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猿、ネームプレート、熊

 テレビで見た「藤子・F・不二雄大全集」のCMが、往年の「藤子不二雄ランド」を思わせて泣ける。ろくに買ってもらえなかったのに。「今月はこの3冊!」


《「あたしたち、どのみちそれくらいしか能ないでしょ?」と彼女は言った。「抽象的な話をやりとりするだけ。喋って、また喋って」。》

「モンキービジネス」のvol.6 箱号を買ってきたら、リチャード・パワーズの短篇が載っていた。「七番目の出来事」。これ、2年前に『囚人のジレンマ』が出たときのイベント→これで朗読されたものだ。あのときはぜんぜん内容をつかめなかったのであわてて読む。
 読んでもよくつかめない。
 パワーズは短篇でも大きい。そのうち読み直して感想を書く。


宮沢章夫の「富士日記2.1」を見ていたら、気になる記述があった。
「Jul. 17 fri.」分。
ところで、河出書房の編集者が、こんど発刊が予定されている、あの、横光利一の『機械』を12年間近くにわたって読んだ連載をまとめた単行本について、エッセイのような、批評のような体裁をしているが、しかし「小説」ではないかとメールに書いてくれ、とてもうれしかった。しかも、「後藤明生」さんの作品群を思い出したとさえ書いてくれ、それは身に余る、というか、むしろ申し訳ないほどの言葉である。なぜかわからないがしばしば言われる。『サーチエンジン・システムクラッシュ』もそうだった。

 10年くらい前に(!)この人の書くものを読むようになったころから、“毎月毎月、横光の「機械」をただただ読み続ける連載”のことはたびたび言及されていて、「そんなことをしている人がいるんだ」「てか、そんなことをやっていいんだ」ということじたいがおどろきだったが、そのくせ掲載誌を見たことは一度もなく、いつか1冊にまとまるのを楽しみにしているうちに“マルクスの『資本論』を読み続ける連載”が先にまとまったりして→これ期待はなおさら高まっていたから、「機械」のほうもいよいよ読めるかと思うと楽しみでならない。
 考えたら、こんなにも出るのを待っていた本はほかにない。厚ければいいなと思う。
 で、刊行はいつなのか河出書房新社のサイトをのぞいてみると、もうすぐ出る本リストのなかには入っていなかったのでまだちょっと先のようだが、10年待ったあとではそれが何だというのだ。よろこんで待つ。厚ければ厚いほどいいなと思う。


■ で、その河出のサイトで、タオ・リンの『イー・イー・イー』は8月10日に出ることを知った。訳者は、おそらく日本で最初にこの小説を紹介した山崎まどか。(→「ユリイカ」2008年3月号。ここの下のほう)
 とにかくあのときの紹介があまりによかったのでもう一度貼ってしまう。
《―― これは今の日本で受けそうですよね。高学歴低収入の男の子が主役で。彼は故郷に帰ってピザ・ハットで働いているんですけど、やさぐれていて、ジュンパ・ラヒリがすっごく嫌いなの(笑)。別れちゃった女の子のこととかうじうじ考えている合間合間に「ジュンパ・ラヒリ、何だそれは? 名前か?」とかジュンパ・ラヒリへの呪詛が出てくる(笑)。そんな感じで田舎で暮らしているうちに、急に熊がでてきて、車のドアをはずされて地下の国に拉致られちゃう。それで熊の住んでいる地下世界にはイルカも住んでいるんですけど、その熊とイルカがやたらと彼の日常にからむんです。イルカは生きる理由が見つからないとかそういう形而上的な悩みですさんでいて、いろんなセレブリティーを誘い出して殺しているんです。ウォン・カーウァイとか(笑)。うまく説明できないんですけど、一種の青春文学なんですね。》
衿沢世衣子『シンプルノットローファー』(2009)

シンプルノットローファー
太田出版

 中高一貫の私立女子校を舞台にした学園漫画。
 先々週あたりに立ち読みした「週刊文春」の読書欄で、ブルボン小林「キャラ」ではなく「個性」を描いていると紹介していたのが気になって買ってきた。タイトルも妙にかっこいい。

