2010/03/29

最相葉月『星新一 一〇〇一話をつくった人』(2007)

星新一〈上〉―一〇〇一話をつくった人 (新潮文庫) 星新一〈下〉―一〇〇一話をつくった人 (新潮文庫)
新潮文庫(2010)


 新潮文庫今月の新刊で、金曜に買って帰った最相葉月『星新一 一〇〇一話をつくった人』の上下巻を、土日かかって読了した。(今週、電車の中で読むつもりだったのに!)
 この評伝が3年前に単行本で出て、山ほどの賞賛を受けていたときに、「そのせいで、何か、読むのがこわい」と思ってしまった私のような人がもしほかにもいたら、それでもやっぱり、文庫化を機に読むのをすすめます。これは本当に、予想よりも面白く、こわい本だった。

 日常の行動範囲内に1軒たりとも本屋がなかったせいもあり、小学生のころ、「文庫本というのは、中学生から読むものだ」と思い込んでいた。小学生が手を出すと怒られる、と本気で信じていたように思う。こういう性格はいまも治らない。
 そんな自分が中学生になって、町まで遠出し、はじめて小遣いで買った文庫本が、角川文庫の星新一『地球から来た男』だった。それから2年で筒井康隆を発見し、そのエッセイから海外文学の世界が見えてきて、あとは「今に至る」でまとめられるのが私の読書遍歴だ(遍歴してない)。自分が星新一の本を次から次へと読んだのは、あのあいだの2年間に限られる。
 だから、筒井作品の中でいちばん強烈におぼえている『虚航船団』を、高校生になった最初の4月、学校から帰る夕方のバスで開き、「こんなすごいものがあるのか!」とおどろいて、次の日が日曜で、いちにち文房具と鼬の戦争を読んでいたころには、もう星新一は読まなくなっていた。
 それでも、やはり筒井の『原始人』に入っている、「諸家寸話」「筒井康隆のつくり方」なんかで紹介される星新一のエピソードが好きで好きで、ああ、このひと作品だけじゃなくて本人も面白いんだなあとうれしくなった、こともおぼえている。

 だもんで、この『星新一』でいちばん「うわわ…」となったのは、星がショートショート1001編を達成した(昭和58年)つぎの年、筒井が『虚航船団』を発表し、「あまりに的はずれな批評が頻出していたので」(p343)星が筒井論を書いてあげた――というくだりからうしろの部分だった。筒井はその評にたいへん感謝する。
《だが、近くにいた編集者たちが受けた印象は少し違う。加藤和代によれば、この『虚航船団』前後から、新一は筒井との間に距離を感じるようになっていたのではないかという。》下巻、第十二章

 ここよりあとは引用しにくいし、どういうことになったのかをまとめてしまうのもはばかられる。
 上巻、星の実父の姿と、星がその“遺産”にふりまわされる様子が描かれるのをハラハラしながらずーっと読んできて、下巻の第八章で筒井康隆が登場したとき、私は前述の『原始人』を本棚から抜いてきて、もういちど笑ってからこの評伝に戻ったのだが、まさにそれについて星新一の方ではどう思っていたかまで知らされて、なんだか背筋が冷たくなった。こういうことを何となく予想していたから、3年前の私はこの本が手に取れなかったんだと思う。
 
 星新一から筒井康隆へ、というコースをたどった自分は、どうしても、うしろめたい気持になってしまった。もちろんそんなのは勝手な思い込みで、私のうしろめたさは星新一にも筒井康隆にも関係がないはずなんだけど、私の思い込みは私にとっては本物なのだから……って、なんかもう、ここから先はぜんぜんまとまらないのでもうやめるが、このうしろめたさのために、私は『星新一 一〇〇一話をつくった人』を読んでよかったと思う。さらにあと3年くらいしたら、この立派な評伝について何かもっと書けるかもしれない。いまはこんなにぐだぐだにされてしまった。
 とりあえず、今日の電車では『地球から来た男』を読み返そうと思った。なんだこの感想。
2010/03/17

福永信の小説 その5

その1] [その2] [その3] [その4

 福永信さんの単行本未収録作品を読んでみるシリーズ、せっかくなので、最新の「一一一一三」も読むことにして、「文藝」を買ってきました。
 その前に、土曜日(3/13)のトークイベントについて、古谷利裕さんじしんが「偽日記」で書いていることが面白いです。
2010-03-13と、2010-03-14。特に後者。ABCDシリーズはやはり別格かもしれません)


「一一一一三」 (「文藝」2010年春季号)

 前回紹介した「一一一一」と似た趣向です。あっちがマンションのエレベーターにおける年上と年下の男2人だったのに対して、こっちのはじまりはこんなふう。
《――そこの旅のお方。
「なんでしょうか」
――二の足を踏んでいるね、どう見ても、完全に。
「ええ」》

