2009/10/26

読中日記 (15)



■ 10月15日(木)

 高校以来の友人Bからメール。彼のメールにはいつも用件しかない。
藤子F全集はどんな感じで集め始めた?
俺はとりあえずオバQとエスパー魔美。

 おそれつつ、「ド、ドラえもんとオバQを…これから買おうと思います…」と返信。返ってきたのは
見損なった

 最後に「。」も付いていない。


■ 10月17日(土)

『フロム・ヘル』の上巻を買いに行き、藤子F全集の『ドラえもん』第1巻を買って帰る。


■ 10月18日(日)

・夜、隣町の駅前を歩いていると、前方から来た女性が提げている紙袋に水木しげるの悪魔くんが描かれていた気がして思わず立ち止まる。
 見まちがいか? しかし、すぐあとに同じ方向からやってきた人も同じ紙袋を提げている。思わずあとを追い、それはどこで手に入れたのかと問いただしたくなる気持を抑えて、またまた同じものを持った人が通るのを待ち受け、その紙袋がユニクロ発であることを確認。白黒の絵が悪魔くんと鬼太郎であることも確認。ありえないツーショットなんだけど、こんどぜったい何か買ってあの紙袋に入れてもらわなくては、と決意する。見事な本末転倒。

宮沢章夫が横光利一の短篇「機械」について、12年間書き続けた連載をまとめた『時間のかかる読書』がそろそろ本屋に並ぶはず、と思って隣町の大きい書店を回ってみたけどどこにもない。あとで調べたら、発売が11月に延びたらしい。でも、11月23日(月)に「刊行記念トークライブ+サイン会」があるのを知った(@リブロ池袋店)。
 しかし、11月23日の祝日が休日ではないのもすでにわかっている。ああ悔しい。そのいっぽう、立ち読みした「文藝」の冬号には、いとうせいこうによる『時間のかかる読書』の書評がもう載っていた。
 1時間足らずで読み終わる「機械」を相手に、小説の本文をはるかに上回る量の文章を書き連ねるという宮沢章夫のふるまいを、たしか、「キトラ古墳に落書きをするのは冒涜だが、キトラ古墳を含めた土地をぜんぶ買ってしまえば、キトラ古墳の歴史に参与することになる」、みたいなたとえを使って評していた。
 これは記憶によるのでまちがっているかもしれない。というか、きっとまちがっているだろう。それなのにいまこうして書いたのは、もちろん、「キトラ古墳」と繰り返してみたかったから。キトラキトラ。


■ 10月19日(月)

 光文社の古典新訳文庫で出た、カフカ『訴訟』を読みはじめる(丘沢静也訳)。『審判』の、タイトルから変えた新訳。読んでも読んでも進まない。読了まで1週間かかる。
《「ふたつの方法には共通点がある。被告が有罪判決を受けないよう、邪魔してくれる」。「でも、本当に釈放されないよう、邪魔もしてくれる」と、Kは、そのことに気づいたことを恥じているかのように言った。「お、核心をつかみましたね」と、画家が早口で言った。》p239

 巻末の「解説」によると、カフカの草稿を友人マックス・ブロートが編集したものが最初に世に出たカフカ全集だが、ブロートの死後、より草稿に近いかたちで(なるべく編集を排して)まとめ直した「批判版全集」が作られた。さらにそのあと、草稿の書かれたノートをそのまま紙に起こして生まれたものを「史的批判版全集」というらしい。もう何がなにやら。
『訴訟』にいたっては、草稿ノートが16冊に分かれているため、「史的批判版」ではじっさいに箱入りの16分冊になっているという(さすがに古典新訳文庫は1巻にまとめている)。
 こういう状況が面白いなあ、とかいう以外のことを書こうとすると、どうしたってえんえん引用するしかない。


■ 10月23日(金)

 なんか評判らしいので、マット・ラフ『バッド・モンキーズ』を読む(文藝春秋刊、横山啓明訳)。ものすごい速さでページがめくれるので楽しい。カフカのあとだとなおさらだ。1日で読み終わる。「立派」とか言われないように駆け抜ける感じが立派。


■ 10月24日(土)

 水木しげるの悪魔くん(白黒)紙袋を目当てに隣町のユニクロへ行く。エスカレーターですれちがう人の紙袋は(1)ニャロメ (2)カラーの鬼太郎ファミリー (3)なんかカッコいいやつ、の3種類。不安がよぎる。
 安い買い物をしてレジに並び、どきどきしながら「紙袋を売っていただくことはできないでしょうか」と訊いてみる。

「無料でおつけしますけど、ご希望がございますか?」
「あの、白黒の鬼太郎を」(←悪魔くん、では通じないと考えている)
「(2人がかりで捜したあとで)ああー、あれはもうないようです」
「そうですかすみません、ほんとすみません」
「カラーのものでもよろしいでしょうか」
「はいすみません、ほんとすみません」
「…2枚おつけしましょうか?」
「いえいえけっこうです、ほんとすみません」

 われながら本当にキモい客。ユニクロの接客は世界一、と書いてみてもフォローになるだろうか。


■ 10月25日(日)

・友達に誘われ遠くのスポーツ施設。体力と引き替えに全身の痛みを手に入れた。以後、さまざまな意見の交換。「キモい」「おまえがキモい」「どっちもキモい」というやりとりを数セット。
・深夜に帰宅、水木しげる『悪魔くん千年王国』(ちくま文庫)を掘り出して読みはじめる。



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2009/10/20

読中日記 (14)



 保坂和志「未明の闘争」を読んで池袋に行った話の続き。

 前回の最後にした引用の次が下の引用だけど、と書いてみて、だれもそんなことおぼえていないと思うから、両方とも引用する。区切りを入れたが、実際には、ここは段落が変わるだけで切れ目なくつながっている。
D《明治通りとビックリガードをくぐってきた道路でT字ができる。五叉路のうちの三本はだから太い。あとの二本はだいぶ細い。T字を横にした┤の右に三角定規の直角を┤のタテ棒というのは南北のことだが、そのタテ棒に対して三十度の開きでくっつけた感じだ。右のこの二本は狭いからビックリガードを抜けてきた変則四車線の道路のつづきということはまったくなく、そこから来た車はみんな明治通りに入ってゆく。》

