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読中日記 (7)

《ピンチョンの「重力の虹」なんか カッコつけて 上巻読んでから 下巻買うつもりだったんで ついに絶版になって買えなくなっちゃった》

 ↑こんなセリフもある、『思ってたよりフツーですね』の第1巻を楽しく読み終えたあと、翻訳小説関係のイベント、「豊崎由美アワー 読んでいいとも!ガイブンの輪vol.4 ゲスト:榎本俊二」が、とっくに告知されて参加者を募集していたあげく、すでに終わっていたのを知る(→これ)。ぜったい行くつもりだったのに、まさか知れないとは。
 それにもおどろいたが、前回の「ゲスト:岸本佐知子の回」からすでに3ヶ月近く経つのにもっとおどろいた。あれは夏の初めだった。時間がすぎるのはこんなに速かったっけとおどろきながら、実家から届いた梨をむいて食べているんだから世話はない。梨はうまい。


■ 8月31日(月)

ピンチョン『ヴァインランド』を読み終えた。
・437ページあたりから、小説が急にスルスルほどける感覚がある。
 小説は1984年のシーンから始まるが、それより以前にどんないきさつがあったのか、もろもろの事情がようやく結びついてくる。「ああ、だからこうなっているのか」という納得が続々とやってきてゾクゾクする。
 とはいえ、謎解きの快感、というのとはちょっとちがう。そういう気持よさもたしかにあるんだけど、もっと妙な感じのほうが大きい。

・ふつう、小説の「現在」時ははっきり一点に定まっていて、だからそれ以前のことは「過去」となり、そっちのことが描かれても、それは「現在」の説明となるためにあるわけだから、小説は結局「現在」に戻ってきて、生きているのは「現在」だけになる。一点の「現在」だけが先に進んでいく。
「過去」が「現在」に奉仕するというか。「過去」の山の上に「現在」が成り立っているというか。

・いっぽう、『ヴァインランド』の場合、「過去」にあたるはずの部分も「現在」にあたるはずの部分も、どこをとっても同じ生々しさがある。過去を現在とうまく切り分けられない。
 それは、たんに「過去」にあたるはずの部分が質・量ともにふくらみすぎて(珍妙な登場人物・奇体なエピソード)小説に占めるウェイトが大きくなったから、というだけのことかもしれないが、理由はともかく、そんな書きかたの作品を受けとめようとすると、こちらの構えはどう変わるか。

・これもまず単純には、「現在」としてとらえる時間の幅が広がって、極端な話、この小説にはいわゆる「過去」がない、ぜんぶが「現在」なんじゃないかと思うようになる。
 しかし、矛盾するようだが大急ぎで付け足すと、時間の流れはたしかにある。それは作中をとうとうと流れている。むしろ過剰にうねっている。
 だって『ヴァインランド』は、登場人物の視線の動きとか、話題の焦点のちょっとした移動とか、ごく些細なきっかけを入り口にして、時間を大胆にジャンプしたまま戻ってこないとか、ある人物の来歴が単純に過去べったりで語られていると思っていたら、当の人物がその後の時点からコメントを挟んできたりとか、隙さえあれば時間を折り曲げ、ねじり、くっつけ、織り合わせるのに血道をあげる――いや、すごく楽しそうにそういう技を繰り出してくる小説なのである。回想、連想、フラッシュバック。実現しなかった仮定、まぼろし、あきらかなウソ。なんでもある。

・ページをめくりながら、流れを流れとして(ただし、ひとまとまりのうちに)体感するのが、『ヴァインランド』を読むことだと思う。
(前回書いた、権力との戦いかたがどうこうというのは、すくなくとも読む側にとっては、二次的な内容でしかないと思う)
 そうやって読んでいると、「過去も含めて現在である」、「現在のなかには過去からの流れが含まれている」、つまり「みんな現在である」というふうに感じられる。

