にとってはこの「巻きひげ」も謎のひとつであり、長らく心に絡まったままでいた蔓の一本でした。
 見てきたように、新訳の「モンダウゲンの物語」には、もう「巻きひげ」の語はありません。国書版の『V.』は、上巻だけまだ絶版になっていないようですが、もはや新潮版のほうが安い値段で出てしまいました。今後は、こちらが『V.』になります。
 それによってピンチョン読者は今後どんどん増えていくでしょうが(そうなるに決まっていますが)、これからはもう、「巻きひげ」に惑わされる人間はいなくなる。生まれようがない。
 だから、というのが理由になるのかわかりませんが、かつてはそんな不器用な読者がいたという記録として、ここに書きとめた次第です。
 あえて原書からチャレンジし、"Twin tendrils of it"に「(まきひげ?)」と書き込むかたがもしいらしたら、私はその人に気持よく金を貸したり、ビールをおごったりしたいと思います。

 最後に、ここまで問題にしてきた、第九章の始まり近く、フォプル屋敷の屋根から見下ろした光景を、あとになってモンダウゲン自身が思い出す場面を引用しておきます。それはこの章がほとんど終わるあたりなので、中庭についての言葉が、“籠城パーティー”を前後から対称的に挟む格好になっているわけです。
 私が読んだ通りに、つまり国書版→原書→新潮版の順で書き写しますが、はたして新訳を手に取る前の自分は、ここまで読めばさかのぼってあの「巻きひげ」が何だったかわかる、と気付いていたのかどうか。それがどうにも思い出せません。
 しかし、そんな杜撰な読者(私のことです!)だってけっこう楽しくピンチョンを読んでいるし、ピンチョン作品のほうでもこちらに入口を開いていると感じる瞬間がしょっちゅうあるよ、ということも付け足しておきたくなりました。
 ピンチョン、面白いですよ。おすすめです。

国:《地平線の上に、南ア連邦の方角から、複葉飛行機が二機、群から離れた鳥のように、低空をのろのろと飛来した。「あれが爆弾を落したのだ」と、フォプルは一座の者に言った。彼は今や興奮のあまり、屋根にぶどう酒をこぼした。モンダウゲンはそれが二筋の流れになって軒まで流れて行くのを見守っていた。すると何故か、フォプルの館で迎えた最初の朝のこと、そして中庭の二筋の血(いつから彼はあれを血だと言うようになったのであろうか)を思い出した。鳶が一羽、屋根の低いところに舞い下りて、ぶどう酒をつつき始めたが、やがて飛び去った。いつから彼はあれを血だと言うようになったのであろうか。》上p373

 Over the horizon from the direction of the Union came two biplanes, flying low and lazy, like birds wandered away from a flock. "That's where the bombs came from," announced Foppl to his company. So excited now that he slopped wine on the roof. Mondaugen watched it flow in twin streams all the way to the eaves. It reminded him somehow of his first morning at Foppl's, and the two streaks of blood (when had he begun to call it blood?) in the courtyard. A kite lit lower down on the roof and began to peck at the wine. Soon it took wing again. When had he begun to call it blood? (p293)

新:《南ア連邦側の地平線から複葉機が二機、群をはぐれた鳥のようにのんびりと低空を飛んできた。「あれだな、爆弾を落としたのは」フォプルが一同に教えた。がぶ飲みしたワインが、興奮のあまり口からこぼれて屋根に落ちた。モンダウゲンが見ていると、ワインは二本の流れとなって庇まで這っていった。フォプル屋敷で初めて迎えた朝に中庭で見た二筋の血(自分はいつから、あれを血と思うようになったのだろう?)が思い出された。トンビが屋根の下のほうに留まり、くちばしでワインをつつき始めた。しばらくすると飛び立っていった。いつから自分は、あれを血と思うようになったのだろう?》p下41



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2011/04/05

Nathanael West "A Cool Million and The Dream Life of Balso Snell"

A Cool Million And The Dream Life of Balso Snell
FSG Classics(2006)


『イナゴの日』という作品で名前だけは有名なナサニエル・ウェスト(1903ー40)、その中篇小説ふたつが1冊にまとめられている。予備知識ゼロで読んだら、どちらも人を喰った作風で、「この時代にこういうものを書く人がいたんだなあ」と思った。そして今に残っているんだなあ、とも。