《右側の狭い二本の道で直角に仕切られたエリアはいまはジュンク堂書店が建っているが、そのときあったのは証券会社だった。そのエリアの上側、というのは北側の三十度の角度の三角州のようなエリアはいまはカラオケ館のビルがあるが、そのときあったのは五階建てのテナントビルで、屋上にローン会社のアコムの大きな看板が乗っていた。途中目立つものはないが、一階と二階がダンキンドーナツだったから目印のピンクとオレンジの縞の装飾が目立っていた。
 というその五叉路に私がもうじき着くタイミングでスクランブル交差点の信号がいっせいに歩行者青になった。時間は十二時半。》

 Dで「T字を横にした┤」という道のかたちが出てきて、Eではその「右側」に直角のエリアをくっつけるという説明がなされている。これって、視点としては俯瞰になるわけである。
 この小説、前々回の(12で書いたような「私は」の力業で対象との距離を消し、場面に没入するような始めかたをしながら、同時に、「私」の視点からではありえない俯瞰も混ぜてくるのである。没入と俯瞰はおなじ枠には収まらない。結果、書かれている内容が「とらえにくい」ということになる。
 そのうえ、次は《というその五叉路に私がもうじき着くタイミングでスクランブル交差点の信号が》となるのだ。駅をむく「私」の視点に戻っている。

 私は読んでいて、洗濯機のなかでかき回されているような思いがする。私はそのときジュンク堂に入り、1階雑誌売り場の「群像」でもういちど「未明の闘争」を読み直した。
 上記のようにこちらを撹拌してくる記述で気持悪くなっているのに加えて、さらに、小説の現場とほぼ同じ場所に自分がいるせいでますますおかしな気分になる――かと思ったら、意外にも、位置関係がわかったおかげで「未明の闘争」冒頭2ページはすんなり読めるようになっていた。

 ということは、1種類の視点(認識)では把握できない書き方がされている文章を、私は現場に立つことで理解可能なものにしてしまったわけである。これは、しないほうがよかった気がする。小説は文章だけでできていて、文章のとらえにくさを現実の情報で埋め合わせるのは、なんだろう、お店で食べた味をグルメサイトの記述で補完するような(いや、逆か?)本末転倒だった気がする。
 私はその日、それからビックリガードの下をくぐり、池袋の駅の反対側に出てしばらく迷った。でも、現実の土地で迷うのと、小説の変な記述を読み迷うのとでは、感覚がぜんぜんちがう。
(後者のほうが軽く吐き気をおぼえさえするのは、あたまのなかだけで迷い、体感が伴わないからだと思う)

 それで、池袋に来る前の「とらえにくさ」を思い出しながらここまで書いてきた次第だが、Eのあと、「私」が大勢の人と一緒に横断歩道を渡る(現・ジュンク堂から西武のほうに渡る)シーンも面白い。最後のところだけ引用する。
《小学五年生ぐらいの女の子が大事そうに子猫を抱き、それをガードするように同級生らしき女の子が二人寄り添って歩いていた。胸にファイルを抱えた二十代前半の女の子が顔をやや上に向け、何かを暗記するようにぶつぶつ口を動かしているのが、子猫を抱いた女の子の十年後の姿に感じられた。》

 さっきまでは位置に関する視点が撹拌され、ここでは時間も撹拌されているように思う。少なくとも私は、一時に見た光景のなかにこんな時間の飛躍をとらえたことはない。そしてこう続く。
《ナースキャップをつけたまま制服に紺のカーディガンを羽織っただけの看護婦が私をうしろから追い越しそのまま小走りにファイルを抱えた女の子の前をかすめ、自転車の青年をよけると、その向こうに一週間前に死んだ篠島が右の方から歩いてきた。》

 これはちょっと鮮やかすぎるくらい鮮やかだ。そして「私」は、近くに立っていた知人の「長谷川信也」が、死んだ篠島から挨拶されるのを見る。
 どうしてこんな状況が、というのが徐々にわかってくるのは、「私」が西武の上階のカルチャーセンター(もと職場)に入り、そこにいた「戸田芳文」と話すあたりからだ。
《「篠島来たのか。」私は戸田芳文に訊くと、戸田芳文は力ない沈んだ声で、
「トイレ行って来るって、一回来てまた出てったんですよ。」
 戸田芳文というのはこんな時にも丁寧語を忘れない。篠島のショルダーバッグが戸田芳文の左隣の席に置いてある。篠島はこれを下げていた。私はさっき交差点でたしかに見た。ダンキンドーナツの前には長谷川信也がまだ突っ立っている。》

《ダンキンドーナツの前には長谷川信也がまだ突っ立っている》のが、いまの「私」に見えるはずがない。
 面白いのは、このような書きかたは、これより前のビックリガードと五叉路の説明も含めて、下手と区別がつかないということだ。でも私は、保坂和志がそんな作家ではないのを知ってしまってもいる。これもまた、当の小説以外の情報かもしれないが。

 そこで、位置と時間の変な具合について、逆にとらえてみる。つまり、位置と時間が脈絡なく混ざっていると受け取るのをよしてみる。
 そうすると、強引な「私は」で強引に場が設定されているために、客観的な視点(俯瞰は客観的だと思う)を使っても、記述の全体が「私」の気配を帯びる、すべてに「私」が充満している、という感じがしてくる。そんな認識のしかたがありえるのは、おそらく夢のなかだけだ。

(いま、しばらくがんばって、自分が夢を見るとき、位置関係を俯瞰してとらえる視点があるかどうかを思い出そうとした。が、いかんせん、いまは目を覚ましているのでよくわからない。そのような視点がたしかにあるとすると、この混乱した記述は、夢としては一貫しているとも言える。特に結論はない)

 そしてこのへんで、わずか3ページ前の冒頭の記述に戻ってみると、
《ずいぶん鮮明だった夢でも九年も経つと細部の不確かさが現実と変わらなくなるのを避けられない。》

 とあって、なんだはじめから夢だと書いてあるじゃないかと気づいたのである。初読時の私はそれを忘れていた。
 そうすると、このあたりの全体に書かれてあることは夢じゃないのか、という思いつきは、どの時点で私に生まれたのか。それはすでに知りようがない。もういちど、初めて読みたい。それは無理である。

「私」が夢から覚めたあとの記述は、ここまでに較べると格段に読みやすくなる。格段に読みやすいのに何事か不穏な気配が漂っているからどきどきするのだが、それについてはまた来月、続きを読んで考える。




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2009/10/16

読中日記 (13)