・時間の流れがあってはじめて成り立つのが、「あれがこうだったから」→「いま、こうである」という、〈因果〉である。逆にいえば、作中で〈因果〉が成立していれば、時間の流れがあることになる。

・『重力の虹』までのピンチョンは、もろもろの対立する〈図式〉〈構図〉の構築に力を注いでいた、そういった〈図式〉〈構図〉は無時間的だが、それでは不充分だということで、『ヴァインランド』では推移する時間の流れを取り込もうとした、そのための作戦が〈論理〉から〈因果〉へのシフトである――みたいなことを、『ヴァインランド』訳者の佐藤良明が、この本に寄せた論文「忍びのエクリチュール」で書いていた。
 最初に読んだときには「ふーん」くらいしか思わなかったけれども、いま、『ヴァインランド』のうねりが残っている体で読み直すと「!!」となる。

・原因から結果にいたる〈因果〉の流れがどくどく脈打っている「現在」でもって、『ヴァインランド』にしかない時間ができている。それを「くそ、あと15分で寝る時間だ」と思いながら読む私は、読書中、2種類の時間のなかにいる。

・変な話になってきた。
 さっき「生々しさ」と書いたけど、小説を読んでいて時間が流れているのをはっきり感じると、それを読んでいる自分も、「たしかに生きている」という気持がする。いや、なんだか気持悪いことを云っているのは重々承知だが、これも小説の話。

・「秋はやがて冬になった」とか、「それは今をさること三年前の出来事だった。当時、」みたいなことが書いてあれば、それだけで時間は流れたことになるが、時間の流れがあるのと、時間の流れを読者に感じさせるのには大きなちがいがある。

・時間を流すんじゃなくて、時間の流れが入っている小説、そういうものが、たまにある。作中に圧縮された時間の流れを、数秒、数分、長くても数時間で、読者にも追体験させてしまうような。

・まえに長嶋有の『ねたあとに』を読んだとき→これ、「友人の物真似を繰り返しやっているうちにだんだん変化していって、やがて独自の域にまで達する」経過が逐一書かれているくだりに、私は「これだ!これなんだ!」とわけもわからず興奮したのだったが、あれはまさしく、いまの自分が生活している場で流れている時間とは別種の、小説のなかでたしかに流れている時間を、こちらにいながら同時に体感していることからきた興奮だったんだろう。

・その一点で、表面上は相当に似ていない『ねたあとに』と『ヴァインランド』はつながると思うんだが、あまり同意は得られないかもしれない。だから書いてみた。


■ 9月1日(火)

・遅い夏休みをいただく。遅いのはぜんぜん問題ない。




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読中日記 (6)

 このノートパソコンが重いのは、これのせいらしい。
 よかった、大食らいの門番はいなかったんだ。


■ 8月27日(木)

・池袋ジュンク堂に寄って帰る。
・たまに見かける謎の研究誌iichiko、2009年夏号(NO.103)の特集が「ミハイル・ブルガーコフ」なので買ってみた。みんな『巨匠とマルガリータ』を読めばいいと思う。
・「iichiko」には、ブルガーコフの住んでいたアパートにかつてさんざんされていたという落書きの写真あり。

《それはすべて権力の譬えばなしなのだ、権力が授乳期、成長期を経て組織的濫用にいたるという譬えばなしなのだと。》
『競売ナンバー49の叫び』pp63-4

ピンチョン『ヴァインランド』は、ようやく終わりが見えてきた。
・これだけたくさんの奇人変人と馬鹿みたいなエピソードが乱れ飛ぶ大きな小説を、小さくつまらなくまとめると、これは〈権力の根深さ〉の話だということになるのかもしれない。オビにそう書いてなくてほんとうによかった。

・権力は悪で、反権力のふるまいはオールオッケー、という単純な話ではなくて、たとえば、権力に歯向かう者のなかにも権力を求める部分があり、本人はそれを否定したくていっそう反権力の方向にのめり込む、そして権力はそこまで見越してその個人をまるごと吸い上げようとする、みたいな入り組んだ(でも、ありそうな)関係が、左翼活動家の女性が制服フェチだとか、ひどく俗っぽいかたちで描かれる(しかも娘に遺伝する)。
 そういうエピソードの洪水のなかを数百ページにわたって押し流されるとどうなるか。――権力は悪で、反権力のふるまいはすべてオッケー、みたいに見えてくるのである。あれ?