 不意を衝かれていきなり笑いました。もとい、今度はどうやら、二股に分かれた道の前で往生している女子に、年長の男が一方的に語り続けるというかたち。さらに今作では、語り役が前半・後半で2人出てきます(すべて「たぶん」です、と、そこまで律儀にならなくていい気もしますが、一応)。
「一一一一」同様、語られる当人であるはずの聞き役は、語り役にひたすら承認を与え、背景が奔放にできあがっていきます。このシリーズが量産されて単行本一冊になったら、相当うるさい本になるのじゃないでしょうか。
(2人の人間が喋り合うのよりも、2人いるのに片方しか喋らないほうがうるさい感じがしそう、というのは発見でした)
 語りの内容は、メルヘン風と言えなくもない森の(たぶん)齧歯類とか妖精に加えて、ファミレスのチーフとか出てきます。あくまで比較でですが、背景の入り組み具合は「一一一一」より控えめに見受けられ、そのぶん、語りのミもフタもなさで引っぱっている感じです。
《――[…] 年長の者が次世代に伝えるべきことは、どちらが進むべき道で、またどちらがあの世への旅路であるか示唆することであろう。だが、かといって、やれあっちへいけ、やれ、こっちだと、先導してはいけない。
「そうですね」
――若者は反発するだろうからね、自分で考える、と。
「そうです」
――考えることが大切なのだね、何事も。
「おっしゃるとおり」》

 承認がぜんぶ、語られる内容への背信になっている。あと、小道具の再利用というか、「一一一一」でも出ていた“ワンカップ大関”と同じレベルで“輪廻転生”のモチーフが繰り返し使われるのですが、語る年長者、1人目の話のなかに出てきた小動物が2人目の話のなかに転生を果たすなど、不思議なことを平気で起こしていきます。
 この“平気でやってしまう感じ”は、“容赦のなさ”と言い換えても同じだと思いますが、今号の「文藝」で、ほかの小説はみんな明朝体で印刷してあるのに「一一一一三」だけゴシック体、というのが、この作家のあり方をはっきりあらわしているように見えました。


 とりあえずは以上です。「その5」まで続きましたが、楽しい1週間でした。

 図書館、それも、文芸誌のバックナンバーが置いてある図書館に行かないと読めない作品ばかりでアクセスが難しいですが(私の場合は片道40分でした)、ひとまず、6月末に『星座から見た地球』(新潮社)が刊行されたらみんなびっくりすることでしょう。ニヤニヤしながら待とうと思います。
2010/03/15

福永信の小説 その4

その1] [その2] [その3]  [その5

 吉祥寺の古本屋「百年」での福永信+古谷利裕トークイベント(2010/03/13)に行ってきました。トーク中のお2人の格好を私は忘れません。


「一一一一」 (「すばる」2010年1月号)

 確認から。小説というのは、書かれた文字の順番に従って、だんだんにできあがっていきます。「先生に一面識もない青書生の僕が、突然こう云う手紙を差し上げる失礼を御免し下さい。」と書いてあったら、「先生」と「僕」がいることになり、これは「手紙」であるということになる。
 この“書いてあれば、そういうことになる(ウソも含めて)”というのがかえすがえすも不思議で、たまに気になるのですが、福永信さんの「一一一一」は、この原理を逆手に取った作品であるように読めました。こんなふうに始まります。
《――どちらまで?
「11階をお願いします」
――そんなら、このままでよし、と。もしかすると、あなた、一昨日、ここに引っ越して来たばっかりでは?
「そうです」》

 マンションのエレベーターに乗り合わせた年長の男性と、30代らしい男性。2人の対話が延々と続きますが、年長のほうの一方的な語りかけに30代のほうは相づちを打つだけで(「そうです」)、それによって年長者の話がそのまま事実になっていきます。そもそも、聞き役が30代というのも決めつけでしかありません。
《――[…] 一つ聞かせてくれないか。どうだろうか、寝苦しい・胸部に圧迫感がある・なぜか汗が大量に出るといった身体の異常をおぼえたのではないか、二晩連続で。
「じつは、そうなのです」
――やっぱり…。おそらくそうじゃないかと思ったのだがね、というのは、いわくつきの格安だから。
「ええ」
――がまんなさい、じきに慣れてくるから。
「そうですね」
――説明は受けていたんだろうからね、事前に。説明を聞いて、背筋がゾッとしたものの、ほかに行き場もないんだし、何しろ、格安だったのだから。
「そのとおり」》