 保坂和志「未明の闘争」「群像」11月号の冒頭を、もう一回書き写す。
(引用の前に記号を付ける。AからEまで、どれも最初の2ページから引いた)
A《ずいぶん鮮明だった夢でも九年も経つと細部の不確かさが現実と変わらなくなるのを避けられない。明治通りを雑司ヶ谷の方から北へ池袋に向かって歩いていると、西武百貨店の手前にある「ビックリガードの五叉路」と呼ばれているところで、私は一週間前に死んだ篠島が歩いていた。》

「ビックリガード」がわからないので、五叉路がどこの五叉路なのか、いまひとつピンとこない。あそこか?とも思うが、そもそも、こんな五叉路はウソなのかもしれない。
 いや、ここがウソだと夢の描写としておかしい、だから正確に書かれているはずだ、というのはわかるのだが、続いて出てくる、この場所のさらなる説明は、まるで「なるべくわかりにくくする」のを意図して書かれているかのようだ。
B《[…]西側の南寄りにあるホテルメトロポリタンの南の端を西から来た片側三車線と片側一車線という変則の四車線道路がかすめる。道路はそこを過ぎると地下一階分くらい下降して、幅百メートルほどある線路の下に潜る。採光が悪く照明もろくにないそこがビックリガードだ。》

C《山手線と埼京線と貨物の線路と西武池袋線が地上を走っているために、西と東を行き来するにはビックリガードをくぐらなければならない。百メートルあるガードをくぐりきる前に道路は上り勾配になり、地面の高さに完全にもどりきるより前に明治通りに合流するそこが「ビックリガードの五叉路」だ。》

「そこが」って、どこだ。私がようやく見当をつけることができたのは、次の記述を読んでからである。
D《明治通りとビックリガードをくぐってきた道路でT字ができる。五叉路のうちの三本はだから太い。あとの二本はだいぶ細い。T字を横にした┤の右に三角定規の直角を┤のタテ棒というのは南北のことだが、そのタテ棒に対して三十度の開きでくっつけた感じだ。右のこの二本は狭いからビックリガードを抜けてきた変速四車線の道路のつづきということはまったくなく、そこから来た車はみんな明治通りに入ってゆく。》

E《右側の狭い二本の道で直角に仕切られたエリアはいまはジュンク堂書店が建っているが、そのときあったのは証券会社だった。そのエリアの上側、というのは北側の三十度の角度の三角州のようなエリアはいまはカラオケ館のビルがあるが、そのときあったのは五階建てのテナントビルで、屋上にローン会社のアコムの大きな看板が乗っていた。[…]
 というその五叉路に私がもうじき着くタイミングでスクランブル交差点の信号がいっせいに歩行者青になった。時間は十二時半。》

 つまりは、「ジュンク堂書店池袋店で買い物をして、駅へ戻るために渡る横断歩道」である。そう書いてくれれば話は早かった。これだって、ジュンク堂に行ったことのない人からすればさっぱりだろうが、そんな人にもよくわかるようにと上の引用部分が書かれたのではないのはまちがいない。繰り返すが、だって、すごくわかりにくいのだ。
 位置関係をつかみにくくするための書き方。話を早くしないための書き方。読み直すほどに翻弄されるというか、単純に気持が悪くなってくるので、実際に池袋へ行ってみることにした。

 私は10月12日の日曜日午後に池袋へ着くと、西武内のリブロの雑誌売り場に置いてある「群像」で「未明の闘争」の上記引用部分をあらためて3回読み直した。そのまま1階出口から外へ出て横断歩道を2本渡り、巨大なジュンク堂書店の前まで行く。私はそれからいま自分が歩いてきたほうに向きを変え、目の前を真横に走る明治通りを見ているところで、最初の引用を再度する。
A《[…]明治通りを雑司ヶ谷の方から北へ池袋に向かって歩いていると、西武百貨店の手前にある「ビックリガードの五叉路」と呼ばれているところで、私は一週間前に死んだ篠島が歩いていた。》

 私の方向はこれで合っている。私は自分が渡ってきた横断歩道の左側に太い道路が延びて行き、それが下降して線路の下にもぐるのが見える。ビックリガード!私はまわりにこれだけ人がいるなら同じく「未明の闘争」を確認に来ている人がいないかと思いながら(それはない)、引用を確かめる。
B《[…]西側の南寄りにあるホテルメトロポリタンの南の端を西から来た片側三車線と片側一車線という変則の四車線道路がかすめる。道路はそこを過ぎると地下一階分くらい下降して、幅百メートルほどある線路の下に潜る。採光が悪く照明もろくにないそこがビックリガードだ。》

 早くもここが、説明として飲み込めない。ジュンク堂から駅のほうを見るのは、東から西にむかう方向なのに、いまのBの説明は、車道を西から東になぞっている。
 原因は、「ビックリガードの五叉路」と「ビックリガード」の距離だ。小説の「私」が「篠島」を見た現場は「ビックリガードの五叉路」だから、そこを説明するためにまず「ビックリガード」から述べる、という論理のつながりがあって、それなのに「ビックリガードの五叉路」と「ビックリガード」はけっこう離れている。そのためいったん五叉路を離れてビックリガードについて書くことになり、今はジュンク堂になっている証券会社の前から駅にむかう歩行者「私」の目からでは見えやしない記述(B)が取り入れられたのだと思われる。論理のつながりが地理のつながりを切断する。車道の流れは私のむいている方向と正反対だ。
 不思議なのは、わかりやすさを優先するなら五叉路についてだけ書けばよく、たとえ通称が「ビックリガードの五叉路」だとしても、ビックリガードの説明から語り起こす必要は特にないだろう、ということだ(「私」は五叉路を渡ってから、ビックリガードには行かず、西武の建物に入るのである)。
 ということは、ここの記述において、五叉路だけでなく、行きもしないビックリガードについても書いておかないといけない理由があった、つまり、わかりやすさ以上に優先したいものがあったということになる。それがさっき書いた「ビックリガードの五叉路」→「ビックリガード」という論理なのかもしれない。もっとも、私は、ただこういう書き方がしたかったからじゃないかとも思うのだが、それはどんな書き方なのか。次もやはり、西から東へむかう車の立場で書かれている。
C《山手線と埼京線と貨物の線路と西武池袋線が地上を走っているために、西と東を行き来するにはビックリガードをくぐらなければならない。百メートルあるガードをくぐりきる前に道路は上り勾配になり、地面の高さに完全にもどりきるより前に明治通りに合流するそこが「ビックリガードの五叉路」だ。》