The Dream Life of Balso Snell(1931)
《トロイの町の外、生い茂る草地を歩いていたバルソ・スネルは、ギリシア神話に出てくるあの有名な木馬を見つけた。詩人である彼はホメロスの古い詩を思い出し、入口を見つけてやろうと決めた。
 よくよく調べて回ったが、穴は三つしかない。口、ヘソ、そして消化管の端っこ、である。口には手が届かないし、ヘソは奥に続かない。だからプライドのことは忘れて、最後の穴へ向かった。おお、驚異なる肛門!》p3

 ふざけてるのか、と思うが、実際ふざけている。巨大な木馬の中で、彼は次から次へと奇人変人に出会い、聞きたくもない話をえんえん聞かされる。その繰り返し以外に筋らしい筋はない。キリストの脇の下に住んでいたノミの話(「彼の血を飲んだ」とわざわざ書いてある)だの、嗅覚だけで現実を見つけようとした男だの、相当しょうもない話が続く。いちばん凝っているのは、男子中学生が女教師の気を引くために書いた、犯罪告白ノート。そんなものが木のうろに隠してあってバルソはそれを読む。
 この木馬、腸の長さはどうなってるんだなどと考えても仕方がない。わりと早いうちに、バルソは「この木馬に住んでるのはみんな、聞き役がほしい作家なんだな」と思い至るが、それでどうなるわけでもない。
 確実にあるのは、立派な作品だけは書くまいという意志。しょうもなくて、くだらなくて、悪くなかった。


A Cool Million(1934)

 お母さんと2人でつましく暮らすレミュエルくんは、ある日、家主の横暴でわが家が奪われかけていると知る。ストップをかけるには3ヶ月以内に1500ドルの大金を用意しなくてはならない。でもまだ17歳の僕にそんなことは無理だ。どうしよう。
 困り果てた彼は銀行家のウィプル氏に助けを求める。かつてアメリカ合衆国の大統領まで務めたというウィプル氏は、しかし、この青年を厳しく叱咤する。ここは機会の国だ、自分の力で何とかしたまえ。正直で勤勉であれば必ず報われる――国民がこれを信じなくなったら、アメリカの終わりだよ。ロックフェラー氏をごらん、フォード氏をごらん。きみも頑張るんだ。
 
 そんなわけで奮い立った善良な主人公が希望に燃えて歩き出すこの小説は、いわゆるアメリカン・ドリームを右手で描き出す端から、左手でそれに泥を塗りつけていく。というか、泥を塗るために描いている。
 電車に乗れば金を盗まれ、濡れ衣を着せられてしまう。ニューヨークへ行くはずが刑務所に放り込まれる。釈放されても仕事はない。やっと見つかった仕事は詐欺の片棒担ぎである(また捕まる)。いっぽう、彼のガールフレンドであるベティも、孤児という境遇をものともしない健気な子だったが、さらわれるわ乱暴されるわ奴隷として売られるわで、辛酸を舐め続ける。
 偶然のみちびきで2人が再会してからも、小さな希望がひとつ見えたかと思った次の瞬間、いくつもの不幸が雪崩のように押し寄せて、正直で勤勉な男女の受難は続く。さらには、おや、そこで収監されているのは、銀行が潰れてしまったウィプル氏ではないですか。

 ひどい話だ、と思うが、実際ひどい話だ。うんざりしすぎて笑ってしまう。とくに「へえ」と思わされたのは、レミュエルくんを襲う災難が、身体へのダメージとして即物的に描かれているところ。
 刑務所では、どうかしている所長の方針により歯をぜんぶ抜かれる。事故で片目を失う。親指を切り取られる。頭皮を削がれる。片足をなくす。などなど。アメリカン・ドリームという、実体があるんだかないんだか疑わしい代物(なにしろ、だ)を追う者は、そのじつ物質的なを求めているわけで、この小説ではその結果、何よりも具体的な肉体が損傷されるのである。
 金を夢だなんて言いくるめるから罰が当たるのか。でもそれは誰の責任なんだ。世間の通念がはらむ欺瞞のしわ寄せを代表して受けているような気配さえあるレミュエルくんが自分の言葉で演説をはじめる(!)ころには、小説はほとんど終わりかけている。
《「僕は道化です」と彼は語り出した。「ですが、道化だって真剣になる時がある。まさに今が、その時なのです。僕は――」》p177

 こちらは、むかし邦訳も出ていた模様。