 こんな調子。これはどうしても、聞き役の背景が「暴かれていく」というのではなしに、背景がどんどん「作られていく」わけです。たしかにどんな小説でもやっている工程を、これ以上ないくらいあっけらかんと、まるっきり公開しながら進めていく。
 とめどなく出てくるのは、聞き役のほうの夫婦間の不和、その発端と展開、などなど。おもいッっきり生電話で、みのもんただけが喋る、みたいなものでしょうか。それは嫌だろう。
《――もう我慢できない、あなた、出て行って、いや、わたしが出て行く、と、さっさと荷物をまとめたのだ、彼女は、かかえていた膝をくずして、立ち上がって。どこへ行くのだと問うきみに、何か含みを感じたのか、実家以外にあてがあると思っているの、といったのだね、吐き捨てるように。
「ええ」
――むろん、あてがあるのだ、実家以外に、ほんとうは。
「おそらく、そうでしょう」》

 語る側の言うことを聞く側がぜんぶ承認して話ができていく。こうもあからさまだと、語りながら、語られているのとはズレのある内容を読者に届けるという、“信頼できない語り手”なんかの付け入る余地はありません。橋田壽賀子のドラマを2人芝居にしたら、こうならざるをえないのではないか(勝手なことを書いていますよ)。

 しかし、たとえ聞き役がぜんぶ承認しても、いや、承認するからこそ、語られる内容は整合性から自由になれ、奇妙なひねりをもつことができます。仮定と事実がひとしく踏まえられ、前後の話題が変なところでつながるし、細部のありえない照応のせいで、話のなかに人間が何人いるのかも怪しくなる。
 面白いところをなるべく見落としたくなくて、つまり、ちゃんと笑いたくて、あちこち何度も読み返しました。唐突に、3行だけ“地の文”が挟み込まれるのも、なりふりかまわないギャグのひとつとして私は読んでしまいました。それにしても、相づちのタイミングとバリエーションが見事です。
《――それで、血はつながっていなくても真の父親というべきワンボックスカーの運転手の男は、ハンドルを切り返すと、もと来た道を戻った、と。
「そうですね」
――何か忘れてやしないか、大事な家族の一員を。
「犬ですね」
――ご名答。ブレーキを踏んで、「すまなかったな、ワン公」と一礼して詫び、扉を開けたのだ。
「そのとおり」》

(*まちがえました。地の文は都合2ヶ所、計6行あります。失礼しました。2010/04/10追記)


「午後」 (「新潮」2010年2月号)

 ABCDシリーズ。これだけを単体で読むならば、前回書いた「ここ」の紹介がそのまま通用すると思います。
 A・B・C・D、4人の子供の短いエピソードが1段落ずつ順番に並べられ、それが9セット繰り返されます。子供たちの関係は不明、年齢も性別も、手がかりはいくつかありますが、決定できるようにはなっていない。1人1人が9セットを通して同じ人物であるとも限らなくて、またときどき猫になる
 4×9=36のエピソードに一貫した説明を与えることのできる「正解」があり、それを解き明かそうという姿勢で読む小説ではありません。
 ひとつひとつのエピソードにはまったく難しいことは書かれておらず、コーヒー牛乳や水鉄砲、バスの運転手、ポシェット、夏休み、といった小道具にくすぐられながら、思わぬところでエピソード同士をゆるくつなげる細部の関連を見つけて、その都度その都度「おおっ」と反応する。そうやって、行きつ戻りつしながら読むようにできている小説なんだと思います。
 すると「このように読めなくもない」「ほかにもまた、このようにも読めなくもない」という感想が自分のなかにどんどん増えていって、それらを並べていくとこの作品に似てきます
「こう読めなくもない」の枠は相当広く、死んでしまった子(幽霊?)の視点さえ平気で併置されている。まったくおそれいりました。

 しかし、「午後」が真価を発揮するのは、前作「ここ」とあわせて読んだときでした。
「午後」にある36個のエピソードの書き出しは、「ここ」の書き出し36個を再利用しています。各段落の1文めは「ここ」と同じで、それから別の展開が続く、というようになっている。
 そうすると、「午後」におけるAのエピソードは、「ここ」のAのエピソードと関連をもっている(と読めなくもない)ことになり、Aの世界は「午後」の9つ+「ここ」の9つに拡大する。同じ工夫がB・C・Dの3人ぶんにもほどこされています。
(この響き合いをより深めるために、「午後」の6セットめだけは、どの書き出しも「ここ」のものをたくみに改変しています。7セットめからはもとに戻り、1文だけでなくそれ以上の量の文章が「ここ」そのままになったりします。この念の入れよう!読んでいてうれしくなります)

