2010/06/20

読めるだけ読むM&D その12

Mason & Dixon

前回…] [目次

 肌に粘りつく湿気のせいなのか何なのか、なんだか今週は苦戦した。部屋では眠ってばかりいた。なので20ページしか進んでいない。

■ 第21章(pp207-14)

 まだメイスンの故郷の話みたい。
 それでまたレベッカとのことが描かれて、むかしふたりで月明かりに照らされるストーンヘンジを見に行ったときのこととか読むと簡単にほろりとさせられてしまうんだけれども、もしかするとこういうところが、「新潮」2010年5月号のピンチョン特集で紹介されていた、「ピンチョンの描く女性像や性描写には、十四歳の子供が抱く深さやニュアンスしかない」という評にあたるのかもしれない。

 でもまあ、種々雑多な小話を次から次に繰り出して、あっちこっちのエピソードを謎の配線でつないでいく(わかるようでわからない/わからないようでわかる気もする)ピンチョン小説を駆動するのが意外と単純なエモーションであることは、『V.』のむかしから一貫していたと思う。
 あの長篇に出てくる"Keep cool, but care."(クールであれ、でも思いやりも忘れずにね)って言葉は、皮肉ではなく字義通りに発されていると思うし、『競売ナンバー49の叫び』の後半、もうこの世にいない大富豪がヒロインに向けた思いも、「いい気なもんだ」ではあるせよ、そういうものとして純粋な感情だった。
 レベッカの生前は愛妻家だったのかと言えば、それはそれとして、星のことばかり考えていたメイスン。いま、自分の子供を見ても亡妻の面影を探してしまうこの男の、ひたすらうしろ向きな姿の描かれかただって、ぜんぜん悪くないと私は思った。ただ、読みにくいだけである。あと、はやくアメリカに行ってほしい。
(しかしこのあたり、もうアメリカには「行くことになってる」ように読める部分がいくつかあって気になった)


■ 第22章(pp215-27)

 そろそろだろうと思っていたが、久しぶりにディクスンが出てきた。こっちはこっちで、故郷の町ダーラムに帰っている模様。
 が、この章に苦戦した。読もうとしても5行で力尽きるような夜が続いた。なんでこんなに読みにくいんだろうと首をひねりつつ、それでいて、翌日もういちど見てみると、前夜さっぱり歯の立たなかったところが一応は内容を推し測れるくらいにはなっていたりする。かと思えば次の3行であたまのなかが濁り、気がつくと眠っている。なんなんだ。
 どっちにしろたいしたものではないにしても、この“読める程度のブレ具合”が、ろくに読めない英語の本をのろのろと追っていく醍醐味なんである――とでも考えないとやっていけない。この過程が面白いと、私は思っている。いまそう決めた。
 ここでディクスンは、昔からの知り合いや、もと先生らしき人と会ったりするんだが、旧交を温め合うというよりは、いろいろ激論に巻き込まれるかっこうだ。「いろいろ」。私に読めるのはそのくらいである。
 でも、いちばんウソくさい描かれかたをしている人間(霊能力者であるとか、夜、空を飛んでるのを目撃されたとか、メスマーの先駆けみたいなやつであるとか、好き放題に書いてある)こそが実在の人物この人だったりして、ピンチョン、たぶんすごく楽しんで書いているんじゃないかと思われた。
 考えてみればディクスンもメイスンも実在した人間であるわけで、このような“歴史小説”って、これまでほとんど読んだことがなかった(ちなみに「龍馬伝」も見ていない)。アメリカに渡ると、もっともっと実在の有名人が出て来て純然たるフィクションの人間と入り混じるらしい。それも楽しみにしておこう。

 そのアメリカについて、この章では「イギリスでごたごたが落ち着いたら、戦いの場はアメリカに移るだろう、あんな場所にもそれくらいの使い途はある」みたいな言われかたをしているくらいだから、清教徒革命からこっちのイギリスの政治だとか、イエズス会の中国進出がどうしたとかいう話が、うねる文脈のなかにぎゅうぎゅう押し込まれているようだったが、はじめて知ったのは"Ley-Lines"なるお話だった。
 これはなんでも、数かずの古代の遺跡をつないでいるという仮想上の直線のことだそうで、ローマ人はこの線に乗せて自分らの力を伝播していきたかったんだろう、みたいなことがたしか書いてあった。
 ディクスンもメイスンと一緒に、もうあと少しで仮想の線を新大陸に引っぱりに行くことになるはずだ。やはりこちらの章でも、もうアメリカには「行くことになっている」ように読める部分もあったりしたのが、私の願望のなせる早とちりではないことをねがっている。
 ところで、この章でディクスンに向けられた質問と答えがこれ。
《「君の生きる目的は何かね」
 「測量、です」》p220

