趣味は引用
片岡義男『日本語の外へ』(1997)
日本語の外へ
筑摩書房


 片岡義男のことをよく知らない。
 私はこの人の小説を、わりと最近、2冊しか読んだことがなく、それはどちらもめちゃめちゃ面白かったが(『花模様が怖い』、『ミス・リグビーの幸福』)、作者については、日本語と英語をまったく同等に使いこなすことと、村上春樹よりもずっとまえから 英語(アメリカ語)を日本語に移植するようにして文章を書いてきたらしいこと、それくらいしか知らない。合っているだろうか。
 それともうひとつ、この人が雑誌や何かで書くエッセイは、英語と日本語のちがいを扱ったものであることが多く、そのすべてが、ことごとく面白いからすごいことだと思っていた。

 この『日本語の外へ』は、片岡義男の英語・アメリカ語論であり(英語とはどんな言葉か)、それであるために日本語論となり(日本語とはどんな言葉か)、そこから当然のこととして、日本論へとなっていく(日本とはどんな国か)。
 そう書くとデカい話だが、あくまで自分が実地に見聞したところからのみ、話は進められる。書き下ろすのには1990年代の前半がまるまる費やされ、湾岸戦争をめぐるアメリカの報道を観察するところからはじまって、ときに要点の確認があり、文章は1ページもゆるまない。
 むずかしい問題を扱うこと、真面目に考え抜くこと、それでいて、まったく読みやすい文章で書くこと。すべてを両立すると、こんな本になる。そのような気さえした。

 アメリカ人の言う「フリーダム」を日本語に移し替えると「公共性」以外ありえない、とか、英語は日本語より合理的だといわれるが、英語が持つ程度の合理性なら日本語だって充分持つことができる(なのに日本語がそのように使われないことが多いのはなぜか)とか、面白い部分は山ほどあるが、この650ページある単行本の内容をちゃんと扱うには、私には知識も語学力もない。いや、本当はそんなことはきっと問題じゃないのだが、何より、体験がないのが致命的だ。
 なので、片岡義男には申し訳ないけれど、笑った部分だけ引用する。
(*以下、野放図な引用の羅列になるので先に書いておく。1997年刊のこの本は、絶版になってからいちど、ちくま文庫ではなく、角川文庫に入ったが、いまやそちらも絶版である。またどこかから復刊されることを望みます)

 さて、片岡義男の文章は、たいへんに読みやすい。決してわかりやすくはない問題について書いていても、たいへんに読みやすいから、読むほうでも書かれてある文章を追って、問題をじかに体験することができる。
《 I とYOUがないかわりに、現実のしがらみにおける、ひとつひとつの場のなかでの、自分と他者の関係のありかたを示す言葉が、言いかたのニュアンスも含めて、日本語には無限に近く存在している。自分を言いあらわす言葉と相手を言いあらわす言葉は、その両者の関係が作る小さな個別の場ごとに、微細に変化してやまない。そしてどの言いあらわしかたも、対等な関係は絶対に示さない。なぜなら、現実のしがらみのなかでの、ひとつひとつの関係の場というものは、基本的にはどれもみな、なんらかの意味において上下関係なのだから。》p378

 この文章の読みやすさは、おそらくいちど外国語(英語/アメリカ語)を経由しているからなんだろうか、というのはものすごく安易な言いかたで気が引けるし、上にも書いた理由から、そこは私には「おそらく」以上はわからない。
 しかしそれでも、日本語だけしか知らず、日本語だけしか使ったことがない私のような人間にはぜったい書けないと確信できる文章が、たまにある。これなんてどうだろう。
《「北朝鮮が核を使用するようなことがあれば、それは北朝鮮の終わりをも意味する」と、北朝鮮の核問題に関して大統領は発言した。孤立した小さな一部分にとどまり続けようとする北朝鮮というものが持つ、それを除いた全体にとっての不都合さ、威嚇、好ましくなさなどを北朝鮮自らに排除させ、全体のなかに加わるように促すという考えかたを、もっともわかりやすいかたちで、以上のようにクリントン大統領は表現した。》p212