 私は「ここ」「午後」も文芸誌をコピーしてきて読んだため、2作を両方広げて見くらべながら進むことができ、これはラッキーでした。さらに自分でノートも取りつつ、「この部分とこの部分が!」「この部分もあの部分も!」と、あちらこちらで静かに乱反射するたくさんの細部を味わいました。
 見落としはまだまだきっとあるにせよ、こうなると、エピソード間、作品間を行ったり来たりするのは、4人の子供だけでなく自分もじゃないか、とさえ思えてきます。
 どこまでも楽しげでありながら、子供たちは死の方向にむかい、しかし、死の先にも進んでいくこの不思議な小説は、読むことがそのまま作品への参加にもなる小説でもありました。
 そして、このシリーズが「ここ」「午後」の2作で終わる必要は何もないことを考えれば(ないと思うし、実際、ほかにも書かれてきたのだから)、ABCDの世界はさらに広がり、増殖可能なわけです。
 そんな小説を私は知りません。いま自分はすごいものを見てるんじゃないか。そんなことを思って、興奮しながらこれを書いています。
《Aがこの町にもどってきたという。砂ボコリをまとって風にとばされた黄色い麦藁帽子が足下にころがってきてとりあげるとAがかけよってきたという。Aじゃないかとびっくりして声をかけたがあたまだけペコリとさげて帽子をかかえて去っていったという。Aではないという声もある。たしかにAがこの町に戻ってくるなんてありえないことだしそもそも大人になっているはずだ。だがこの日ほうぼうで当時と同じまだちっちゃなAを見かけたという声があがった。》「ここ」/「午後」


*トークイベントで聞き、新潮社の公式ツイッターでも発表がありましたが→これこのABCDシリーズをまとめた単行本が6月末に出るそうです。
*そして、この終わらないように見えるABCDシリーズ、(次の単行本でどうこうというのではなく)福永さんのなかには終わりかたがあるんだそうです。いったいどんなものになるのか、楽しみでなりません。

その5
2010/03/13

福永信の小説 その3

その1] [その2]  [その4] [その5

 トークイベントは今日の夜。トークといえば、こういうのもありました。
 →「長嶋有・柴崎友香・福永信 鼎談(2008)」log osakawebmagazine


「ずっと五分間」「シャボン玉ひとつ」「消印」
 
 goningumiによる同人誌「メルボルン1」(2006年11月)に掲載。でも初出はまた別の同人誌なんだそうです。
 いわゆるABCDシリーズ。それは何か。
 どれも子供であるらしいAの話・Bの話・Cの話・Dの話が、1段落ずつ、それぞれごく短い断片で並べられます。
 4人の子供の関係は書かれておらず、それぞれの断片のつながりは不明です。「ずっと五分間」では、五分という時間と、町に降ってきた雪、ゲームセンターの太鼓のゲーム、というのが各エピソードに共通しており、AとBはケンカしたんじゃないかと思われますが、たしかなことはわかりません。そもそも同じ町、同じ時間、に生きているのかどうか。
「シャボン玉ひとつ」では、飛んでは割れるシャボン玉、「消印」では郵便受や手紙、といった、共通して出てくる小道具が作る、ゆるいつながりが4人の子供のつながりのすべてであるように見え、同時に、そのうしろに別のつながりがあるのではないか?(それを発見したい!)という好奇心もかき立てられます。
《大人のケンカは長いのが問題だとDは小さな頭で考えた。笑ってもらいたいがいい案は浮かばなかった。今日はただ白く何度もくもるガラス窓を見つめるしかなかった。でもとDは思う。将来僕は五分でケンカが終わる機械を発明しよう。そんなことを考えていたこの五分のあいだに雪がまた降り始めた。今度はやむことなく町中に残された四人の足あとのすべてを消した。》「ずっと五分間」


「いくさ」「公転」「星座から見た地球」

 goningumiによる同人誌「イルクーツク2」(2007年12月)に掲載。のちに大森望・日下三蔵編『年刊日本SF傑作選 虚構機関』(2008)にも収録されました。
 これもABCDシリーズです。形式は前と同じで、4人の子供の身体的な行動、あるいは内面の動きが、スケッチふうに並びます。
 しかしこのシリーズ、今回の3篇のなかでも、「いくさ」のAと「公転」のAと「星座から見た地球」のAが同じ人物なのかもさだかではありません。
 そう読めるようにも思うし、そうでないようにも読めるように思う。そんな書かれかたです。
(とはいえ、たとえば「星座から見た地球」のCはチョーク(?)のようだし、Dは校舎に迷い込んだ犬です)
 さっき、私は「小道具が作る、ゆるいつながりが4人の子供のつながりのすべてであるように見え、同時に、そのうしろに別のつながりがあるのではないか?(それを発見したい!)という好奇心もかき立てられます」と書きました。
 でも、読んでいる最中の自分の気持をもっとさぐってみると、この“つながりはあるのかもしれないし、ないのかもしれない、あるならそれを見つけたい”という気持は、この小説については、それ自体で充足しているようにも思います。
 説明が足りないのではなく、あえて説明をしないのでもなく、説明が要らない書きかたを試しているのが、伝わってくる。不思議なくらい上品な印象は、そんな作品のありかたから来るんでしょう。
《Aは窓をしめた。部屋の扉もしめてしまった。耳をあてても物音ひとつしない。だからほんとにAは何もしなかったのではないかという推測もこの時点に限っていうなら可能である。けれども車にもどった半ズボンのポケットには小さくなったクレヨンが四本入っていた。指も四色にそまっていた。何かしたにちがいないのだ。》「公転」


