2009/12/30

読中日記(20)


前回…

■ ピンチョン『ヴァインランド』が河出書房新社の世界文学全集に入ったのを記念した12/20(日)のリブロ池袋店・佐藤良明トークイベントに行けず、12/25(金)の新宿ジュンク堂・読んでいいとも!ガイブンの輪(ゲスト:柴田元幸&若島正)にも行けなかったばかりか、その後の友達との飲み会にも参加できなかった先週の終りから、ツイッターをはじめてみた。そんな口実は要らないと思った。

 → http://twitter.com/do_dling

「doodling」というユーザー名はとっくに取られており、「dooodling」氏もすでにいた。「doooodling」までいくとヘンなので「do_dling」に落ち着いた。そんな説明は要らないと思った。
 もしかすると、進行中の読書メモみたいなものはツイッターにこそふさわしいのかもしれないが、140字ではろくに引用できないし、なにより、まだ使いかたがわかっていない。


■ ところで、私が保坂和志の小説論を好きで読むのには、

(1)本人の小説が面白いから

 という理由だけでなく、

(2)まえに自分が読んで面白かった小説を、この人も面白いと書いていた

(3)この人が面白いと書いている小説を、自分も読んでみたら面白かった

 みたいなことがたびたびあるからで、(2)にあたるのは、ルーセル『アフリカの印象』だったり、ウルフ『灯台へ』だったり、田中小実昌だったり藤枝静男だったりし、(3)のほうには、青木淳悟柴崎友香福永信磯憲一郎など、現代の日本人作家が当てはまる。
 そんなふうにして読んだ1冊に、岡田利規『わたしたちに許された特別な時間の終わり』(2007)がある。
 これは長めの短篇2作、「三月の5日間」と「わたしの場所の複数」を収めた小説集で、とくに2作目、「わたしの場所の複数」にはほんとにおどろいた。

 夫も妻もフリーターであるらしい若い夫婦、その妻のほうの「わたし」が、バイトをサボることにしたある日、午前中から部屋の布団でごろごろしている。
 携帯をいじり、寝っ転がって体を動かしながら、夫のこと、今の生活のことにあれこれ思いをめぐらすだけと言えばだけなのだが、そこでめぐらされる思いは、携帯のほか、枕元にあるラップトップを通じて他人のブログの中に忍び出し、シーツの上にある「わたし」という一個の体を越えていく――
 こんなふうに書いてもよくわからないかもしれないが、ここにはあれだ、もう何度となく私も味わってきたところの、「まるで知らない赤の他人の、日常をこと細かに綴ったブログを過去ログまでさかのぼって大量に読んでしまったときに生まれる、他人にどっぷり浸った感じ」が、たくみに再現されている。
 大急ぎで付け足すと、それを再現することじたいは目的ではなくて、その「他人の意識に浸かる感じ」が、内向するのではなく外向きに広がっていく導きの糸になって、それこそ保坂和志もたびたび言っているような、わたしの「わたし」が、わたし個人の中にいつでも必ず収まっていなくちゃならないわけではないんじゃないの、という立場が、静かに過激に実践されているのだと思う。

「わたし」をはみ出すわたし。わたしからも常識からも外に出てみる、出れることを示してみる。

 かえってよくわからなくなっている説明である気がするが、これは、「わたし」の思いもブログの文章も同じ文字で表されてしまう小説というものだからこそ、びっくりするほど効率的にやれた実験なんだと思うし、「わたし」「わたし」と書きすぎて、私はいま「わたし」が文字に見えないゲシュタルト崩壊を起こしているのだが、この小説のなかでは、常識的な意味での「自我」とか「内面」がゆるく崩れていく。いや、崩れるのではなく、広がっていく。
 錯乱の気配などみじんもなく、そこではただ自然に、「わたし」はシーツに寝そべったまま、遠く離れた場所の夫を、たしかに見ている。そんなことが可能である小説が、ここにできている。「わたし」が広がることで、小説も広がったのだと思う。そこに、この小説のほかではありえないラストが来るのだ。