 読めば、書いてある内容はたしかにわかる。でも、このような文章で(つまり思考法で)考えることは、自分にはまずありえない。逆か。こんな語順と用語法で考えることは自分にはできないのに、読めば内容はまちがいなくわかる。そこにおどろいた。言葉というのはすごいものだ。
(このことを人に話したくて、私は上に引いた部分を暗記しようとしたが、なかなかうまくできなかった。今もまだできない。それが、文章をつむぐ理路がちがいすぎる、ということだと思う。日本語なのに! 繰り返すが、それでもちゃんと通じるというのがえらいことである)

真実はまだ明かされない」というタイトルの文章は、本書全篇のなかでも異色で、ジョン・F・ケネディ大統領の暗殺について、公表されているレポートや映像記録を整理し、それがいかに不可解なまま終わったことにされているのかを、まとめて示すものだ。
(この事件についても、私は「オズワルドという男の単独犯行説で無理やり片付けられたけど、いろいろ怪しい」くらいの知識しかなかった)
 片岡義男は、多くの資料、実際に現場から見た景色、この暗殺に材をとった映画のスケッチなども含めつつ、あくまで具体的に、事実関係のみを書いていく。筆致はどこまでも冷静だ。
 そのなかで、“仮にオズワルドの単独犯行説を採るならば、銃弾はどのように飛んでいなければならないか”が、このように文章化される。
《第二弾が発射された。秒速二千フィートで銃口を出たその弾丸は、秒速千七百フィートから千八百フィートの速度で、大統領の肩のすぐ下に命中した。首の骨をすれすれにかすめた弾丸は、かすかに弾道を変化させつつ、大統領の首の前側面から外へ出た。弾丸は尻を持ち上げ始め、つまり頭を下げていき、飛びながら縦に回転を始めた。大統領のリムジーンのすぐうしろを走っていた、一九五六年型のキャデラックのコンヴァーティブルにいたシークレット・サーヴィスのエージェント、グレン・ベネットは、この第二弾が大統領の背中に当たるのを見ていた。
 大統領の首のなかで縦方向の回転を始めたその弾丸は、首を出て完全に半回転したのち、弾頭を下にして直立した全長一インチ四分の一の物体として、大統領のすぐ前の席にいたコナリー・テキサス州知事の右脇の下に命中した。縦に立ってなおも回転しながら、弾丸は彼の胸を抜けていった。五番めの肋骨を砕き、方向を少し変え、右の乳首の下から外へ出た。直径二インチの射出口が出来た。
 弾丸はまだ縦方向に回転していた。速度は秒速九百フィートまで落ちていた。弾丸は尻から知事の右手首に入ってその骨を砕き、貫通し、左の太腿にめり込んだ。このときの速度は時速四百フィートだった。太腿の皮下になんとかめり込むだけの力を、弾丸は残していた。[…]
 致命傷の第三弾は、大統領の後頭部のやや右に寄ったところから頭のなかに入り、右側頭部に大きな外傷を作りつつ、右目の近くから外へ出た。オズワルド説を採択するなら、狙撃者は彼ひとりだから、前方から来たという銃弾はすべて完全に否定しなければいけない。》pp177-8

 とくに2段落めからがすごい。無駄のない言葉遣いというものは、事実を述べるうえでもっとも有用だと思っていたが、無駄のない言葉遣いで無茶な軌跡を記述すると、無茶の持つ迫力が増幅される(こんな説明がむなしい)。

 あるいは、ビル・クリントンが大統領選をたたかっていた時期から、その妻に注目した「ヒラリー・ロダム」という文章。20年近く前のことである。
《ヒラリーの髪が、僕は気になっていた。》

 急にどうした、とおどろくが、これはまだまだ始まりにすぎない。ほかのページで、たとえば、湾岸戦争とヴェトナム戦争でテレビに映される映像のちがいを論じたり、日本国憲法が成立していく過程を追っていくのと同じ正確さで、言葉が綴られていく。
《似合う服と髪が、ヒラリーには確かにある。ファッションにおけるパーソナル・スタイルを、充分に発揮することの出来る素材だ。そのことに間違いはない。しかし、この一年、ヒラリーの髪と服は次々に変化した。かなりうまくいったときと、まったくうまくいかないときとが、交互して繰り返された。なんとかして自分のスタイルを発見しようとしている苦労が、服と髪の変化の連続から伝わってきて、僕はその変化を楽しみつつも、次の変化を心配し期待したというわけだ。》

