2010/05/31

読めるだけ読むM&D その9

Mason & Dixon

前回…] [目次

 いよいよ公式チラシもできて、新潮社の“トマス・ピンチョン全小説”が迫ってきた感がある。そのチラシにいわく、『メイスン&ディクスン』とは――
新大陸に線を引け! ときは独立戦争直前、ふたりの天文学者の測量珍道中が始まる――のちに合衆国南部と北部を分けることになる、歴史的な境界線を定める旅の果てとは。
 柴田元幸氏渾身の訳業により、かつてないピンチョンが姿を現す。

 むちゃくちゃ面白そうじゃん、これは楽しみだ! と、なぜか屈折した期待をかき立てられているのだが(私はいまそれを読んでるんじゃないのか)、6月末までには私のメイスンとディクスンも、せめて新大陸にたどり着いて測量を始めるくらいにはなっているのだろうか。
 なお、“全小説”のチラシ実物は、新潮社に電話するのがいちばん手っ取り早い入手法だと思われます。


■ 第14章(pp146-57)

 まだまだセントヘレナ島、かと思ったら、この章はケープタウンに戻ったディクスンの話だった。
 ディクスン、こないだまで世話になっていたオランダ人のおっさんに、なんだかいかがわしい店へと連れて行かれる。いかがわしいので詳述はしないが、というか詳述できるほどちゃんと読めなかったのだが、そこで紹介された言葉から注釈サイト → グーグル様、とたどっていって、さっきまで聞いたこともなかった「カルカッタのブラックホール」なるものを、いまの私は知るようになった。
 はじめは、カルカッタに宇宙と関連するような事件が何か起きたのか、ありうる話としては隕石でも落ちたんだろうか、でも隕石とブラックホールはちがうと思う・・・ などと考えていたのだが、出てきたのは予想とはぜんぜん別なことだった。下のサイトに詳しい。

 カルカッタの「黒い穴」事件
 http://www.nazoo.org/marderer/blackhole.htm

 リンク先の記述はたいへん興味深いのだけど(とくに最後!)、いま、小説の舞台が1761年のアフリカであることから考えると事件の発生した年はたぶんちがっていて、作中では(あとWikipediaでも、1756年とある。

「歴史ってすげえ」と、ひどく雑な(でもほかに言いようのない)おどろきかたをした私だが、自分が知らなかっただけでじつは有名、というのはたいへんよくある事態だから、せんじつ顔を合わせた人間3人に「カルカッタの黒い穴って知ってる?」と尋ねたところ、やはり1人はご存じだった。でもなんで知ってるの。
むかし『ムー』で読みました

 あなどりがたし、ムー。


■ 第15章(pp158-66)

 さて、上の行まで書いたところで、ついつい1週間ほど読むのをサボってしまった。
 あらためてページを開いてみると、目が英語を受けつけない。ちょっと単語を調べたくらいでは、文字面が私の視線をはね返す。いっこうに内容がわからない。こんなに読めなかったっけ。
 なのでさらに1週間サボり、ああ、このへんで挫折か(意外と早かったな)と嘆息したのだが、「読めない部分は読み飛ばす」の精神を思い出して再度取り組んだ。いや、飛ばした。
 それにしても、読むのが難しいところを読み飛ばすのもまた難しい。もうちょっとがんばれば、少しは内容が見えてくるかもしれない → それでも読み飛ばす、のは惜しい気がしてしまうし、だからといって読めないし、どこまで読み飛ばせば再びとっつきやすい部分が出てくるのか保証もない。それに、と愚痴はいくらでも出てくるのだがまあいいや、この15章はまたセントヘレナ島で、私じゃなくてネヴィル・マスケリンのとめどない愚痴をメイスンが聞かされる話だった。
 で、たぶん、おそらくまた、植民地支配の悪と病、みたいに抽象的なことが島の風物の具体的な描写に重ねてぐいぐい語られていて、どうやらこのテーマになると私はてきめんについていけなくなるようだ。これがこの小説の背骨なのかもしれないが、読めないものは仕方ない。
 しかし「お」と思ったのは、そういうむつかしい話だけでは終わらずに、最後の部分で人間メイスンにすーっとピントが合わされるところ。