 その「わたしの場所の複数」が収められた、『わたしたちに許された特別な時間の終わり』が、せんじつ新潮文庫に入った。ためしに読んでみてほしい。なにしろ、380円なのである。


わたしたちに許された特別な時間の終わり (新潮文庫)わたしたちに許された特別な時間の終わり (新潮文庫)
(2009/12/24)
岡田 利規

商品詳細を見る


(続く)
スポンサーサイト
2009/12/12

読中日記(19)


前回…

季刊 真夜中 No.7 2009 Early Winter

リトルモアの文芸誌「真夜中」のNo.7で、長嶋有の連載小説がはじまっていた。「三十六号線」。第1話は「殺人事件」だった。(★結末に触れます)
《事件発生は四日前の、これくらいの時間。殴られたおじいさんは怪我をしたまま帰宅、襲われたときの状況を家人に告げ、その後ほどなくして意識を失った。家人はあわてて救急車を呼んだが病院で亡くなった。後頭部を強く打たれての脳挫傷。おじいさんの言葉によると、殴ったのは中学、高校生くらいの若者の集団だった。》pp10-11

 主人公は五十代の女性。夫とは離婚した。子供は手を離れ、北海道の田舎町で働きながら老父の面倒を見ている。
 事件の現場であるスーパーで刑事に聞き込みを受けたのがきっかけになって、ちょっとまえ、駐車場にたむろしていた不良たちの姿が不気味なものとして立ちあがる。刑事にすべてを話せないのは、彼女が学童保育の仕事をしているからで、かつて自分が世話をした子供が関わっているのではないかと想像してしまうからだ。
 以来、事件のことばかりが気にかかり、そこからつながって、子供たちが成長していった先の「分からなさ」、実際に遭遇したトラブルの回想などなどが彼女の頭を占めていく。何か気がかりが生まれると、考えることがみんなそちらに引っぱられていく、あの感じである。ところが。
《しばらくして捕まった、殺人事件の犯人は不良グループではなく、殺されたおじいさんの奥さんだった。
 スーパーマーケットの、だだっ広い静かな駐車場での血なまぐさい映像(想像)は、一気にかき消された。》p16

 不良グループの姿は、たしかに、もともと想像でしかなかった。その想像の根拠がウソだったと判明する。だから想像は「一気にかき消された」。
 ・・・でも、そのような間違った想像、いわば錯覚が、あとからきれいに「かき消える」とすることのほうがじつは錯覚で、いちどしてしまった想像は、もう消えないんじゃないかと思う。根拠がなくなったからかえって定着する、という気さえする。

 足場を奪われた想像は宙に浮くしかない。内容はともかく、かたちとしては「よかった、病気の子供はいないんだ」的な展開だが、重ねて思い出したのは、夏に読んだフローベール『感情教育』(1869)の一場面だった。

 田舎からパリに出てきたばかりの、まだ何者でもない青年フレデリック君は、成功した商人の若奥様にひと目ぼれ、会えもしないのに無理やり用事をつくって商店に通いつめ、夜な夜な街路から二階の灯りを見上げては、「ああ、あの部屋に奥様が・・・」と思いを焦がすのだが、ある日、何にも気付いていない鈍感なその商人から、話のついでに「ま、住居はここと別にしてるんだがね」と聞かされる。
《この場所のあたりのものの魅力がさっと失せてしまった。おぼろげにここにただよっているように感じていたものが消えてなくなった、というより初めから、ぜんぜんなかったのだ。彼は限りない驚きと裏切られた苦痛に似たものを味わった。[…]
 モンマルトル通りの角で彼は振り返り、二階の窓を見た。そして、あれをどんなに恋心を込めてたびたび眺めたかを思い出して、自分をあわれみつつ、胆で笑った。いったいどこにあのひとは住んでいるのだろう? こうなってはどうして会えばいいのか? 孤独の気持が今までにないほど大きく、彼の欲情のまわりに拡がった。》上巻pp66-7