《「なかなかいいじゃないか、これでいけばいいんだよ」と言えるヘア・スタイルから、「うわっ、駄目、やめろ、似合わない」と言わざるを得ないスタイルまで、ヒラリーの髪は僕を楽しませてくれた。髪をひとつのスタイルにまとめることを総称してヘア・ドゥーと言うが、ヒラリーの場合はヘア・ドント(してはいけないヘア・スタイル、というほどの意味の造語)であることのほうが、圧倒的に多かったようだ。
 だらんと垂れる長いボブはまったく良くない。ヘア・バンドもアウト。いかにも仕事に生きるふうの、よくあるいまふうの髪も駄目。昔の映画に出てくる仕事をしている女ふうの、いまではパワー・パームと呼ばれているようなパーマをかけた髪も、古くて好ましくない。服は、昔からあるいわゆる女性服のような服は、着ないほうがいい。現代の、すっきりとシャープなスーツが、彼女にはもっとも似合う。》

 謹んで申し上げたい。何やってんすか。
 それでも、最終的には、
《一九九六年十月現在では、ヒラリーの髪はひとつの完成域に達している。あるいは、自分にはこの髪だ、と心から思えるようなスタイルを、彼女は見つけている。ヒラリーの髪に、少なくともいまは、僕は心配も不安も持っていない。》

 それはよかった、と私も安堵した(以上、pp221-6)。そして、いまのヒラリーについてどう思っているのか、ぜひ聞いてみたくなった。
 
 ここまで書いてきて、やっぱり、この本を紹介するのにひどくまちがったやりかたをしてしまったという気持にとらわれている。だって、こんな本ではないのだ
 本書が繰り返し伝えているのは、言葉の使いかた、喋りかたがその人の考えかただということで、つまり、言葉こそがその人だ、ということになると思う。
 だからあとは、ウェブで読める片岡義男の文章を紹介して終わりにしたい。はじめからそうすればよかったが、いま思い出したんだから仕方がない。

 数年前まで、「先見日記」というサイトがあった。
 (http://www.nttdata.co.jp/diary/writer_list.html
 このアーカイブの、上から6番めに片岡義男はいる。私はこれをけっこう読んでいたはずだが、どんなことが書いてあったかは、ほとんど忘れていた。でも、いま目次を眺めていたら、ひとつだけおぼえていたタイトルがあった。これである。
 →「きみは知らないだけだよ

 これほど読み応えのある文章を大量に書き続けてくれる人に対して、まったくおそれ多いのだが、いっさい意味はなく、ただ言葉の響きの問題として、はじめて読んだときも読み返したいまも、つい声に出してしまうのだ――「ユー・ジャスト・ドント・ノー・ヨシオ」。



花模様が怖い―謎と銃弾の短篇 (ハヤカワ文庫JA―片岡義男コレクション)花模様が怖い―謎と銃弾の短篇 (ハヤカワ文庫JA―片岡義男コレクション)
(2009/04/05)
片岡 義男

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(2009/06/10)
片岡 義男

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*また、去年出た短篇集について、堀江敏幸による書評がまだここで読める(毎日新聞「今週の本棚」2010/08/22)
ミシェル・レリス『レーモン・ルーセル ――無垢な人』(1987)
レーモン・ルーセル―無垢な人
岡谷公二訳、ペヨトル工房(1991)

《私は、父がルーセルのごく親しい友人の一人だったため、彼をよく知っていたので、ルーセル・ファンの関心を引くかもしれないと考え、以下主として、この驚くべき作家の芸術上、文学上の好みや、その仕事振りについてのいくつかの資料をつけ加える。》p10

 本書には、(1)ミシェル・レリス(1901ー1990)が、レーモン・ルーセル(1877-1933)について書いた種々の文章のほかに、(2)ルーセル自身のエッセイ「私はいかにして或る種の本を書いたか」と、(3)訳者・岡谷公二による論考「『アフリカの印象』から『幻のアフリカ』へ」が収められているが、以下はすべて、(1)からの引用を並べたものであり、本当に引用だけである。
 なぜなら、そのほうが手っ取り早くて楽だからだし、それにそのほうがいいような気がしたから、というのは読んでいただければおわかりいただけるのじゃないかと思う。相当に、長いけれども。
 そして、もしレーモン・ルーセルに興味をもつかたがいらしたら、おわりにこの特異な人間の書いた特異な小説を2冊リンクしておくから、ぜひとも手に取ってみていただきたいなと思う。
(こんなふうに書いているけど、私じしん、その2冊以外にルーセルのことを知りません)