 じつはメイスンは2年ほど前に妻を亡くしており、以来ずっと、鬱々した気持を引きずっていた。
(その気持の反動が、ロンドンの首吊り処刑を欠かさず見に行くというかたちで発現していたんだから人間心理ってやつは複雑である)
 セントヘレナ島には強風が吹きつける。そしてメイスンはある時、この風の中に亡妻レベッカの声をはっきり聞くのだった。
 なにしろ科学者という理性の時代の申し子であるメイスンは、死後の世界のある/なしにこれまでも思い悩んできた(理性に基づいて考えた結果、「あるんじゃないか」となるのが面白い)。
 ケープタウンから島に戻ってきたディクスンにメイスンが悩みをぶつけるラストのやりとりは、ぜひ翻訳で読み直したい要チェック箇所である。なんとなれば、不器用な田舎者として書かれることの多かったディクスンが、苦しむメイスンにかけた言葉は素朴なぶんだけやさしくて、私はちょっとおどろき、もうしばらくこの2人組に付き合ってみようという気にさせられてしまったからだった。
"Thou must," Dixon does not say. Instead, tilting his wine-glass at Mason as if 'twere a leaden Ale-Can, he beams sympathetickally. "Then tha must break thy Silence, and tell me somewhat of her." (p166)

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2010/05/17

読めるだけ読むM&D その8

Mason & Dixon

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 ちょっとまえに最初の100ページは越えた。ぜんぶで773ページあるから6月末までにはやっぱり読み終わらないだろうけど、それでもいくらか気持が明るくなったのは、10年以上前のこの座談会が記憶にあったから。

ぼくらは30年間こんな風に小説を読んできた:柴田元幸/宮脇孝雄/若島正 (1997/08/22)

 すごいメンツ。冒頭にこんなやりとりがある。
柴田 今読んでいるのはピンチョンの新作なんですけれど、まだあと500ページくらい残っているんですよね。若島さんはもう読まれましたか?
若島 いいえ。うちの大学にピンチョンを読んでいる学生がいるんですけど、彼が一足さきに読んでいて、結果報告をしてくれました。彼が言うには、最初の100ページを読むのはしんどいけれど、それを超えるとなかなかノレますよ、と。

 ここでいう「新作」がMason & Dixon である。やっぱりしんどかったのか! でも、この先がほんとうに読みやすくなっているとしても、私なんかでは「すごくすごくしんどい」が「すごくしんどい」になるくらいじゃないだろうか。
(若島正の近くにいた「ピンチョンを読んでいる学生」というのは、のちにピンチョン論で単著を出す人じゃないかと思ったけど、根拠レスな想像です)


■ 第12章(pp116-24)

 セントヘレナ島。
 メイスンとディクスンがケープタウンまで行かされたのと同様に、この島にも別の英国人天文学者、ネヴィル・マスケリンが派遣されていた。
 この章のほとんどは、そのマスケリンとメイスン、ディクスンの3人が酒場でくだを巻く話なんだが、マスケリンとメイスンには何か因縁があったのか(読み取れず)、険悪な感じである。酒は飲むんだけど。

 これまでもそうなんだけど、長い会話文が連続すると、わからない部分がいっそう多くなる。とくにここでは、嫌味や当てこすりが頻発されているみたい、ということは薄々つかめても、その具体的な内容はさっぱりだ。
 あと、メイスンたちがケープタウンで使っていた時計と、セントヘレナの時計を交換する話があって、人間が目を離した隙に、「そっちはどんな具合だい」とふたつの時計が会話を交わすという、自由すぎるシーンがあった……気がする。
 もう、ここに私が書いていることは、ぜんぶ「たぶん」「おそらく」「気がする」「かもしれない」である。

 ところで、なんだかいけすかないやつとして書かれているマスケリンは名門の一族のようで、辞書(リーダーズ+プラス電子版)にも、このネヴィル・マスケリン(1732-1811)のほか、ふたりのマスケリンの名前があがっていた。
 まず、彼の孫にあたるマスケリンは鉱物学者(1823-1911)で、(異説もあるみたいだが)さらなる子孫には、ジョン・ネヴィル・マスケリンという奇術師がいた(1839-1917)。《時計職人であったが、自動機械装置に興味を持ち、奇術の道に入った。》という辞書の記述は、なんだかスティーヴン・ミルハウザーの小説に出てくる登場人物を現実がなぞっているみたいである。
 しかも、この奇術師マスケリンの項目には続きがあった。
《彼の孫Jasper(1903-73)も奇術師で、第2次大戦中はその特異な知識を用いて敵を撹乱した》