 受け取り損ねている気もするが、この権力という相手はものすごく根深くて、どんなに無関係そうな分野にもそれっぽくない顔をして滲出してくるから対抗するのはかなり骨、まともに戦って勝ち目はなく、対抗も戦いもどんなかたちでならありえるんだろう、というふうにもなっていくようなのだけれども、しかし、謎の幻視体験(説明なし)だとか、ゴジラに踏みつぶされた研究所(解明なし)だとかを節操なく取り込んで、いちおうの外枠はあってもその内側はユルユルに崩れている、そんな様子が読みどころになっている小説を、その無定型でぐずぐずな部分をぜんぶ捨象してまとめてしまっては、それこそ『ヴァインランド』の精神に反してしまう気がする。

・いや、『ヴァインランド』の精神なんてぜんぜんわからないし、いま書いたこともそのうち忘れてしまうが、この小説を語っているのが、以下の引用部分に出てくる鸚鵡たちにも似た、やかましくにぎやかな声であることはおぼえておきたい。
《101号のちょうど郡境の橋を越えたところに駐車した運転手は、シェリフがそれを聞きつける前に、積荷のすべてをさばいてしまった。その積荷が何かというと、これが大量に密輸された鸚鵡たち。そうでなくても相当過敏の住人は、口止めのためにテキーラを飲まされ続けていた鸚鵡たちの二日酔いの体が、ヌッとそびえる18輪トラックのクロームの側面に映し出されたのを見て正気を失ってしまったのか、サイケデリック・フラワーのような原色パターンをポワーンと見ながら、わけもわからず鸚鵡たちを買ってしまったふうであった。まもなくヴァインランドのどの世帯からも鸚鵡のおしゃべりが聞かれるようになった。一人の調教師がみんなまとめて訓練したのか、どれもまったく同じ調子でしゃべる――「イイカ、オウム、ヨクキキナ」。この鸚鵡たちは、そこらの鸚鵡とは違って、いくつかのレパートリーをでたらめに喋るのではなく、物語を、それもいくつもの物語を、延々語ってきかせることができた。堅物ジャガーとイタズラ猿のおはなし。色鮮やかな交尾レースや交尾ショーのおはなし。木を切り倒しに森に入る人間たちへの恨みつらみの物語。語り上手の鸚鵡たちは、この町の欠かせぬ家族の構成員となった。鳥の語る寝物語に、アップビートな安らぎに包まれて眠りの国に入っていった子供らは、そこで鸚鵡たちも顔負けの極彩色の夢の中を駆けめぐる。》p333


■ 8月28日(金)

・私の住んでいるアパートの隣は狭い空き地になっており、雑草と雑木が好き放題に生い茂っているせいでノラ猫や首輪のついた猫の遊び場になっていたり、いちにちフロ場の窓を開けておくと細い枝葉が入ってきたりしていたのだが、すこし前から「家、建てます」の告知看板が設置されていて、今朝起きると、すっかり何もない空間になっていた。拍子抜ける。
・ようやく口内炎なおる。


■ 8月29日(土)

・友達と飲み会。ジンジャーエールを10杯飲む。
・「現行のアンパンマンの主題歌はじつは2番で、1番の歌詞はずっと切ない」という話を聞き→これ、思いつきで「1番も2番もバイキンマンの心情を歌っているとするとスジが通るのじゃないか」と口走るも、いまググったら、わりとよくある見解だとわかって2ミリ落ち込む。Google以前にはなかった落ち込みなのかもしれない。