「ここ」 (「新潮」2007年12月号)

 これまで掌篇だったABCDシリーズのロングバージョンです(実際に書かれた順番はわからないですが)。
 今作では、A・B・C・D → A・B・C・Dという進行が、9セット繰り返されます。1セットめでは、(たぶん)潜水艦の絵がプリントされた服が共通して出てくるというように、各セットに小さな留め金があって4人のエピソードをつないでいる。留め金は小道具の場合も状況の場合もあります。
 9セットはけっこうな量なので、4人がそれぞれどんな子供かがだんだんわかってくる――気もたしかにします。Aは元気な男の子、Bはちょっとませている女の子、Cは病院にいるらしい、というように。しかしいっぽうで、Dはいまひとつよくつかめないし、ほかの子も一貫しているわけではない。というか、ちゃんと、一貫しないように書いてある。
 A→B→C→D×9、という、書かれている順番を飛び越えて、たとえばAのエピソードだけを拾って続けて読む、ということもできますが、そうした場合、Aがいつも同一人物なのかわからないし(だれの部分でも、最低1回ずつは猫になっている話が入っているようです)、ひとりのエピソードでも、時間の順序はごちゃごちゃしています。はなはだしいのはDで、赤ん坊のときもあれば幼稚園生のときもあり、そこから誕生直後、さらには母親のおなかの中にいるときまでさかのぼったりします。

 4人に関係があるようなないような書きかたも相変わらずで(6セットめ、バスをめぐるエピソードで急接近するようにも見えます)、引っ越しや手紙など、これまでのABCDシリーズを思い出させるようなシチュエーションもあり、さまざまな手がかりによって記憶をくすぐられながら、たくさんのシャボン玉がにぎやかに浮かんでははじけるのを見ているような読書体験でした。
 シャボン玉が垣根の上を飛ぶように、この小説は時間や場所といった境界の上を飛び、さらにまた別の境界も越えていくようですが、こういう思わせぶりな感想はともかく、わからないことが苦にならない書きかたがされた小説、というか、「わかろう」とする読みかたとは別の読みかたを(あるいは、「わかろう」とする読みかたとは別の読みかた)こちらに自然とうながしてくる小説、という意味で、「ここ」はすごく面白かった。

 リングノートを開き、ページをまたいで真ん中に横線を引き、4つに区切る。左ページ上段にA、下段にB、右ページ上段にC、下段にD、の話を順番にメモしていく。そんな読みかたをしていたら、だんだん小説が「見えてくる」ようで楽しかったです。筋や人間関係の複雑な小説でメモを取るのはよくやりますが、そういうのともちがって、ホチキス止めしたコピーに印刷されている小説が、自分のノートからも立ち上がってくるような感覚がありました。
 以下、「ここを引用すると格好がつくんじゃないの」という作者の声が聞こえるような気もする部分を引用。
《自分が読んでいる言葉のつらなりを彼もたどったのだと思うとそれだけでBは幸福な気分に浸ることができた。読んだ痕跡が残っているわけではなかった。読む前と読んだ後で見た目は何も変わることはなかった。けれどもたしかに二人の視線がこの本の上で重なり合っている。そう信じることができた。そしてもうじきに読み終わるのだ。》

 あれ、関係はあるようでなかったような。


*そろそろ時間切れなので、残っている2作、「一一一一」「午後」については、今日のトークイベントのあとに書くつもりです。
(読むのは間に合いました。「一一一一」は何度も笑わされてしまうストレートな変化球。「午後」はABCDシリーズです。「ここ」の次が「午後」というのがいかにもこの作家らしいと思ったら、関係しているのはタイトルだけじゃないんです。これもすごい)

*ところで、このABCDシリーズを読んでいると、谷川俊太郎の、子供を扱った詩を何となく思い出します。「ここ」には、とくにCとDの部分について、『はだか』に入っている「さようなら」を並べてみたい気もしました。これです。

その4] [その5
2010/03/12

福永信の小説 その2

その1]  [その3] [その4] [その5

 そういえば、1年くらい前に『アクロバット前夜』を読んだとき、感想を書いていました(→これ)。いま出ている『アクロバット前夜90°』は、これをタテ組(ふつうの本)にしたものです。
 では前回の続き。

「五郎の読み聞かせの会」 (「群像」2004年9月号)