 これ、楽しんで書いてないか? 辞書だからといって油断のできないことである。「特異な知識」があまりに気になり、ググってはリンクをたどっていくうちに今日もまた夜は白々と明けてゆき、小説はいっこうに進まない。この状況のぜんたいが、私を相手に仕掛けられたイリュージョンのようである。いやだろう、それは。
 それにしても、ここにある顔写真の胡散臭さはいったい何なんでしょう。


■ 第13章(pp125-45)

 ディクスンは何らかの事情で(器具の調整?)ケープタウンへしばらく戻ることになり、メイスンは気の合わないマスケリンとふたりでセントヘレナに残されている。
 そのマスケリン、徐々にメイスンに近づいてくる。この島に愛憎入り交じるたいへんな思い入れがあるらしく、次第にメイスンは「ああ、やばい人なんだ」と判断、距離をおこうとする。
 本来の目的だった金星日面通過の当日も、この島は曇りだったせいで観測できないなど、マスケリンは不運続きで、なんだかかわいそうな男である。天文学者であることの悩みや不安などが熱っぽく、でもぐちぐちと語られるので、メイスンのほうでも共感する部分があったりなかったり、なぜか占星術でもってメイスンとディクスンが分析されたり、とにかくこの章は読みにくかった。
 
 100ページを越えてから、むしろ停滞している。原因であるネヴィル・マスケリン(天文学者・29歳)、きみのことは忘れない。
 でも次の章もまだセントヘレナなんだろうな……

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2010/05/09

読めるだけ読むM&D その7

Mason & Dixon

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■ 第10章(pp94-104)

 1761年6月5日(金)、ようやっと金星の日面通過が起こる。メイスンとディクスンも待っていただろうが、私も待っていた。そして私だけでなく植民地の白人も盛り上がり、そのさまを見て奴隷たちもおどろいている。
 みんなをひとつにする意味で、この天文現象は、宗教的体験とも並べられていた。あと、それが何月何日の何時に起きるかまで予測できていた科学の力について云々があった気がする。
 ディクスンの観測がメイスンのものとズレていたというのが面白い。でも時間が経つにつれ、白人は白人に、奴隷は奴隷に戻っていくのだった。
 それから4ヶ月してふたりはケープタウンを発つ。やれやれ。

(チェリーコークによってこの話が語られている居間では、日面通過がどういうことなのかの説明で、太陽系の模型が使われている。「地球儀」に較べると、「太陽系儀(orrery)」はものすごく落ち着きの悪い語だ。語呂も悪いし馴染みもない。太陽系儀。太陽系儀。繰り返しても同じである。
 ところで、居間の聞き手は双子だけでなく、どんどん親戚が増えている。それぞれがまた充実した背景を抱えているみたいだが、今後も活かされるのかは定かではない)

 あんまりウィキペディアばっかり引いていると呆れられそうだけど(学生だったら零点である)、最初の近代的「太陽系儀」を作ったコンビの片割れが、トーマス・トンピョン(Thomas Tompion)という名前だったというのはメモせずにはいられなかった。
 トンピョンとピンチョン。そんなことで喜ぶのは子供である。


■ 第11章(pp105-15)

 観測が終わったんだからはやくイギリスに帰ればいいものを、なぜかメイスンとディクスンはアフリカ大陸の西、セントヘレナ島に来た。なぜ。
(さらに、語り手であるチェリーコークはケープタウンを去るときふたりと別れ、東に向かったそうなので、セントヘレナにはいなかった。何をもとに語ってるんでしょう)

 セントヘレナは小さな島で、激しい波が打ち寄せる。ナポレオンが流されたのがたしかここだが、小説の時代はもっと前だ。ここでも奴隷の話が出てきて、さらには処刑台もあり、なにせ、奴隷制に処刑台がなかったら、十字軍に十字架がないのと同じなんだそうである。
 処刑台といえばメイスンで、この観測行に出るまえ、彼はロンドンで毎週金曜に行われる公開首吊りへ通い詰めていた、という話が第3章にあった。
 なんの偶然なんだか、その当時、首吊り見物のさなかに知り合った女性がこのセントヘレナに来ていて、メイスンのことをおぼえていた。なんだそれ。ふたりはミュージカルのように歌いながら再会を祝する。なんだこれ。
 フロリンダというこの女性、今後もストーリーに絡んでくるわけでない脇役だと思うんだが、例によって過剰なキャラ付けが施されている。処刑台を見ながらメイスンに放った第一声が、吊られている男性の身体の一部分についてだったのは、私の読みまちがいではたぶんないと思う。