「ビックリガードの五叉路」から「ビックリガード」にさかのぼったのが、再度「五叉路」に戻ってきたわけである。これに続く次の説明も、そのままつながっているのがはじめてわかった。
D《明治通りとビックリガードをくぐってきた道路でT字ができる。五叉路のうちの三本はだから太い。あとの二本はだいぶ細い。T字を横にした┤の右に三角定規の直角を┤のタテ棒というのは南北のことだが、そのタテ棒に対して三十度の開きでくっつけた感じだ。右のこの二本は狭いからビックリガードを抜けてきた変速四車線の道路のつづきということはまったくなく、そこから来た車はみんな明治通りに入ってゆく。》

 位置関係を「T字」で説明するのは、また別の問題になると思われる。




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2009/10/14

読中日記 (12)



「群像」11月号の保坂和志「未明の闘争」第1回を読みはじめると、いきなり「?」とつまづくことになる。
《ずいぶん鮮明だった夢でも九年も経つと細部の不確かさが現実と変わらなくなるのを避けられない。明治通りを雑司ヶ谷の方から北へ池袋に向かって歩いていると、西武百貨店の手前にある「ビックリガードの五叉路」と呼ばれているところで、私は一週間前に死んだ篠島が歩いていた。》

 最後の部分、《私は一週間前に死んだ篠島が歩いていた。》がおかしい。一瞬、見まちがいかと思って読み直すが、まちがいなくまちがっている。誤植ではないとわかるのは、このあとも、おかしい「私は」が続くからだ。
私はそこまで小走りして、
「いまの篠島だったよな。」と言うと、長谷川信也はものすごく難しい顔で首をねじるように傾げて、》

私は信号はすでに赤に変わっていたから、まわりの人に聞かれないように声を低くしなければならなかった。》

私はエレベーターでカルチャーセンターのある八階に上ると、エレベーターホールからそのままつづいているロビーの広いスペースを見回したが篠島の姿は見えなかった。
 私はロビーは十二年間も勤めていた場所なので、いちいち見なくてもどこに何があるか知っていた。》

 この繰り返しは気持が悪い。ここから出てくる不穏な雰囲気は、『カンバセイション・ピース』とはだいぶちがう。私の読んだ保坂作品だと唯一、『小説、世界の奏でる音楽』に入っている短篇、「K先生の葬儀実行委員として」がこれに近いかもと思ったが、さっき読み直してみると、あちらもやっぱりおかしい小説だったものの、少なくとも、こちらほどあからさまにおかしな日本語は使われていなかった。
(その代わり、「死んだ人間が目の前で横断歩道を渡る」話はあちらにもあったのを確認した)

 不穏とか言いつつ、保坂和志はどうしちゃったんだと心配するのではなくて、このおかしな「私は」の採用を、「いよいよこういう書き方に乗り出したんだな」、と受けとめ一種の安心のうちに落ち着けることはできる。
 なんとなれば、保坂和志がいちばんの尊敬を捧げる小島信夫、その去年復刊された新潮文庫『アメリカン・スクール』の巻末に、それこそ保坂和志じしんが書き下ろした「解説」を私は読んでいたからで、そこでは、小島信夫の文章の強さを生む動因のひとつに、日本語としておかしい「○○」がある、と述べられていたのだった。
《[…]少なくとも小島作品においては、「は」は「が」より強く、「は」を途中に入れるより文頭に持ってくる方が強い。それによって読者は書かれた内容との距離感を失う。[…]》

《書こうとする情景や心理状態と書く自分との関係を、よくよく心して変え、しかもそれを注意深く持続させていないと、すぐにセンテンスは「は」でなくなってしまう。文を書くということは思う以上に対象と距離を取ることだったんだなと痛感した。》『アメリカン・スクール』解説p389

 でも、こうやって過去の文章をひっぱってきて「こういう意図を実践するのだな」と読者の私が安心してしまうのは、保坂和志の本意ではないだろう。本気で心配する(どうしちゃったんだ)ほうがまだましだ。なにしろ、「書かれた内容との距離感を失」わせる「私は」なのだから、ここで私が小説の実物から離れてしまってどうする。
《ずいぶん鮮明だった夢でも九年も経つと細部の不確かさが現実と変わらなくなるのを避けられない。明治通りを雑司ヶ谷の方から北へ池袋に向かって歩いていると、西武百貨店の手前にある「ビックリガードの五叉路」と呼ばれているところで、私は一週間前に死んだ篠島が歩いていた。》

 私はそれで最初の引用を読み直してみると、「これは夢の描写の始まりですよ」とはっきり書いてあるのも同然だ。私は夢の途中で「これは夢だ」と気づけたことがない。だからいつも必死で切迫している。そんな感じをなぞるような、これは「私は」の連打なのだった。
 そして小説の「私」はほどなく夢から覚めて、私は読みながらうすうす期待していたとおり、起きてからもなお、おかしな「私は」が繰り返されて、そのまま次号へ続くのである。
 いわゆる「この先の展開が読めない」というのより以前の段階で、この小説はどうなるのか、どこへ行くのか。ところで、この小説を読んだ私は池袋へ行った。その話は次回。



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2009/10/11

読中日記 (11)



 すごいものを読んだので、これまでの日付を無視して更新。
 
 保坂和志のあたらしい小説「未明の闘争」が、「群像」の11月号から連載開始、と知って買いに行き、さっそく読んだんだけどその話はまた今度、買ってきてはじめてわかったのは、この11月号で小特集“知られざるウラジーミル・ナボコフ”が組まれていたことだった。

(あ)未発表の初期短篇「ナターシャ」の翻訳と解題(沼野充義)
(い)ブライアン・ボイドのエッセイ(秋草俊一郎訳)
(う)若島正の評論

(あ)はまあ、なるほどナボコフであるなという鮮やかな短篇だった。ロシアを追われた父娘。幻影。上記の保坂和志と表面的にかぶってるように読めなくもない部分があったりする(1枚めくるとたぶん全然ちがう)。
(い)のブライアン・ボイド氏はナボコフ研究の世界的権威でこれとか参照)、この人が学生時代からどのようにナボコフ作品にアプローチしてきたか、ひいてはナボコフの死後、どうやって未亡人と息子の信用を勝ち得て今はどんな仕事を進めているかという、専門家としての半生記みたいなものになっている。
 ここまではふつうに読んだ。すごいというのは、(う)の若島正である。