■ 「レーモン・ルーセルに関する資料」:
《車で旅行をする時、彼は、風景はそっちのけで、読書をしていた。丸々一冊は持ってゆかず、一部のページを破って、ポケットにつっこんでいったのだが、それは、何を読んでいるかを人に知られるのが嫌だったからである。》p12

《子供向きの見世物に夢中で、ばかにせずに人形劇を見にゆき、「お子様劇場」の上演は欠かさなかった。それでも、デュフレーヌ夫人と、子供も連れずに大人だけでそうしたところへゆくのがいくらか気恥ずかしかったとみえて、しまいには、知り合いの少女に一緒に行ってくれと頼むようになった。この少女を介して、正解コンテストに参加し、耳打ちした正解の賞品として、少女がおもちゃをもらった時には、大喜びだった。》p13

《文体について言うと、ルーセルが追求したと思われる目標は、出来るかぎりの文法上の正しさを別にすれば、最大限の正確さと簡潔さだけである。[…]「一つ一つの話を、できるだけ少ない言葉で書いてみようと思ったんだ」、ルーセルは、おおむねこんな意味のことを言った。ルーセルの精神が生み出した奇想天外な創造が、雲をつかむような想像から、疑いようのないリアリズムへと忍耐づよく移され、現実性を帯びるに至ったのは、このような明確さに対する細心の配慮のおかげであり、また、その詩的着想から必然的に生まれた、きわめてばらばらな諸要素のあいだに、なんとしてでも厳密な論理上の連関を作り出さねばならぬとしたその努力の賜物である。》pp18-9

《栄光を当然のものとみなし、たとえば、まだサロンに出入りしていたころ、誰一人、彼の発する輝きに気付かないようにみえたことに、ただ素直に驚いていた彼は、どんな賞賛にも満足しなかった。いかなるほめ言葉も、自分が当然期待してしかるべきものに比べたら及ばないと考えたからである。》p20


■ 「旅行者とその影」:
《ルーセルが行った最初の旅行の一つは、第一次大戦の数年前に、母とともにしたインドへのクルージングだった。この母親は、途中で死ぬかもしれないという考えにとりつかれていて、棺を持って行った。ルーセルはといえば、船が南十字星を見ることができる緯度まで南下する随分前から、いつ見えるかと毎日船員たちに訪ね、これから彼を待ち構えているどんな変わった風景や住民よりも、はるかにこの星に関心があるように見えたという。》p25

《世界一周の間、ルーセルはあまり何度もトランクの荷造りをしたので、見るだけでぞっとするほど、あらゆる種類の手荷物が大嫌いになってしまった。これが、キャンピングカーを作らせた理由で、この車に乗って、彼はイタリアへ行った。》p28

《いくつかの町、とりわけ子供の頃の幸福な思い出の結びついている町は、彼にとってタブーだった。たとえば、エックス=レ=バン(そこを、彼は汽車で通ろうとさえしなかった)、リュション、サン=モリッツがそうで、思い出を台なしにするのを怖れて、これらの町へもう一度行こうとは決してしなかった。》pp31-2

《実際、彼は、いついかなる時にも観光には心をうばわれず、外部は、彼が心の中に持っていた世界と決して相わたることなく、どの国を訪ねても、予め心の中に持っていたもの、つまり彼固有のこの世界と完全に一致した要素しか見ようとしなかったらしい。》p32

《すべての真の詩人同様、誰よりも、この世界で自分は一人きりだと感じていたにちがいないルーセルは、おのれの天使と悪魔の行列を、至るところにひきつれて歩いた。つまりそれは、星に対する固定観念であり、贅沢さと快適さに対する嗜好であり、甘いものに対する好みであり、最高の名誉や、格付けされた奇蹟や、ゴータ年鑑に名が出ることへの偏執や、老化と死に対する強迫観念、幼年期へのノスタルジー、トンネルの中にいる時だけ彼の胸を締めつけたわけではない強い不安であった。》pp33-4