 書き出しは鮮やかです。
《誤解する余地などどこにもない、明確なそれは危険を知らせる声だった。》

 切迫した気配。が、早くも次の行から様子がおかしくなります。
《口をふさがれたのか、声はもう聞こえなかった。お兄さまというのだから、妹であるはずだった。返事がないのはその兄が、声も届かないほど遠くにいるからだろうか。いや、兄の首筋にキラッと光るナイフを見て、妹は叫んだのかもしれなかった。声が聞こえなくなったのは自分の首筋にも冷たいナイフの感触を感じたからかもしれなかった。》

「はずだった」「かもしれなかった」と、ちっとも確かではありません。「妹」らしき声がたぶん「兄」を呼んでいるようです。
《しかし妹の笑い声が聞こえたことで五郎はその想像に若干の修正を施す必要を認めた。いったい曲がり角の向こうで何が起こっているのか。》

 曲がり角の向こう、「妹」と「兄」のあいだで、何ごとか事件が起きているらしい。曲がり角のこちら側にいる「五郎」には、それを直接には見ることができない。小説は五郎の視点で記述されている――らしい。
 
 兄は穴に落ちたらしい。妹はそれを見下ろしているらしい。はたまた、兄はだれかにオシリを叩かれるらしい。
 
 五郎からははっきりとはうかがえない、だから想像として伝えられるしかない記述をもとにして、さらにこちらは状況を推測するしかありません。
 しかし、次に書かれることがすでに書かれてあることをひっくり返すような記述が続き、しまいには「兄」「妹」と、五郎の関係がひっくり返ります。というか、五郎が「兄」「妹」関係に組み込まれ、かつ、分裂するような。よくわからないと思いますが、よくわからないのです。
 ここに書かれたアクションでゆいいつ確かなのは、五郎が、電信柱に貼られた広告から「0753936179」と書いてある紙片をちぎりとることくらいしかありません。しかし、
《五分のなかにすでに十分は含まれているようにすら感じることもないではなかった。コゲくさいと思って顔をあげると「兄」の頭が燃えていた。》

 こんなことが平気で書いてある小説のなかで、何が確かで何が確かでないと言えるのか。きっと別の読みかたが必要なんでしょう。
 あと、校舎のピロティ、というような言葉づかいが面白いと思いました。私は知りませんでした、ピロティって。


「私の洛外図」 (「群像」2005年5月号)
《本誌掲載の短編小説(平成十六年九月号)に私は十桁の数字を書き込んだ。》

 というわけで、これは先の「五郎の読み聞かせの会」を書いた作家の後日譚、というかたちをとっています。十桁の数字はもちろん「0753936179」。これが「私」の自宅の電話番号で、「五郎の読み聞かせの会」を読んだ読者が電話をかけてきたというのです。しかもそれは、小学生の男子でした。
《小さな友人はつっかえつっかえあいさつを述べた。だいぶ緊張しているようだった。[…] 助け船を出そうとすると、あわてた様子で切らないでほしいと懇願する。ちゃんと喋るから待ってほしいというのである。深呼吸するように伝えると、短く息を吐くのがわかった。》

 そして少年の話と、少年の話を聞く「私」の話が続き、半年もすると、「私」は少年から、やはり電話で初恋の相談を受けたりするのです。なんだこれ。
 ありていに言って、今回もわけのわからないまま終わるのですが、この作品が前のとちがうのは(ちがうように見えなくもないのは)、どうしてわけがわからなくなっているのかを説明しているように受け取れなくもない記述が作中に挟み込まれている点です。
《私は四百字詰で五十枚から六十枚ほどの短編ばかり書いてきたができればもっと短くしたいと考えている。考えているばかりでなく、実際に日夜枚数を削るべく刻苦勉励している。》

[…] あまりに短くしすぎてなくなってしまってはいけない。なくなってしまっては、なにもなかったことになる。なにもないというのは最悪の事態である。できるだけ短く削りながらしかもすべてそろっているようにしなければならない。そして余った時間に別のことをする。散歩したり、公園でくつろいだり……》

 つまり、この短篇がよくわからないのは、本来は書かれていた部分が削りに削られたせいである、というふうに読めなくもないのです。
 いや、本当にそうだとは私も思ってはいません。
 いまの引用で大事なのは、創作の方法論ではなく、最後の「そして余った時間に別のことをする。」の部分だと思います。散歩したり、公園でくつろいだり、あとは、たとえば小学生と電話をしたりというような。
 ともあれ、必要そうな情報とそうでなさそうな情報を、いちど厳しく峻別したうえでミキサーにかけ混ぜ直したような書きかたでもって、「私」は背が高いようだとか、京都のどの辺に住んでいるかとか、少年の母親に接近したみたいだ、というような記述が並べられています。さっぱりわからないが、わからなさが面白い、と、これははっきり言えます。
(電話の少年が、先の短篇の「五郎」なんじゃないかと読めるように書いてある、というのは言うまでもありません)