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2010/06/13

読めるだけ読むM&D その11

Mason & Dixon

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 新潮社の邦訳『メイスン&ディクスン』は6月30日に発売なんだけど、同じ日に刊行の福永信『星座から見た地球』も楽しみ。こっちのほうをたぶん先に読むと思う。ここの後半で書いた、“ABCDシリーズ”をまとめたものになるみたいでわくわくしている。
 それで新潮社サイトに行ってみると、もう書影も出ていた!・・・てことは、そう、ピンチョンのほうも上巻下巻とお目見えしていたのだった。


■ 第18章(pp183-9)

 で、私のメイスンとディクスンは、ようやくイギリスに帰ってきたところだった。長かった。ここまでが長かった。でもすぐに「新大陸に線を引け!」とはならず、メイスンは姉妹の住んでるところへ会いに行く。そこには亡妻レベッカとのあいだに生まれた子供もいるみたい。かつてレベッカは、天文学者のメイスンは星々の世界のほうへ行ってしまったとさみしく笑っていた。いまメイスンは、夜空の星座に妻をさがしている。
 このしんみりした話とはあまり関係ないが、ドラえもんでのび太に「冒険好きのおじさん」がたしかおり、たまに帰ってくるとまとめてお年玉をくれる、というのに子供のころ胸を熱くしていたんだけど、あれがおじさんでなく父親だったらちょっとつらいかもと思った。あと、メイスンは別に好きで冒険しているわけではない。本当に関係なかった。


■ 第19章(pp190-8)

 まだメイスンの地元。1752年、ユリウス暦からグレゴリオ暦に改暦されたときのことが回想される。
 この改暦については、以下の記事がわかりやすかった。フランス革命には関係がなく、池田理代子先生には申し訳ないことだった。
 →「ベルばらKidsぷらざ」:グレゴリオ暦とフランス革命暦 1752年
1752年に改暦が法制化されたイギリスでは、労働者たちの暴動が起こった。なぜなら「9月3日水曜日の翌日を9月14日木曜日とする」と発表されたため、11日間が消滅してしまい、この消えた11日分の賃金を支払わない雇い主が出たりして、タダ働きさせられた労働者が怒ったのだ。

 この「消えた11日」の話を扱った本を、ずっとまえに読んだ記憶がある。歴史小説かと思ったら、暦のしくみを子供に教えるレクチャー本で、ぜんぜん盛り上がりがなく、すぐ売ってしまった。
 たしか、『○○○○と消えた11日間』みたいなタイトルだったと思うんだけど(○○○○は子供の名前)、いまあちこち検索しても見つからない。この本じたいが消えてしまったみたいで不思議な気分だ。

 酒場に集まる男たちは単純に「寿命が11日、短くされちまった!」みたいな感じで怒っており、この改暦を行った天文学者を「みんなの時間を盗んだ」と非難している。
 自分も天文学者であるメイスンは、ちょっとだけ説明責任を感じるけどすぐにあきらめ、逆に“はるかな東から奇怪な音楽を吹き鳴らしてイギリスまでやって来て、失われた11日間の中に棲みつくピグミーの一団”などという与太話を開陳、一座を震え上がらせる。なにしてんだ。


■ 第20章(pp199-206)

 メイスンが姉夫婦の家を訪ねる。妹夫婦だったかもしれない。どっちにしろあんまり乗り気ではない模様。まだ小さい男の子を2人預けているんだけど、片方はメイスンを父だとおぼえてもいなかったり。
 メイスンは「今度はアメリカに行くかも」と伝え(!)、子供のことでいろいろあって、自分の父に面会しに行くことになる。
 これにはさらに乗り気ではない模様、というのは、どうもパン職人であるらしい父とメイスンの仲はよろしくなくて、過去、パン生地をこねていた時分のメイスンの姿なんかが語られる(あと、いま現在のメイスンが34歳であることもメモしておこう)。
 メイスン父にもひと癖あって、なにしろ「パンは生きている」が信条だった。メイスンの子供-メイスン、メイスン-メイスン父、という2組の父子関係があり、そこにパンの話がくるんだから、きっとおそらくこの章はキリスト教に触れているんだが(というか、そう書いてある)、とりあえず若いころのメイスンは、「パンの中にキリスト様が入ってるっていうんなら、ほかのうれしくない悪霊なんかも入っちゃってるんじゃないのかなあ」などと考えていた。