 こちらのブログこの記事を見るとわかるように、ナボコフには死の直前まで書いていたThe Original of Laura (『ローラのオリジナル』)という小説の草稿があった。
 ナボコフの草稿はいつも小さなカードに書かれたそうで、『ローラのオリジナル』の場合、未完成のままついに浄書されることなく終わった138枚のカードの山は、ナボコフ本人が「燃やすように」と伝えていたのに、じっさいには妻から息子へと受け継がれ、結局、作家の没後32年を経て、来月11月に書籍としてまとめられ出版されることになった。
これだ。なんでも、本来そうだったカードの形に切り離せるようミシン目がついているとかいないとか)

 若島正はこの断片の集積から、完成しなかった『ローラのオリジナル』の全体像を、「こうではなかったか」と復元してしまうのである。
 はじまるといきなり、1枚目のカードの1行目から駆使される、ナボコフの玄妙な語りを読み解く。つまり、「このような技法である」という説明と、その解読を同時に行う。その延長・発展上に、小説の前半ほど草稿がまとまっていない後半部の姿を描き出して、総体としての『ローラのオリジナル』がどんな作品になりえたかを考えていく。そしてそして、さらにそこから、この一作に限らずにナボコフのむかった創作の方向をとらえることまでしてしまう。
 狭い読解から始まりながら、どんどん話がつながって大きくなっていく構成は流れるようで、最終ページ下段、ほとんど終わりの箇所で示される、人名を扱ったトリックは、そこだけ見たらこじつけみたいなものなのに、えらい急角度でこちらに突き刺さった。すごい面白い。
 これを読んで、まるで私は、存在しない『ローラのオリジナル』をすでに読んでしまった、しかもたいへんに面白い小説として読み終えたような気持にさえなった。ここにもう一篇の「青白い炎」ができた、というのは論の途中で若島正が自分を茶化すように言っていることでもある。
「私」の消し方」というこの評論には、「ナボコフの未完長篇『ローラのオリジナル』を読む」という副題がついている。未完なのに読む、という不可能ごとを実行すると、どうやったって作者に誠実にはなりえない(実物を読んだつもりになってしまう私がその証拠だ)。それもあってナボコフは「燃やせ」と言ったのかもしれないが、しかし、だったらもうこの評論は、若島正の書いた小説、として読んでしまえばよいのじゃないかと思う。私はそうする。


「群像」、ほかのページもめくってみると、岸本佐知子の「変愛小説集II 」はお休みだったが、小山太一のピンチョンについてのエッセイがあったり(『V.』の新訳が進行中!)、古谷利裕の大江健三郎論が載っていたりして、読むところの多い号だった(変な言いかた)。
 先月号から『日本文学盛衰史』の続きになる「戦後文学篇」を開始した高橋源一郎は、きわめて高橋源一郎的に快調だった。



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読中日記 (10)



 いつもと同じ時間眠り、いつもと同じ量の食事をしたのに、なんだか体がだるくて重い。血管が詰まっているように感じ、心なしか耳の聞こえも悪い。どうしちゃったんだろう。
 という話をしたら、「気圧が低くなっているからじゃないでしょうか」と指摘された。生まれてこのかた、私の身体がそのような敏感さを発揮したことは一度もなかったので有頂天になる。「馬鹿に見えますよ」と注意された。


■ 9月22日(火)
《「生きる」ための言葉である詩を包み込むように、沢山の「生き延びる」ための言葉たちがある。》p184

対談集『どうして書くの?』が面白かったので、春に出たのに買っていなかった、穂村弘『整形前夜』(講談社)も買って読む。
 やあ、やっぱり面白い。笑えるなかにも、「生きる」と「生き延びる」のちがいが繰り返し述べられる。
《私たちが揃って安全に「生き延びる」ためには、新聞の記事に限らず多くの場面で言葉を殺す必要がある。殺し方のルールとしては「5W1Hをはっきりさせろ」とか、「結論から述べよ」とか、「空気読め」(これ自体は意外性のある詩的な表現だが)とか。学校教育や社員研修や飲み会の席で、我々はこれらのルールを学び続ける。全ては「生き延びる」という大目的に向かって言葉をツール化するためだ。
 また「生き延びる」ための効率上、「次の一瞬に全く無根拠な死に見舞われる可能性」などは丁寧に隠蔽される必要がある。今まさに死に直面した人間の目に映る一万円札はただの紙切れだが、全ての人間がその目をもっていては社会が成立しない。お金はちゃんとお金にみえないと困るのだ。
 というわけで、生に対して本質的に唯一の未知性である死の匂いを忘れた人間の言葉からは意外性が消える。死から遠ざかることで詩からも遠ざかるわけだ。そんな私たちは意外な言葉に出会うと不安になってしまう。死の匂いを嗅がされた気がするから。》pp184-5

 こんなことが「見えている」のにうなるし、こんなことを、寝て起きたらまた「生き延びる」の世界に戻るしかない私なんかに向けて「書いてくれる」のにもうなる。こちらのインタビューでもちょっと触れられていたけど、このような視点からチャンドラーの特別さを扱った文章もあって面白い。

・穂村弘は、こういう文章にドキドキしたくてお金を払う人間(つま先くらいは穂村サイドに足を踏み入れているんだと思う)だけではなくて、中学生一般を相手にしても、ちゃんとボールを投げていた。
『整形前夜』には収録されていないけど、教育図書の中学3年・国語教科書用に書き下ろしたエッセイでも、この人はいっさい手加減していないのである。タイトルは「それはトンボの頭だった」。
 われわれは「生き延びる」ために生きてるんじゃないんだ、とかいう話を、全国の国語の先生はどんなふうに授業したんだろうか。というか、そもそも授業に使ったんだろうか。
 以上は、私はたまたまそのコピーを持っている、という自慢ではないと思うんだ。


■ 9月23日(水)

谷川俊太郎『詩めくり』(ちくま文庫)をめくる。
 1月1日からはじまって12月31日まで、1日に1篇、366日ぶんの詩が入っている詩集(2月29日を含む)。たぶんだれもが、まず最初、自分の誕生日にどんな詩があたっているかを確認すると思う。
 しかしこれ、しばらくめくっているとわかるんだが、「うらやましい、この日が誕生日ならよかった」よりも、「この日が誕生日じゃなくてよかった」と思ってしまう詩のほうがずっと多い。さすがは谷川俊太郎。そういう意味では、私の誕生日はだいぶましなほうだった。
《くしゃくしゃに丸めて捨てられた紙きれ
何か書いてあると思って拾ってみたら
あかんべえと書いてあった
どうだいい話だろうと
ハムレット役の俳優は言った》