 今回の部分を読んでいる最中に、理論社のサイトで連載されている長嶋有のエッセイが更新されていた。「安全な妄想」の第3回、「水金地火木土天海冥」は、奇しくも太陽系の話だったので、金星が、太陽系儀が、という話とかすかにリンクしているように私には思われて面白かった。
 こういう偶然があるんだから、首吊りファンの英国人ふたりが絶海の孤島で再会してもいいのかもしれない。長嶋エッセイのほうは、もう反則じゃないかという奇跡の語句が4ページめにあった。

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2010/05/06

読めるだけ読むM&D その6

Mason & Dixon

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■ 第8章(pp77-86)

 ケープ植民地でのメイスンとディクスンは、次第に奴隷の側に入っていく。それはべつだん大所高所に立った人道的な理由からではなく、“料理がうまいので、マレー人の地区に入り浸るようになる”、という流れ。
 東洋のスパイスをふんだんに使った、クジャクのカレー風味やらガゼルの煮込み、タマリンドのピクルス、ヤマアラシの揚げ物などなど、どれもオランダ人の食卓には並ばない、というか、ふつうの白人だったら食べ物とも思わない食べ物のかずかずを、およそ何でもふたりは食べる。とくにディクスンは、市場で手に入れたケチャップがお気に入りで、オランダ人からは「あんなアジアの汚いものを」と眉をひそめられている始末。

 あと、"Krees"という変わった刄物が、マレー人と結びつけられてたびたび出てきた。こういうとき便利なのが注釈サイトで、たとえばここにピンチョンWikiの、Mason & Dixon のページなるものがあり、アルファベット順、またはページ順の注釈が作られている。
 もっとも、私の場合は注釈のない部分でずっとつまづいている(たんに英語が読めない)ので、いまいち使いこなせていないんだけど、上述の"Krees"なんかはここに写真まであり、作中で説明されるように妖しく波打っている刃のかたちが見られて、よかった。
 マレー人の料理男が、大小いくつもの鍋に目を配りながら、このKreesただ一本だけを操って生姜の皮を剥き、エビの背わたを取り、野菜を切って魚をおろす様子は、なんだか魔法のようでもある。
(実際、メイスンは悪夢を避けるお守りとしてこの刄物を受け取っていた)

 ところで、メイスンとディクスン(とチェリーコーク)を乗せてきたシーホース号は、さらに東を目指して港を発ってしまったようである。置いていかれた格好のチェリーコークにふたりは、「じゃあ、きみも天文学者のふりをしたらいい」とアドバイス。「5分あれば教えられるよ」。


■ 第9章(pp87-93)

 雨期に入って大雨が降ったりしている。
 オランダ人一家の娘たちが、山の上にあるメイスンとディクスンの観測所を訪れた。なのでふたりは、「金星の日面通過」について講釈する。
 彼女たちの反応は「イギリスでやればいいんじゃね?」という素朴なもので、その答えとしてメイスンは、“視差(parallax)”の説明をする。

 金星が太陽の上を通過するのを二地点から観測すると、その軌道はズレて見える。二地点間の距離が南北に離れていればいるほど、ズレは大きくなる。こうして得られるズレ、つまり視差を使っていろいろ計算すれば、地球から太陽までの距離を出すことができる。こんなチャンスは滅多にないので、この観測は、世界中に観測隊を派遣する国際的な共同プロジェクトだったらしい。メイスンとディクスンはその1チームであるわけだ。
(いま書いたことは、メイスンの説明からというよりむしろ、ウィキペディアの「金星の日面通過:観測の歴史」、あと「視差」を見た)