■ 「『新アフリカの印象』をめぐって」:
《彼の書くところによると、一九一五年に着手された『新アフリカの印象』の初稿では、「直径二ミリの左右の筒の一方には、カイロのバザールの、他方にはルクソル河岸の写真がはめこまれていて、目をあてて覗き見ることのできるようになっていた、ごく小さなペンダント式の小型双眼鏡が問題だった」という。》p44

《その構成自体がめまいを起こさせるようにできている、半ば暗号文に近い本文の余白に、詩の或る種のくだりを直接絵解きした一連のデッサンが並んでいる。私は他の場所で、画家ゾーの作品であるこれらの挿絵が、注文によって、いかにして描かれたかを書いたことがある。ルーセルは、私立探偵事務所を介して、本文を知らない画家にその指示を伝えたのであった。》p46


■ 「レーモン・ルーセルにおける想念と現実」:

[…] シャルロット・デュフレーヌ夫人が私に語ってくれたところでは、彼は、彼女が歯医者に対して抱いている恐怖について(蛇に対する恐怖も同様)、絶対に話してくれるなと頼んだという。というのも、その恐怖が自分に伝染するのを怖れたからなのだ。》p65

《現実にはあちこちに罠が仕掛けられているため、それと日々接触するには、ルーセルには、多くの用心が必要だった。たとえば、トンネルの中にいると不安でならないので、それに、自分がどこにいるかをいつも知っていたかったので、或る期間、彼は夜汽車で旅行するのを避けた。》pp66-7

《「疑いようのない栄光に対して、尊敬が払われないとはおそろしいことです。悪口を言う唯一人の人間の方が、三百万の賛美者よりも、私の眼にはおそろしい。満場一致でないと、私は、気が済まないんです」》p68

《「あの人の生活は、あの人の本と同様、秩序だったものでした」と、ピエール・ジャネ博士は、彼の死の数ヶ月後に私と交わした会話の中で言った。この著名な精神病医は、彼を診察し、きくことのできたさまざまな打明け話を記録したのだが、彼を、博士自身の言葉に従うなら、「哀れな病人」とみなしており、その天才を全く認めていなかった。》p69

《ルーセルとその特殊な学殖について私と話していて、「あの人は中学生だ」(その場合、他の人々は小学生なのである)と言ったマルセル・デュシャン》p78

《大衆の眼にどれほど突飛で異様なものに映ろうと、彼は、民衆や子供の想像力と同じ泉から水を汲んでいる》p81

《この天才的作家の生活には、なんらかの神秘的な意図が彼のなかに存在したことをうかがわせるものは――「あまねき栄光」の感覚につらぬかれたという事実も含めて――何もないのである。》p83

《ルーセルの作品の中に解かねばならない謎がまだあるとしても、それは、彼が、子供劇場で、得々として解いてみせた謎々と同じ種類のものではないか、と思わずにはいられない。》p86

《彼が作り出すものは、ひたすら、こしらえものであればあるほど、現実に少しも頼らず、彼の天才の力だけで真実となっていればいるほど、価値があるのだ。》pp86-7

《「彼らは言うのだった、
 翼を身に感じるこのわれら、いかにして
 いやしい肉体を捨てるべきか、と。
 死ね、と彼女らは言うのだった。」》p87

《一九三二年、レーモン・ルーセルはもはや書かない。彼はチェスをはじめ、睡眠薬(バルビツール剤)の中毒になる。》pp87-8

《当時彼は、コップを持ち上げるのがやっとで、殆んど食べさせてやらねばならなかったほど体が弱っていた。薬を飲んでいるので、寝台から落ちるのを心配し、床にじかにマットレスを敷いて寝ていた。食べたくないときに彼が口にした理由は、《よい気分》を乱すから、というのだった。》pp91-2

《晩、彼は夫人に向い、今夜はあなたはゆっくり寝てほしい、今日はとても気分がいいし、睡眠薬も余り沢山はのまなかったから、と言った。》p92


■ 「レーモン・ルーセルについての対話」:
《言葉による構築、言葉遊び、それだけです。でもこれで十分じゃありませんか? 全然神秘家なんかじゃありませんでした。あの人が錬金術の秘義に通じていたとブルトンが考えたのは間違いです。》p99




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