■ 9月24日(木)
《盗人を捕らえることはぜんぜん別の問題だった。それには、完全に了解されたルールの下で、もっとも勝れたものが勝者になるという、およそあらゆる形態のスポーツに付きもののあの真剣さがあった。アナーキストと交渉を持つにはルールというものがない。そこが警部には気に食わなかった。》p141

こないだ『闇の奥』を読んだ流れで、部屋の隅に積んであった、おなじコンラッドの長篇『密偵』を読みはじめる。土岐恒二訳、岩波文庫。

・イギリス、ロンドンの片隅でしみったれた店を営むヴァーロックは、じつは某国大使館に長いこと雇われているスパイだった。同居している妻にもその母にも身分を隠し、商店兼自宅の上階では、しばしばアナーキストたちの会合が開かれる。ところがある日、新任の上司が、ヴァーロックにグリニッジ天文台の爆破計画を押しつける。唐突だ! どうするヴァーロック!?――みたいな話。

・これも面白い。最初から終わりまで、視点がずっとひねってあって、出てくる人物全員は、「表」ばかりでなく「裏」も遠慮なくズケズケ書かれてしまう。結果、大使館員も美人妻も前科持ちの巨漢アナーキストも爆弾博士も知恵遅れの青年も、この小説ではみんな矮小ということになる。
・視点がひねられているという印象がどこから来るかといえば、原因は、文章がひねくれまくっている、というところにあると思われる。
 逆に言うと、ひねった文章を駆使して人間を描くと、「表」ばかりか「裏」まで見えるようになるのかもしれない。それでも、読んでいて、「あまりの皮肉っぷりに嫌になる」ことがなかったのは、俎上にあがる人物が次々入れ替わっても、その視点が一貫しているからだろう。それはそれで、ひとつの誠実な態度に見えるのだ。
 ただし、何が書いてあるのか理解するのに2、3回読み直さないといけない部分はたまにある。
《ヴァーロック夫人が追っているのは、彼女のほうで忠実に支払ったスティーヴィーに対しての七年間にわたる保証、ついに他人にはうかがい知ることのできない信頼感へ、淀んだ淵のようにわだかまる奥深い家族的感情へと発展していった保証の幻像であったが、そのように厚い皮膜で護られた淀みの表面は、恥知らずにも誘うような目をし、まったくの馬鹿でない限りどんな女でもぽおっとなってしまう背徳的な清澄さをその視線にたたえていたたくましい同士オシポンでさえ、たまにそこを渡るぐらいでは、戦慄のさざなみひとつ立てられなかった。》p352


■ 9月25日(金)

・いちおう日付に沿って書いているが、450ページある『密偵』を1日で読了できるはずがなく、この日も次の日も読んでいたような気がする。
 この日記にウソはないが、まちがいはたくさんある。当たり前だそんなの。




整形前夜整形前夜
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読中日記 (9)



■ 9月19日(土)

・髪を切ってもらいに行ったら、駅の向こうに「いまどき珍しい、看板娘のいるお店」があると教えられた。「しかも、インドカレー屋。インド人」。

ジョゼフ・コンラッド『闇の奥』の新訳(黒原敏行訳、光文社古典新訳文庫)が、ネットやら何やらでかなり評判がいいのを見て読みたくなり、買ってくる。
 岩波文庫版は読んだはずだけど、たぶん多くの人と同様、そのあとで映画「地獄の黙示録」を見てしまったために、どこまでが小説の内容だったかわからなくなっている。

『闇の奥』はイギリス、テムズ河の河口に浮かんだ船上で始まる。船員である「私」が、やはり船員である謎めいた男・マーロウの話を聞くというスタイルで、語り手はすぐに「私」から「マーロウ」にスライドし(ときどき戻る)、彼がいぜん訪れた、アフリカ奥地での体験談が続いていく。

 かつて貿易会社にもぐりこんだマーロウは、コンゴ河を蒸気船でさかのぼるよう指令を受けた。それに従っていくうちに、どうやら、クルツという優秀な社員がずいぶん前から上流地域に入ったまま戻ってこなくなった、自分はその事情をさぐりに行かされているようだ、という背景を理解していく。強すぎる日差し、生い茂るジャングルと熱病、部下は人食い人種だったりもするなかで、マーロウは何に向かっていったのか、そしてクルツとはだれか――みたいな話だったと記憶する。

 じっさい読み直してみると、小説はそんなに長くないのにマーロウが出発するまでが意外と長い、というのがまず発見だった(それさえも発見だと私は強弁したい)。
 今日読んだところではまだクルツに会ってないんだけど、それこそ「暗黒大陸」のイメージそのままの未知なるコンゴをありありと描き出す文章にしびれる。異郷をイメージに沿って描き出すのはあまりよろしくない(正しくない)ことなのかもしれないが、ここで読むべきは、イメージに言葉で触れる、この独特の感じだと思う。
《俺は海岸を眺めた。船の横を通り過ぎていく海岸を眺めていると、謎をかけられているような気がしてくるものだ。眼の前の陸地が微笑み、眉をひそめ、誘いかける。雄大だったり、醜悪だったり、平凡だったり、荒涼としていたりする風景が、沈黙したまま、“さあ答えを見つけにおいで”と囁きかけてくる。あの大陸の海岸にはほとんど特徴がなく、まだ出来上がっていく途中のような生硬な険しさがあった。白波に縁取られた海岸線が、定規で引いたようなまっすぐな線を描き、ほとんど黒に近い濃い緑色の巨大な密林が、忍び寄る靄で輝きが曇っている青い海に沿って、遙か遠くまでずっと続いていた。》p34

 太字にしたのは私。こういうのがたまらない。

・殺し屋の映画らしい、というだけの前情報で、ジム・ジャームッシュの新作「リミッツ・オブ・コントロール」を見に行く→公式
 きっとカッコいいんだろうなあと予想していたら、たしかに、しかも予想以上にカッコいいのでニヤニヤしながら見る。不可解な依頼、いつでも自分のルールを崩さない主人公、謎めいたメッセージを伝えては去っていく人びと(半分以上は女性。美人)。
 なんだか村上春樹を逆進化させたみたいな印象。「怒る人もいると思う」というのがまたハルキムラカミっぽい。前作「ブロークン・フラワーズ」で主演のビル・マーレイが今作にも出ていて、役柄のギャップが味わい深かった。