■ 8月30日(日)

・『ヴァインランド』、460ページあたりまでくると、『競売ナンバー49の叫び』の主人公、エディパ・マースの旦那だったムーチョ・マースが再登場する。
『競売』では中古車販売の仕事もラジオ局のDJもうまくいかずに困っていたムーチョ、『ヴァインランド』では「成功」していると言ってよさそうだけど、このへんの書かれかたはすこし切ない。
・そんなこともあって、『ヴァインランド』を読む人は先に『競売ナンバー49の叫び』を読んでおいたほうがよいかというと、べつに順番はどっちでもいいと思う。



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読中日記 (5)

 この古いノートパソコンにとっては、ウィルス対策ソフトがかなり重荷の模様。門番が大食らいで家計を圧迫、みたいなものか。

■ 8月23日(日)

・渋谷のユーロスペースで、チェコの人形アニメ「屋根裏のポムネンカ→公式、音が出ますを見る。監督はイジー・バルタ。チェコにはほかにイジー・トルンカという巨匠もいて(1969年没)、チェコアニメ特集みたいなイベントでまとめて上映されると、十中八九、混ざるのだった。

・ポムネンカは古い家屋の屋根裏に暮らす人形で、生活を共にするほかの人形やぬいぐるみ、ゴミのかたまりたちのアイドルである。いっぽう、この家屋にはほかにも「悪の帝国」があり、悪だから当然、ポムネンカを狙っている。
 これは面白かった。人形そのほか、物たちがにぎやかに動き回る世界は人間のそれとは別の原理で動いているようで(だって人形が動くんだから)ありながら、その境はきっちり分けられているわけでもないらしい。
 人形アニメという細かく厳密な作業の土台がけっこういい加減、というのはよい話だと思う。製作作業じたいがもつ説得力のおかげで、映画が設定上の支えを必要としなくなっているわけだから。
 屋内で発生する雨雲と洪水の描きかたがとくに気に入った。

・ついでに書くと、1ヶ月くらいまえに見た「ウォレスとグルミット」シリーズの最新作、「ベーカリー街の悪夢→公式のほうはいまひとつだった。なんだか話が単線すぎて拍子抜ける。
 29分で終わるこの新作のあとに旧作3本(「チーズ・ホリデー」+「ペンギンに気をつけろ!」+「危機一髪!」)がまとめて上映されたので、いっそう「今回はどうしちゃったんだ」の感は強まる。でも「ペンギンに気をつけろ!」のクライマックスは何度見ても感動するので満足して帰った。
・口内炎は治らない。


■ 8月24日(月)

・口内炎がますますひどくなり、食欲も失う。

ピンチョン『ヴァインランド』には、シンデルロと呼ばれる人たちが登場する。いや、人か? というのは、彼・彼女らは、死んでいながら成仏できず、ぼんやりしたまま現世にとどまっている亡者だからだ。幽霊かといえば姿は見えるし、生身の人間と話もできる。なんでそんなのが「あり」なのか!? といっても、そこにいるんだからしょうがない。
《「シンデルロって何なのかって? 正式には『シンデルロ的人格』っていってね。『シンデルロ』の意味は、『死んでいる、みたいで、ちょっと違う』」
「意味わかる?」タケシはDLに尋ねた。
「聞いた限りだと、要するに、みんな一緒にシンデルロ用のアパートとか、シンデルロ村のシンデルロ向けの家に住んでるってことでしょ。家っていってもユニット式ので部屋はガランとしてる。ステレオも壁の絵もカーペットも何もないし、家具類、小間物類、陶磁器類、食器類、どれもほとんど無に等しい。そういうことには関心ないんだ。[…] 」》p254