「寸劇・明日へのシナリオ」 (「新潮」2006年2月号)

 この「新潮」2006年2月号には、小島信夫の「残光」と、青木淳悟の「いい子は家で」(作品集『いい子は家で』の表題作)中原昌也の「点滅……」がまとめて載っています。が、買ったときにこの3作は読んでいたのに福永作だけ未読だったので、いま初めて読みました。ライブ感!(嘘)
《    第一場
よくぞ、ここまでつづいたと、ほめてやるべきかもしれないし、そう思う者も、また思わない者も、大半が、白河コリンヌに対して、いい子だから、どうか、大きなニキビができる前に、すみやかにここ(アパートの一室)を退出してほしいと祈る気持だった。父・高文が事故死し、遅く帰宅した母・さゆりは、シャワーを浴びただけでまたしても出掛けてしまい、白河家(一戸建、築十五年)は無人だった。》

 壮大なのか、ちまちましているのかわからない始まりですが、「寸劇」なので6ページしかありません。かつ、2ページ目が読めなくてしばらく「?」となりました。
 というのは、文芸誌なので文字の印刷は2段組みなのですが、この作品、上段の1行目は下段の1行目へと真下に続き、それから上段の2行目→下段2行目という続きかたをするのです。全ページが真横に続いていた『アクロバット前夜』に較べればささやかとは言え、気付くまでは何ごとなのかとぎょっとしました。
 書かれている内容については、家出した娘・コリンヌと、その父である高文のことがいろいろ述べられていますが、家出の理由はよくわからず、高文の騙されかたもよくわからず、母・さゆりは「正装した男の子」を連れてきて家のことを任せると言い出し、コリンヌはなぜか見知らぬ男・田内のアパートに籠城するし、それに先立って高文は交通事故で死んでいる。
《助手席の窓からは誰もが知る人気者のキャラクターのぬいぐるみが、まるで、ぼく、これからながいながいセリフを吐くぞ、とでもいうように短い右手を挙げ、顔を夜空へ向けていたという。》

 妙に思わせぶりですが、この小説、このような一文一文、段組も含めたひとネタひとネタにそのつど反応する、という以上の読みかたはいかなるものかをこちらに考えさせるよりほかにねらいはないのではないかと疑いたくもなってきます。
 ……言わないでおくつもりだったのですが、やはり言います。「コリンヌ」て

その3] [その4] [その5
2010/03/10

福永信の小説 その1

その2] [その3] [その4] [その5

 今週末、3月13日(土)に吉祥寺の古本屋「百年」→サイトで行われる、福永信さんと古谷利裕さんのトークイベントに行くことにしました。せっかくなので、福永さんの小説で、これまでの作品集『アクロバット前夜』(2001)『コップとコッペパンとペン』(2007)収録されていないものも読んでおこうと思い立ちました。
 それでどんな未収録作品があるのかネットで調べ、区立図書館に出かけていって、文芸誌のバックナンバーからコピーしてきました。図書館の端末で請求票をプリントして受付の人に渡し、書庫から出してきてもらうのを待っているあいだは、おもにハーレクインの棚を眺めて過ごしました。目が洗われる思いでした。
 それはともかく、うちにあったものも含め、集まったのが以下です。
 
  「根木山」(2002)
  「五郎の読み聞かせの会」(2004)
  「私の洛外図」(2005)
  「寸劇・明日へのシナリオ」(2006)
  「ずっと五分間」「シャボン玉ひとつ」「消印」(2004-6)
  「いくさ」「公転」「星座から見た地球」(2007)
  「ここ」(2007)
  「一一一一」(2010)
  「午後」(2010)

 このほか、いちばんあたらしい「一一一一三」は、「文藝」の今のところ最新号(2010年春季号)に掲載のため、コピーがとれませんでした。買えよって話ですが、私もそう思う。あと、「早稲田文学」のフリーペーパー版、「WB」でも、Vol.10からVol.16.にかけて「三か所」というシリーズの連載がありましたが、うちにはぜんぶは揃っていません。バックナンバーがすべてここで読めるはずですが、まずは手元に、紙のかたちであるものから読んでいくつもりです。
 とはいえ、あまり時間がないので(これを書いている今は月曜の真夜中です)、土曜までにぜんぶ読めるかあやしいし、読めたとしても、大急ぎで書くので、せいぜい各作品がどんな作品なのかの紹介程度になると思います。
 
 つまり、これから先の文章は、上記リストがあればそれで充分な蛇足になりそうです。
 そういうのとはちがって、福永作品を綿密に論じたものとしては、それこそ土曜日の対談相手、古谷利裕さんの、「中学生以上と小学生以下、現世と冥界」があります。面白いことはまちがいないが、どこがどう面白いのか説明しようとすると途方に暮れてしまう福永作品にじっくりつきあって、こちらもすごく面白い。『人はある日とつぜん小説家になる』(2009)に入っています。
 また、『コップとコッペパンとペン』の刊行に際して行われた、佐々木敦さんによるインタビューがこちらにあり、上記作品のいくつかが、どうして単行本に入っていないのかも語られています。
 