・男女を問わず、外国の俳優の顔と名前がおぼえられなくて、ゆえに映画が苦手、という人間は私のほかにもいると思う。ニコラス・ケイジとかブルース・ウィリスくらい特徴がないとわからない。いかに毛髪が人の目を曇らせるかという話。


■ 9月20日(日)

・晩ごはんのために外出。きのう聞いた、「看板娘のいるインドカレー屋」をさがして入る。満腹して帰宅後、ネットのグルメサイトでさっきのお店を探してみると、実際に行った客のコメントの、じつに10割が例の看板娘に触れていた。どうかと思う。自分も含めて。
・考えたら、本物の看板娘を見たのは人生で初だ。


■ 9月21日(月)

コンラッドの『闇の奥』を最後まで読んだ。出てきた感想があまりに単純で、「こんなんでいいのか」と首をひねりつつ、とりあえず書いてみる。

・この小説、人に説明しようとすると、
【1】コンゴの奥地に引きこもって動向がつかめない、クルツという男がいる
【2】船員マーロウが、そのクルツに会うよう命じられてコンゴ河をさかのぼる
【3】あとになってマーロウが、その体験を「私」たちに語る

 ――という順番になると思うが、小説の実物では上の番号はぜんぶひっくり返り、【3】→ 【2】→ 【1】の順で出てくる。
 河をさかのぼる、というのが小説の進みかたと重なっており、だから何らかの事情で船が停滞してしまうと、イコール小説の進行がよどむ、ということになる。わざわざ書くこともないくらい当たり前の道理なんだけど、この一致ぐあいになぜだか感じ入った。
 これはおかしな感想で、だってこういうふうに見るなら、たいていのミステリ小説も、捜査の進みゆきと小説の進行が一致している(捜査が行き詰まると小説の進みがよどむ)ということになり、『闇の奥』はどこも珍しくない平凡な作品だということになる。
 ところが私にはそうは思えないわけだから、私はこの小説に何かしらの特別さを見ているはずだ。それは何だろう。

・『闇の奥』では、「謎の捜査」よりもずっと単純な、「いっぽんの河をさかのぼる」という、文字通りいっぽん道の進行にのみ従って小説の大部分がすすむ。そのせいでよけいな装飾が削ぎ落とされて、何かの原初に触れているように見える、ということだろうか。って、その「何か」がわからないと意味はないのだけど、わかっていたら書いている。
(いっぽん道の進行で、しかも、一行進むごとに小説ができていくという感覚がその「何か」である、とすれば話は簡単なんだが、簡単にすればいいというわけでもない)

・いっぽん道いぜんに堂々めぐりしている私をおいて、『闇の奥』では、上に書いたさかのぼりの順序、【3】→ 【2】→ 【1】に先立つ【0】として、クルツの来歴や信条があらわれる。
 そこのところの濃密な記述を読む私は、この男に対面するマーロウになっているのか、マーロウの話を聞く語り手の「私」になっているのか。読んでいたときのことを思い出すと、同時に、どちらにもなっていたんだろう。
 わざわざ語りを二重化しておいたからこそ、それを合一するという技が使えたんだね、とか醒めたふりをしても何もいいことはない。夢中になって読みました。
《俺はもう一つの魂を救うために、執念深く侵入してくる魔境の襲撃を一人で食い止めなければならないと思った。あの遠い場所で聴いた言葉――じっと静かに耐えている背後の密林の中で頭に角をつけた男たちが火明かりを背にうごめいていた時に聴いた彼の切れ切れの言葉が、俺のもとに戻ってきて、あの不吉で怖ろしい簡潔さでふたたび聴こえてきた。》p181

 たまりません。《あの不吉で怖ろしい簡潔さで》というのが特にいい。

 こちらが読んでいくのにつれて文章が小説になっていくという、当たり前すぎて見えなくなっている工程を、どういうわけだか前景化してしまう小説が自分は好きなんだなあとあらためて思った。漱石の『坑夫』とか、フィリップ・K・ディックとか。



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2009/10/03

読中日記 (8)


 ハードディスクが壊れたまま、1ヶ月以上放置していたデスクトップをようやく修理した。人から借りていたノートパソコンよりも、はるかに快適なのでおどろく。ごめん、人。

 私も忘れかけていたが、この「読中日記 2009夏」は、もともとピンチョンInherent Vice 読書日記のつもりではじめたはずだった。が、「予習」のつもりで読み出した『ヴァインランド』に意外に手間取ったのと、なにより私がひんぱんにサボるので、前回の7でようやく日記は9月に入り、Inherent Viceまだ読みはじめていない、ということになっている。
 Inherent Vice 、「ピンチョンなのにすごく簡単でびっくり!」みたいな感想をネットでちらちら見かけるくらいおどろきの読みやすさらしいんだが、私にはたいしてやさしくなってなかった。9月の第1週で最初の40ページだけ読んで、それから3週間、手に取っていないから、読解力が足りていないばかりか、根本的にやる気が欠けている気もする。もう10月だ。

 ところで、ずっと待っている宮沢章夫『時間のかかる読書』の紹介が、河出書房新社のサイトに出ていた。
  → http://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309019444
わずか1時間ほどで読み終わる短篇小説を、11年余の時間を費やして読み解きながら、「読むことの停滞」を味わいつくす文学エッセイ


■ 9月6日(土)

・注文したい衝動とたたかう。
  → ジョジョ4部“花札”『ジョジョの奇妙な花闘(はなばとる)~杜の花~』(「@JOJO」より)

 公式サイトから、受付終了が「2009年10月26日17時」なのをメモ。


■ 9月10(木)

・「たけくまメモ」のこの記事の最後で、晶文社が文芸部門を閉鎖するらしいと知って悲しい気持ちになる。だって晶文社といえば、私の本棚で不動の位置を占めるこの3冊をすぐに思い出すからだ。