 短篇の連作になっている。20数人のひとクラスで、毎回ばらばらの1~3人くらいに焦点が当てられる。学校内で起きる何かしらの出来事に対する彼女らの反応と対応が描かれ、その繰り返しで季節も過ぎていく。
 とくに派手な話はないんだが、これが面白い。
 ある回では教室のうしろを歩いていただけの子が、別の回では主役扱いになっている、というようなプロローグ+13話を通して読んでいくと、なるほどひとりも同じ人がいない。
 同じにならないように描き分けているんだからそれは当たりまえのようでもあるんだが、たとえば、すごく機械に強い子(夏休みは電機屋でバイト)だとか、レタリングがうまい子(食費を削って映画館通い)、マッドサイエンティストの卵(化学部)みたいな極端な人ばかりなら、たしかに描き分けるのはやりやすいのじゃないかと思われる。
 すごいのは、とりたててそのような「特別さ」のない子、つまり普通の子たちも、その普通さを描き分けようとしているところである。
 そういう子たちは、外見的にも区別がつけにくい。
 いま、この眼鏡の子(ツダ)と話している子は、2話前でハンダゴテを使っている子(りょうちゃん)のそばにいるのと同じやつのはずだが、さてその名前は何だったか。
 答えのわかるコマがいつもうまく見つかるとは限らない。最終ページにクラス全員のプロフィールが載っていて、そこを見てしまえばくだんの子のあだ名はわかり、その名で呼ばれるシーンがあった気もするんだが、それはどこだったか。あるいは、負けず嫌いの「エイ」がバドミントンをしている横でひたすらヨモギを集めていた子には見おぼえがあるが、ほかのどの回で出てきたのだったか。
 なのでまたページをめくり直すことになる。
 しかしながら、名前がわからなくても(ちゃんとさがせば見つかる)、ほかの登場シーンが見つけられなくても(これも見つかる)、その子がどんな子かは、その場その場での普通の言動を通して描かれてしまっている、ということのほうがずっと大事である。
 これは地味だけどすごいと思う。というか、地味なままでやっているのがすごい。個性って、べつに才能に由来するものではないことが、ページをめくっているうちにわかるのだから。結果、だれだかわからなくても区別ができる。矛盾しているようだが本当だ。
 なので人物表は、巻頭ではなく巻末に、おまけ程度に付いているので充分である。髪の黒い子たちがとくに混同されがちでもかまわない。最後まで読んで、また最初のページに戻ると(ぜったいそうしたくなる)、台詞を喋っている子の横で、ただの脇役に見えていた子までもどんな子だったかを自分は知っていることになる。
 最初に短篇連作と書いたけど、このような読みかたは、たぶん長篇のそれである。

 毎回都合よくだれかが成長したりはしないが、かといって、小さな変化が起こらないとも限らない。そのような日常を描いた1冊のなかで、とくに気に入ったのは7話め「ハイロースト」(性格が真逆の2人が週番になって、だらしないほうがずっと引け目を感じつつ、距離を測る)の最後のコマだったけど、ところで、このだらしないほうといっしょに133ページでお弁当を食べている、わりと派手めの2人がどんな人間だったのかは、残念ながらフィーチャーされている回がなかったのでいっそう知りたくなった(おそらく1人は、プロローグの放課後、教室の机に鏡を立ててメイクしている子だと思うんだが)。

 ところで、才能によらない個性の描き分けという荒技を、しかも外見(絵)に頼るわけにもいかない小説でやれるものか考えた場合、「やれる」そして「やってみせた」例のひとつが、ブルボン小林 長嶋有の『ぼくは落ち着きがない』(2008)だと思う。こちらは高校(共学)の図書部の話。これの表紙を描いているのがまさに衿沢世衣子だったので、なるほどと思われたことである。


ぼくは落ち着きがないぼくは落ち着きがない
(2008/06/20)
長嶋 有

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