 ところで、“視差”という一語から思い出されるのは米作家リチャード・パワーズのインタビューで、みすず書房の『パワーズ・ブック』に入っている、「二つの弧が交わるところ」というものだ。最近、あんまり引用してないから、ここぞとばかりに引用する。
《――フィクションの可能性を、はっきりと見せてくれる作品との、具体的な出会いはありましたか?
パワーズ そうした最初の出会いは、ジェイムズ・ジョイスでした。彼からは、何というか、想像力が生み出す視差、とでも呼ぶべきものを、教えてもらいました。彼が語ったのは、非常に濃密な、リアリズム的ストーリーです。人生の、ある一日を要約したもの。一方で、それと平行する枠組みがあって、それは、前の物語と確実に接触しているけれども、それに対する知的なコメントにもなっている。つまりそこには、二種類の枠組みがあるわけです。そして、その二つの間には大きな隔たりがあるにもかかわらず、お互いが行き来をする。一体化によって得られる知と、観察によって得られる知。登場人物たちの人生が、この、いわば巨大なる百科事典の生によって二重化されていくのです。補完しあう二つの平面によって、三次元の世界を作り出すことができる、というこの考えを、やがて、初めて書いた小説『舞踏会へ向かう三人の農夫』で取り上げ、うまくいくかどうか、試してみたわけです。》pp28-9

『舞踏会へ向かう三人の農夫』は大好きな小説なので、書名が出てくるまで長々と引用してしまった。あの長篇のような変わった構成を→ここでちょっと書いたことがある、これまでのところMason & Dixon はとっていないとはいえ、メイスン/ディクスンという2者、さらには抑圧する側/される側という2者の両方を書くのは、大小いくつものズレを作り出すことになる。
 それらひとつひとつを視差だとすれば、そこからどんな奥行きが生まれ、何が立体視されるのだろう。あまりに読むのに時間がかかるので、自分はもはや読者というより観測隊の気分になってきた、でもそれならもっとよく見える望遠鏡がほしい――とか言葉遊びをしていないで、地道に続きを読むべきだという話ではある。まったく、読まずに書いてよければすらすら書けるのな。
 それにしても、『パワーズ・ブック』と『舞踏会へ向かう三人の農夫』があわせて出た2000年から、もう10年が経ったというのは、なんだかしみじみとおどろきだった。
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読めるだけ読むM&D その5

Mason & Dixon

前回…] [目次

「その2」で方針としたところの“わからなければ飛ばす”を自分で忘れかけていたため、進行が止まっていた。そうだった、どうせ6月末には翻訳が出るんだから、“わからなければ飛ばす”んだ。


■ 第4章(pp30-41)

 で、よくわからないのである。第3章の終わりで、メイスンとディクスンは女占い師から不吉な予言をされていたんだけど、それが的中したみたい。

 金星観測の任務を果たすべく、ふたりはシーホース号に乗せてもらってスマトラへ向かう。ところが、出港してすぐあらわれたフランス船から手ひどい攻撃を受けて、ほうほうのていで港へ戻る。船長いわく、「おれは30人の船員を失った。お前らはそんなに重要人物なのか?」
 銃弾と怒号の飛び交う激しい戦闘のあいだ、ふたりはうめく負傷者のなかで縮こまり、漏らしそうになっているしかなかったのだった。
 なんでこんなにタイミングよく襲われたのか、そもそも、スマトラがすでにフランスの手に落ちているのを英国王立協会も知っていたようなんだけど、と、ピンチョン作品の登場人物としては、なにか政治や国際情勢ともからみ合う、見えない“陰謀”みたいなものの存在を疑ってしまうところだ。
 スケールの大きすぎる陰謀は“運命”と見分けがつかない。いや、逆に運命が陰謀なのかも。「やつら、ほかには何を知ってるんだろう」と、暗い気持で酒を飲むふたりだった。

(あと、「いきなりだ」と思ったのは、小説の語り手であるチェリーコークが、早くもこの話を自分の体験談として語っているところ。つまり、襲撃にあったとき、彼はメイスン・ディクスンと一緒にシーホース号に乗っていたことになっている。いつ、どうやって知り合ったんでしょう)


■ 第5章(pp42-6)、第6章(pp47-57)