 リチャード・ブローティガン『アメリカの鱒釣り』
 エイモス・チュツオーラ『やし酒飲み』
 ホルヘ・ルイス・ボルヘス『幻獣辞典』

 しかしよく考えたら、うちのこの3冊はみんな古本で買ったものだったから、私は晶文社にさっぱり貢献していない。でも晶文社は古本が似合う、そこがよい、と開き直る。


■ 9月15日(火)
穂村 そうそう、こないだ、菊人形展に行ったんですよ。菊の花がいっぱいあって、すごい数。そこに中学くらいの三人連れの女の子が来てたんだけど、一人の子が「これ全部菊かもしれないんだって…」て言ったんです。そしたら友だちが「“かもしれない”じゃなくて菊なんだよ!」って(笑)。「だって菊人形展って書いてあるじゃん」って言うわけ。で、言った子は黙っちゃったんだけど、僕、そのとき「これ全部菊かもしれないんだって」っていうのは詩だと思ったの。
一青窈 うん、うん。》p104

穂村弘『どうして書くの?』(筑摩書房)を読んだ。
 これは穂村弘が行った対談を集めた本で、話す相手は順番に、高橋源一郎、長嶋有、中島たいこ、一青窈、竹西寛子、山崎ナオコーラ、川上弘美、高橋源一郎(2回目)。
穂村 […] 「これ全部菊かもしれないんだって」って言った子は、会場に入ったとき、あまりに菊、菊、菊だらけの空間にびっくりしてしまって、見渡す限り全部菊っていう強烈な感覚を伝えるために、そういう不思議な日本語になってしまったんじゃないだろうか。で、何が言いたいかというと、僕たちの仕事って、結局「これ全部菊かもしれないんだって」って言葉を探すことですよね、毎日。
一青 そうですね。》p105

 自分たちのしている言葉を使う仕事とはどんなものなのか、みたいな共通テーマがあるようだけど、たとえば一青窈やナオコーラと話すときは、言葉のありかたについて「教える」感じがわりあい強く、それが川上弘美が相手になると、どうしても自分には小説が書けない、とほとんど「甘える」かのような姿勢になっていたりする。高橋源一郎とは「いっしょに考える」感じか。
 対談の内容とも連動するそんな姿勢の変化のせいで、どこを読んでもそれぞれに面白い(竹西寛子とは、なかなか話題を交差させられない様子がスリリング)。
 何年か前、たしかエッセイ集の『現実入門』が出たときに、ある有名な書評家が「穂村は自分がいかにダメで情けないかを笑えるエッセイに仕立てているが、コイツ、本当は何人もの女と付き合ってきたスケコマシなんだ、みんな騙されるな!」みたいなことを書いているのをたまたま目にして、私はもうほんとうに、心の底から、そんなことはどうでもいいじゃないかとあきれたのをおぼえているのだが、あのとき、自分がおぼろげに感じ取っていた「この人の書くものにとっては、事実はどうかなんて関係ないはず」という印象がどこから来るのかを、穂村弘じしんが山崎ナオコーラ相手に説明していた。
穂村 […] 僕も「どこまでがほんとうですか」とよく聞かれる。でも、言葉自体にそもそも運動性があるわけです。言葉が言葉を呼ぶというか、一行目が二行目を呼び、一行目と二行目が三行目を呼ぶというような。エッセイの場合は、自分がその運動性の中に入っていく感じですね。
山崎 読者がですか?
穂村 ううん、書き手が。渦を巻いている言葉の運動性の中に、自分の過去の経験や世界観を持ってざぶざぶと入っていくような……。
山崎 お、今、いい表現をしましたね。
穂村 言葉の渦そのものは書かせる力なんだけど、同時にそれは書き手の経験や考えを押し流して純粋な言葉の羅列に解体してしまう力でもあるから、そこへ押し流す力と書き手はせめぎあう。自分の経験や考えが出るという意味ではノンフィクションだけど、そのとき言葉の渦との化学反応のようなものが否応なく表出するわけです。》pp184-5

自分の経験や考えが出るという意味ではノンフィクションだけど」なんて、かなり過激なことを言っていると思う。ここらへんを読んでいると、それこそ「自分の経験や考え」から出発しながら、唯一無二の言葉の連なりとしてひとまとまりの文章を作り出す、岸本佐知子が連想されたりもする。
(川上弘美は対談の中で、穂村&岸本は文章意識が似ているという旨の発言をしているから、私の思い込みもあながち的外れではないと思う)
穂村 言葉の側からの要請に従うケースが多いので、矛盾がいっぱいあっても気にしないです。》

 それにしても、対談って、その場でぽんぽん言葉のやりとりをするんだろうに、穂村弘は自分の特異な考えの説明がすごくうまく、じゃあそれは特異じゃないんじゃないかと一瞬思わされるほどで、たとえとして出すエピソードも絶妙にわかりやすいし、相手が言い切れていない感覚の言語化まで巧みにしてしまう。かゆいところに手が届くとはこういうことかと舌を巻きながら、たまに独走しすぎているところでも笑わされる。
 あと、オビにも引用されているんだけど、
穂村 僕にやれるならバンドだってやりたいよ。フィギュアスケートだってやるよ(笑)。
川上 またそうやって偽悪ぶる(笑)。本当は言葉がいちばん好きなんだよね。フィギュアやバンドじゃなくて。》p247

 どう考えても、これは、ずるい。


■ 9月16日(水)

・きのうの続き。穂村弘の対談集『どうして書くの?』で、長嶋有の発言。「長嶋有」のほかに「ブルボン小林」名義でも仕事をすることについて。
長嶋 […] でも結果論ですけど、名前を二つもっていると楽ですよ。もちろん同じ人間が書いているわけだけれども、ナショナルとパナソニックだって、自分で言ってるだけで同じ松下だから(笑)。でも意味がある気がするでしょ。》p50

 太字にしたのは私だが、ここが無性におかしい(ためしに飛ばして読んでみると、この部分があるのとないのとでは大違いである)。何なんだろう、これと思いながらまた対談を読み返した。文庫化なった『ジュ・ゲーム・モア・ノン・ブリュ』もはやく買いたい。

 それとあと、長嶋有たちゴニングミの手になる同人誌「メルボルン01」、「イルクーツク02」の両方に、穂村弘はゲストとして呼ばれて座談会を行っている。友達同士の雑談みたいな場のなかで、穂村弘は『どうして書くの?』収録のどの対談にも勝るとも劣らない話芸を存分に繰り広げ、とても面白い。あの2冊はまだ手に入るのかわからないが、これは「自分はその同人誌を持っている」という自慢ではないと思うんだ。
 ちなみにこちらの長嶋有との対談では、“セックスがしたければセクハラはしてはいけない”という、ものすごいたとえが出ていた。あくまで、たとえである。




どうして書くの?―穂村弘対談集どうして書くの?―穂村弘対談集
(2009/09)
穂村 弘

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