 最後の一文の身も蓋もなさに笑うが、それはそれ。たとえあとから根拠がきれいさっぱり消されてしまっても、いったん想像されたものは――髪を解いて窓辺の椅子に腰を下ろした若奥様も、病気の子供も、おじいさんを殴り殺した不良たちも――、みんな本当に存在していたのだ。
 それも、想像した者(登場人物)の心のなかにいるんだよ、というのとはちがった仕方で、その想像をのぞき見た者(読者)にとっても、ずっと存在し続けると思うのだけど、そこを説明する言葉が私にはない。

 だって小説を読むのってそういうことだろ、と言ったら言い過ぎかもしれないけれども。ちくちくとこのようなシーンをメモしていくことにする。

…続き
2009/12/10

読中日記(18)


前回…

 保坂和志の「未明の闘争」連載第3回が読みたくて本屋へ「群像」2010年1月号を買いに行ったら(しかし2010年て)、隣に置いてあった「文學界」1月号でも保坂和志の新連載がはじまっていて、たまげた。
 でも今日は、この2ヶ月くらいで読んでおぼえているもののメモをいくつか。


「モンキービジネス」2009 Fall vol.7 物語号

 この文芸誌、最近では月刊か、すくなくとも隔月刊に早まったように感じられる。ぽつぽつ拾って読んでいるうちに次の号が近づいてくる(次号vol.8は1月20日発売)。

モンキービジネス 2009 Fall vol.7 物語号


 今度のvol.7では、マグナス・ミルズ「聞けみ使いたちの」(柴田元幸訳)がいちばん面白かった。クリスマスを海辺のゲストハウスで過ごそうとやってきた「私」。しかしなんだかあてがはずれて、宿のあるじとも噛み合わず、たしかにいるらしいほかの客にも会うことができない。
 それだけの短篇小説(13ページ)で、何が面白いんだかわからないが、3回続けて読んでも面白い。起きてくると朝食の時間は終わっていた。1人で外に出るがだれにも会えない。帰ってくると夕食の時間は過ぎている。ツリーの電球はチカチカして切れた。ほかのみんなは楽しんでいるらしい。
 すべて平易な言葉だけで、どこにも思わせぶりなほのめかしはないのに、「書かれてあるのとはぜんぜん別のことが起きているのではないか」という感じと、「いや、まったく平凡なことしか書かれていない」感じの両方がする。そして、どっちの場合でも面白い。
《風に頭を低くして歩き、時おり立ちどまっては海鳥たちが波の上でアクロバットをくり広げるのを眺めた。畑のひとつで牛が何頭か体を寄せあい、海に背を向けて立ち、彼らのために置かれた干し草の梱を鼻先でつついていた。遠くにちらほら低い建物が見えた。いくつかは農家で、あとは貸別荘だろうか。けれども、全然見えないのは、人間の姿だった。今日は私以外誰一人、海岸の小径を歩くことを選びとらなかったのであり、セッジフィールド氏の言うほかの宿泊客たちは影も形もなかった。反対の方向に行ったのだろうか。》p163

 これを、たとえば幽霊譚、と決めつけて読んでしまっては面白さは半減する。なんだかわからないが面白い、という状態にとどめておきたい気にさせる、変な小説。唯一、タイトルだけが意味深だけど、これも思わせぶりというよりは、「なんか、変なの」くらいの印象。
 それにしても、よくこんな、まるで派手さのない不思議な小説を見つけてきて、まるで派手でなく、不思議なままに訳すよなあと思われたことだった。

 連載陣では、ダニイル・ハルムスは相変わらず好調、そして岸本佐知子「あかずの日記 7」も面白かったが、こちらは、「この人がこういう方向に行くのか」というおどろきが強かった。いずれ単行本にまとまったら、『ねにもつタイプ』のファンとかみんなびっくりするだろう。まだ続くんだろうけど、今回がクライマックスではないか(でも、前回もそんなふうに思った気がする)。