「スマトラ行きは勘弁してください。観測は別なところでしたいです」というメイスンの手紙に対する、王立協会からの返事は「つべこべ言わずに命令を守れ」。
 フランス船から襲撃された体験よりも、この王立協会の応対のほうがふたりのトラウマとなった。
 まあ、雷も二度は落ちないだろうし、ということで、シーホース号の修理を待ってふたりはあらためて出港する。船長は替わっているんだが、おかしなことに、あたらしい船長も行き先をよくわかっていないみたい。ある地点まで進んだらこれを開けるように、と封のされた指示書を持たされている。こんなことってありなのか(読み落としかもしれない)。
 苦労したのは船員が紹介されるところで、いちいちキャラ付けが濃かったんだけど、もう忘れた。ほんの端役にも情報を込める。何のために?
 船旅には気晴らしがないので、赤道を越えるときがお祭り騒ぎらしい。はじめて赤道を越える人間を"pollywog(オタマジャクシ)"と言うそうなんだが、儀式みたいなものとして、彼らは太った船員の汗ばむ太鼓腹にキスしなければならない。何のために?(2回目) 私の読みまちがいであってほしいと思った。

(ここまでの話を聞いている双子は「赤道なんて実際にはないじゃん」「なんでそんなに特別なの?」と不思議顔だが、チェリーコークいわく、「影が完全に自分の真下に来るんだ。半球をまたぎ越えるのは、ほんとに目に見える変化なんだよ」)

 メイスンとディクスンは、まだ見ぬスマトラをそれぞれに夢想している。


■ 第7章(pp58-76)

 なのに、気がつくと、シーホース号はケープタウンに着いていた。いまの南アフリカ共和国のあたりは、当時はオランダ領ケープ植民地だった。
 イギリスからアフリカ大陸をぐるっと回ってスマトラに向かうんだと思っていたが、どうもふたりは船を下りている。金星の観測は、ここ、喜望峰でもって行われることになったらしい。いや、私だってもっといろいろ書いてあったはずだと思うんだけど、わからないので飛ばしている。

 ここはオランダ東インド会社による貿易の要地なので、それこそ、スマトラなんかから連れてこられたマレー人、そしてもちろん原住民たちが、オランダ人のもとで働かされている。メイスンとディクスンは、この地ではじめて、彼ら奴隷の姿を目にする。
 支配者と奴隷の関係、これがいちばん大きなポイントだと思われるけれども、それを描き出す話の中身は、まずはどこまでも俗だった。
 ふたりは最初、オランダ人一家の世話になる。なぜかメイスンはその家の美人3姉妹プラス母親から有象無象の誘惑をかけられるが、夜になって、その植民地でしかありえない狙いがわかる(たいへんえげつない。とりあえずメイスンは、奴隷の女に「イギリスでは、他人に妊娠を命じる権利なんて誰にもないんだ!」と言う)。

 かろうじて読み取れたことも、読んだ端から忘れていくのでいろいろメモをとっているものの、いまこれを書くために見直したら、「わからない」「なんだろ」「?」ばかりで使えなかった。
 とくにメイスンとディクスンの会話をもとに、ふたりが身をもって体験したことから地続きに「歴史とは・・・」みたいな意見が引き出されてくる部分になると、ほとんどついて行けなくなる。
 やや精神的に疲れているためか暴走しがちなメイスンと、それをなだめる具合のディクスン。両者とも、別にかしこまって観念的な持論をぶつわけでないんだけど、そうだな、かりに形而下と形而上という区別があるとして、明らかに前者に属するように見えるエピソードの密度と量を増大させることで、いつのまにかそこを分ける壁を崩してしまうのがピンチョンお得意の書きかただと思うのだが、読んでる私には、依然、厚くて高い壁がある。そのうち読めるようになるんだろうか……
 ここで興味深いのは、このケープ植民地では、使役される奴隷の側だけでなく、支配者である白人のほうでも異様に自殺率が高い、ということ。奴隷制という悪が幽霊のように取り憑いている、みたいなことが、たしか書いてあったと思う。
(あと、白人に虐待されるアフリカ原住民、双方の決して一方的ではない関係、というのは、『V.』でも『重力の虹』でも出てきたはず)

 金星の日面通過はまだ先のため、当分のあいだは、このアフリカの南端が舞台になる模様である。
 ところで、ちょっと前から話題の映画「第9地区」を私はまだ見ていないんだけど、せんじつ友人からメールがあり、「あの映画、エイリアンの飛来先がヨハネスブルグってだけで、7割がた勝ったも同然じゃないですか!」と書いてあった。言いたいことは、わかる気がした。

…続き