 なお、未収録作をさがすうえでは、「WhosWho」というサイトの、このページが役に立ちました。まさにこういうものをさがしていた。大感謝です。
 とはいえ、上に並べたのは、あくまで今回、私が集められたものだけです。それに、小説として発表されたと考えられるものと、小説以外として発表されたと考えられるものとを、はっきり分けてしまってよいのかどうか、特にこの人の場合には疑問でもあります。そこまで言わなくても、単行本として出た『あっぷあっぷ』(村瀬恭子さんと共著、2004)さえ、私は持っていないのでした。
 では、以下蛇足――


「根木山」 (「文學界」2002年3月号)
《自宅を出ると、素敵な匂いが私を取り囲んだ。向かいの家の庭に咲いたオレンジ色の小さな花だった。緑色の葉が重なり合い、鮮やかに目に映える。毎年咲いていたのだろうが、勤めていたあいだはまるで気づかなかった。
 退職後しばらくは、もてあますほどの時間にむしろ追い立てられる思いで、資格だ、やれ習い事だと、いろいろ精を出していた。》

 突然どうした。いや、これは、定年を迎えた初老の男性を語り手とした小説なのです。上述の佐々木敦インタビュー→これでは、「ほんとにベテランの作品として読まれてしまう面白さをねらった」旨の発言がありましたが、なにしろ私は、これが福永さんの作品だとわかって読んでいる。だから面白さは半減かというと、しかし、そうはなりません。
《四十年近く会社の、そして社会の歯車として働いてきた。》

 そのまんますぎ。ベテランのふりをするにしても、もうちょっとうまい「ふり」があるんじゃないだろうか。そのような意味で、やはり面白いのです。独白にしろ情景描写にしろ、なんだか人形劇のようで可笑しいなあ。そんなふうに思っていると、語り手の「私」は、これまでの通勤の日々には素通りしていた喫茶店のマスターと、花の香りがどうしただとか、「何げない会話」を楽しみます。
《いや、意味がないのではない。私はここで大切な何かを受け取った。むろん花の名前を知ったという類いのことではない。そうではなくてもっと大切なもの。以前、凡庸な言葉にこそかけがえのない真実が宿ると剣豪は語っていた。マスターはキンモクセイの枝を指先でもてあそんでいた。》

 剣豪が出てしまいました(二度と出てきません)。いったいベテランのふりをするつもりは本当にあるのでしょうか。そう思わされるフレーズは、この先にも次々と出てきます。
《勤めていた頃にはちょびヒゲのちょの字も思いつかなかった。しかし今は自由の身である。ちょびヒゲといわず、思う存分ありとあらゆるヒゲを生やしてみるのも悪くない。》

 また、もっともらしいことでも、言いすぎると笑えてきます。
《なぜ、正直に、私はくそを踏みましたといえないのか。たったそれだけのことではないか。私の体内にはまだ、さもしい競争社会の原理に貫かれた汚れた血が流れているのかもしれない。自身のミスを隠蔽しようとする灰色の血が。あるいは、他人に責任を転嫁しその他人もまた別の他人に同じことをする、そんな永遠のらせん階段を作る遺伝子が。》

 これらのとってつけたようなフレーズのバカバカしさは、とってつけただけにとっつきやすいので、もっと引用したくなりますが、それよりも変なことになっていきます。
 語り手やマスターのほかにも、この短篇には、喫茶店のカップル、妻、お隣の鍋島夫妻、意味ありげな少年少女、宅急便の運転手ほか、たくさんの人間が出てくるのですが、何事かが起きているようであっても、だれが何をしてどうなっているのかさっぱりわかりません。ある程度は推測できそうなのですが、すべてを語る語り手じしんが、上の引用の調子でどうかしています。
《出かけて来るとはいったものの、帰るつもりはなかった。そもそも私の家ではないので、帰ってこなくて当然だが。》

 何を言っているんだ。そのうえで、後半に進むにつれ、登場人物たちの役割の交替、立場の交換がめまぐるしく起き、脱線すべきレールも満足に敷かれないまま、小説は脱臼して停止します。
 そんな幕切れを私は「きれい」だと受け取りましたが、何よりそれは、この短篇が、初老ではない福永さんの、初老のベテランのふり(役割の交替)によって書かれているという、おかしな二重底の上に成り立っているからだと思いました。初出誌の外に出しても、じゅうぶん面白いと思います。
《蟹は超おいしかった。》

 だから何を言っているんだ。
その2] [その3] [その4] [その5



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