 たしか、現世に積み残したカルマの関係で人はシンデルロになるのだが――とか書きながら探していて、いま見つけた。シンデルロ誕生の合理的説明である。
《『チベットの死者の書』が我々に確約してくれるところによれば、死してまもない魂は、自分が死んだ事実をしばしば認めたがらないばかりか、躍起になって否定しようとする。人の死は無抵抗な出来事であって、死の国に入るさいに何の衝撃もなければ、あたりがちょっとばかり奇異に映ったからって、生前の世界も十分に奇異だったわけだから、気づかなくても、まあ無理はない。おまけに――とタケシは思う――このごろじゃ、TVのおかげで、生と死との境界はますます希薄になってしまった。ドクターもの、戦争もの、警官もの、殺人もの。〈TV〉では、過去数十年、人の死を軽妙なタッチで扱う番組が映され続け、それが〈死〉そのものの威厳までも奪ってしまった。まあ、媒体[メディア]という以上、死の国を媒介しても不思議はないといわれれば、それもそうではあるのだけれど。》p326

 書き出しの部分もいいし(確約て)、《生前の世界も十分に奇異だったわけだから》というのと、TVが《媒体という以上、死の国を媒介しても不思議はない》というところのユルい感じがとくによい。こういうユルさは、『V.』にも『競売』にも『重力の虹』にもなかった気がする。

・TVのせいで死の威厳が奪われる、というところで思い出した。数年前に量産された(今もか?)「大切な人が死んですごく悲しい。でも生き返った。また死んだけど私は生きていく。」タイプの映画のことを、殊能将之まとめて曰く、「泣けるゾンビ映画」。


■ 8月25日(火)

・シンデルロにも、「恒例の大パーティー」があるのである。
《毎年、シンデルロの社会では、幾世代にもさかのぼっての因果応報のパターンが立派な――すなわち罪と報いとが安定したリズムを刻む――長齢者を選んで表彰している。「立派」といっても、その物語は、どんどん複雑化する一方で、もともとの非業の恨みが何であったか、記憶が次第に怪しくなるうえに、現在抱えている小さな問題も解決の糸口すら見えないという、縺れに縺れたものである。一つの不正が次の不正へ、野球場で奏でられるオルガンの旋律みたいに変奏されていく、恨みに満ちた長い長い物語。そういう話がシンデルロは好きだったというわけではないが、それに対して敬意は表した。今宵の会の主賓こそは、シンデルロ界のエミー賞のウィナー、殿堂入りの名士、彼ら自身のロールモデルであったのだ。》pp327-8

《あったのだ》といわれても、「あったのですか」と受け取るしかない。あったのだ。ここでいわれる「因果の流れ」みたいなものが鍵らしいのだが、何の鍵かはいまひとつはっきりしない。

・「むかしこういうことがあった」→「だからこうなった」というのが因果だけど、『ヴァインランド』は「むかし」「その後」「いま」をごちゃごちゃにして語るせいで流れがつかみにくい――かと思えばその逆で、時間がスライドするのは「そういえば」「それというのは」というつながりに乗っかってのことだから、スライドするたびに、因果はエピソードを束ねるたくましい流れとして強調されることになり、ありありとそこに脈打っている。というか、時間を異にするエピソードのそのような並べかたじたいが因果の表現なのだ、と思う。
 が、シンデルロはきほん無気力なので、そういうことは教えてくれない。


■ 8月26日(水)

 パソコンが壊れた。おれが何をした(因果)。



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読中日記 (4)


 人から借り受けたノートパソコンで更新。


■ 8月17日(月)

 古本屋でなんとなく買った高島俊男『漢字と日本人』(文春新書)をめくってみたら面白く、読んでいるうちに寝る時間になる。

■ 8月18日(火)

『漢字と日本人』を読み終える。もともと中国のことばを書き記すために作られた漢字を、自分たちのことばの表記に無理やり流用したむかしの日本人。そのせいで日本語はどこがどう変なものとしてできあがっていったのか。
 複数の音読みをもつ漢字があるのはなぜなのかさえ、あらためて考えてみると事情を知らなかった(というか、それが奇妙だと思ったこともなかった)私にはとても面白かった。当たりまえだと思っていたことにも起源と理由があることを説明してくれるので、著者がたいへんえらそうに喋るところにかえって好感をもった。