■ 岸本佐知子といえば、新潮社「yom yom」の白い表紙号に載っていた読書エッセイも面白かった。こちらは立ち読みだったので引用できないが、タイトルを「すごいよ!! ヨシオさん」といって、いや、ここからだれが片岡義男の絶賛文を予想するだろう。
 思い出ばなしふうのゆっくりした書き出しから徐々にピントを合わせていって加速、最後の1文までびしっと決まっている。思わず文庫の棚に行って、紹介されていた『花模様が怖い ―謎と銃弾の短篇』を捜してしまった。
 この人の書評集が早く読みたい。


■ しばらく前に、近所の古本屋でちくま文庫の『芥川龍之介全集』8巻揃いを手に入れた。申し訳ないほど安かった。ちまちま読んで、まだ2巻だが、「邪宗門」という短篇におどろいた。初読。

芥川龍之介全集〈2〉 (ちくま文庫)

 たぶん「地獄変」なんかと同じ時代の京が舞台で、大殿と若殿との確執、うつくしい御姫様、典雅な駆け引きなんかがつらつらと述べられていって、そこに突然、「摩利の教」の沙門(キリスト教の僧)があらわれる。
 この異形の沙門=摩利信乃法師は天狗みたいに描写され、奇怪な術をふるういっぽう、いろいろ因縁があるらしく、ある日、阿弥陀堂の建立供養の場に乱入する。この場面がなんだかすごい。
《[…]廓に囲まれた御庭の池にはすきまもなく、紅蓮白蓮の造り花が簇々と咲きならんで、その間を竜舟(*)が一艘、錦の平張り(*)を打ちわたして、蛮絵(*)を着た童部たちに画棹(*)の水を切らせながら、微妙な楽の音を漂わせて、悠々と動いて居りましたのも、涙の出るほど尊げに拝まれたものでございます。》

《その御仏の前の庭には、礼盤(*)を中に挟みながら、見るも眩い宝蓋(*)の下に、講師(*)読師(*)の高座がございましたが、供養の式に連なっている何十人かの僧どもも、法衣や袈裟の青や赤がいかにも美々しく入り交じって、経を読む声、鈴を振る音、あるいは栴檀(*)沈水(*)の香などが、その中から絶え間なく晴れ渡った秋の空へ、うらうらと昇って参ります。》pp326-8

 乱れ打たれる(*)は注のマーク。それも含めて、きらびやかな言葉の洪水にくらくらする(しかもこれ、非人の小屋が立ち並ぶ夜の河原の場面のあとに描かれる)。で、こんな阿弥陀堂で、くだんの摩利信乃法師と、名だたる仏僧たちが超能力で対決するのである。
《横川の僧都は急に印を解いて、水晶の念珠を振りながら、
「叱。」と、嗄れた声で大喝しました。
 その声に応じて金甲神が、雲気と共に空中から、舞下ろうと致しましたのと、下にいた摩利信乃法師が、十文字の護符を額に当てながら、何やら鋭い声で叫びましたのとが、全く同時でございます。この拍子に瞬く間、虹のような光があって空へ昇ったと見えましたが、金甲神の姿は跡もなく消え失せて、その代りに僧都の水晶の念珠が、まん中から二つに切れると、珠はさながら霰のように、戞然と(*)四方へ飛び散りました。
「御坊の手なみはすでに見えた。金剛邪禅の法を修したとは、とりも直さず御坊のことじゃ。」》pp334-5

 いったい何が起きているのか、クリリンの気持で読むわけだが、芥川龍之介はSFXもCGも見たことないんだよなと思うと、こういうイメージの典拠ってどこにあるのか不思議になる(何か転倒しているだろうか)。
 それでこの戦いはどうなるんだ、とあわててページをめくり、私は本当にびっくりした。詳しくは書けないので、ぜひ現物にあたられたい。摩利信乃法師もすごいが、芥川も、ものすごい荒技を使うのである。読んでよかった。

…続き
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。