 父親が頑固な職人。かつ、スピリチュアル。勘弁してもらいたい。そんなことよりこの章、特筆すべきは“読みやすかった”ということで、これから先もこんなふうならいいのだけど、たぶんそういうことは、ない。
 ところで、「スピリチュアルおやじ」と書くとまるでしりあがり寿の作品のようで、実在しないのが不思議なくらいである。そしてディクスンは今ごろどうしているのか。

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2010/06/04

読めるだけ読むM&D その10

Mason & Dixon

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■ 第16章(pp167-74)

 ディクスンに促され、メイスンが亡き妻との思い出を語る。しんみりした話だろうに、はじめの出会いはチーズ転がし祭りだった――

 まあ、私もそんな祭りのことは聞いたことがあり、いちおう調べてみれば例によってWikipediaに詳しく記載があるんだが、それより動画を見たほうがはるかに早い。
 丘の上から転がしたチーズを追って、人間が転がる速さを競う・・・なんだろう、スポーツ? いや、年中行事・・・ もとい、チーズ転がし祭りはチーズ転がし祭りでほかに言いかえようがない、と思わされる。





 動画はほかにもいろいろあり、インパクトが強すぎて(人がゴミのようだ)小説をほったらかし、しばらく見入ってしまう。
 たしかに最初はチーズを転がしているが、そんなことは雪崩をうつイギリス人を見ているうちにきっと忘れる。でも小説では、ここで決して忘れようのない、ベヒーモス級の巨大チーズ(高さ3メートル、重さ4トン)が転がって若きメイスンを襲うというおそろしい話になっていた。
 このようなお祭り大波乱の最中にメイスンはレベッカと出会ったんだそうであるけれども、動画に気を取られているので今回は以上です。本末転倒、という言葉が似つかわしいと思う(2007年のやつはとくに傾斜がきつく見える)。

(チーズ転がしの話は、たしか堀江敏幸の小説でも使われていたような記憶がある。『熊の敷石』だったっけ? もっとひどいのでは、佐藤哲也が“女房転がし”なるものを発明していたと思う。『イラハイ』?)


■ 第17章(pp175-82)

 まだまだセントヘレナ島。
 できることなら本と電子辞書だけ持ってファミレスにでもこもりたい、そうすれば今よりずいぶんはかどるんじゃないか、という気持を捨てきれずにいたのだけど、はっきりわかった。そんなの無理。ネットがないと読めません。
 この章で扱われる史実は「ジェンキンスの耳の戦争」、その経過をググってつかまないことには、「どうしてここで耳の話?」とクエスチョンマークの泥沼にはまって進めやしなかっただろうこれとかこれとか)

 マニアックな知識にもいろいろあるが、マニアックな歴史の知識以上に役に立つものはないんじゃないかと思われたことだった(「ジェンキンスの耳? そんなのどこがマニアックだよ!」みたいな)。
 ググらないにしても、注釈サイトには世話になりっぱなしです。邦訳では、しっかり訳注が付くんだと思われる。しかも、読みにくくなる巻末注ではなく、見開きの左ページ下段隅にまとめられると予想。

 大国同士の戦乱を生むきっかけとなった耳の持ち主ジェンキンスは、じっさいセントヘレナ島と浅からぬ関係があるという史実と、史実にインスパイヤされた与太話(メイスンは「耳の博物館」で冷や汗ものの体験をする)。そして与太話からなぜか湧き出す詩情(メイスンはディクスンのことを・・・)。
 満腹した気持でいたら、章の終わりでついに進展の予感がきた。

 メイスンとディクスンが、ついにセントヘレナ島からイギリスへの帰途についている! しかも船上でふたりの話題にのぼるのは、最近ロンドンの王立天文台に持ち込まれたらしい面倒きわまりない案件、すなわち、新大陸でペンシルヴェニアとメリーランドの境界を画定する大仕事のことだった!!

 ・・・すこし考えて、ふたりは「その仕事はたぶん、われわれには来ない」と結論する。

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