■ 8月19日(水)

・ブログ「東京永久観光」で、スタンダールの『赤と黒』(1830)を山川の世界史教科書とあわせて読んでいるという記事(→これ)を見て「おお」と思う。

・というのは、私も先月、スタンダールではないけどフローべールの『感情教育』(1869)を、やっぱり高校生向けの世界史参考書をめくりながら読んでいたからだった。
『感情教育』は、田舎生まれの青年フレデリック・モローが七月革命後のパリにやってきて、ひと目ぼれした人妻に近づこうとあれこれもがく話だった。目標はそのひとつながら、パリの街にはさまざまな階級の老若男女が群れ集い、それぞれ好き勝手に彼を翻弄する。純真だったフレデリックは、むしろだめな男になっていくように見えなくもない。それも教育。
 何年にもわたって思いを焦がし、ついに勝負の一手に出たフレデリックを嘲笑うかのように勃発する二月革命、なんて展開をみせるこのような小説を読んでいると、なんだか「とてもかなわない」気がする。世界史と並んで歩く世界文学、なんていうのはいつごろまで「あり」だったのかというのは、小説よりも受け手の側の問題だろうか。
 自分で書いていることがよくわからないが、『感情教育』が面白かったのはまちがいない。私は岩波文庫(生島遼一訳)の上下巻で読んだけれども、9月に別の訳が河出文庫に入るらしい(→これ)。また読むかも。

・ところでこの『感情教育』、上巻の終わり近くにこんな記述があって、
《世の中には他人の間にあってただ仲介の役目だけをする人間もいるのだ。橋を渡るようにふみ越えると、人はさっさと行ってしまう。》p391

 ここから思い出すのは村上春樹『風の歌を聴け』(1979)の冒頭2ページめ、
《様々な人間がやってきて僕に語りかけ、まるで橋をわたるように音を立てて僕の上を通り過ぎ、そして二度と戻ってはこなかった。僕はその間じっと口を閉ざし、何も語らなかった。》

 という部分で、たしかに作中には「僕」が『感情教育』を読んでいる場面があったのだった。だから何、といわれても困る。

・それとあと、長嶋有の『ねたあとに』(2009)では、小説家コモローがオーエ賞のオーエさんから「宿題」として英訳版のSentimental Education を読むようにいわれて苦労していたのだった。
 読み終えたのだろうか、と気になってしまうほどあの小説にはこちらとの地続き感がある。日常はどこから歴史になって世界史になるのか。

・『ねたあとに』読者にはたまらない、2009年のムシバム(虫が出ます)。


■ 8月21日(金)

・カレーを大量に作ったが、口内炎ができかけていてあまり食べられない。

・そういえば先月は、『感情教育』に続けて、おなじフローベールの『サランボオ』(1862)も読んだのだった。
 こちらは意外にも紀元前3世紀のカルタゴを舞台とする変な小説で、読んだのは古い角川文庫の復刻版(部孝訳、上下巻)。よって、カルタゴの神官や元老院はもとより、奴隷や都市から追い出される蛮族の傭兵たちまで旧字旧仮名で議論するという、なんだかすごいことになっていた。

・その流れでさらに朝比奈弘治『フローベール『サラムボー』を読む』(1997)も読んでこちらも面白かったが、いまはジュリアン・バーンズ『フロベールの鸚鵡』(1984)を読み返してみたい。なにしろ、まえに読んだときには『ボヴァリー夫人』さえ読んでいなかった。

・そして『ヴァインランド』は、この数日手に取っていない。


■ 8月22日(土)

・口内炎が悪化。プリンとヨーグルトで生きる。





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